ハウリング ハローウィン(たまにはこんなのもね)
私はカーテンを閉めて部屋の灯かりを落とし、デスクライトを手元に寄せ、爪を削っていた。いつも通り、左手の小指から始めた。たった今薬指に入ったところだ。この小指は、素晴らしい仕上がりだった。うっすらと、かつ同じ幅に切り揃った。それはまさに曲線という数学概念の受肉ですらあり、凪いだ浜辺に打ち寄せてはきわめてゆっくりと崩れていく、静謐な象牙色の波頭だった。撫でれば、汐が香るのではないか。私はそんな夢想に囚われ、何度も小指の爪を右手の平でなぞった。
しかしずっとそうしている訳にいかない。これもまたいつもの様に、隣の左薬指に取り掛かる。薬指。彼女は世界へ流し目をくれるがごとく、ほんの少しだけそっぽを向いている。美しい曲線を見せて、少したわんでいる。その艶のある
中指との間に張り出した三角州に刃を当てた瞬間だった。ドアフォンの電子音が、無様にも私の橈骨を激しく痙攣させた。私は呆然とする。刃は薬指に深く食い込み、私の赤黒い血が、薬指の桃白色の衣を痛ましく汚していた。手ひどい喪失感とともに、私は彼女を見つめた。額に傷をうけ、ドレスを穢された彼女。
丁寧にハンカチで薬指を拭うと、血はすぐに止まった。こんな私の所に、ましてこの夜分に訪れる者は誰だろう。ひとまず返事をして階段をゆっくりと下りながら、私はさらに薬指を拭った。だが血は皮下から染みているらしく、爪の向こうに浸食した彼女の汚れは、どうしても消えなかった。
階下のドアを開けると、驚くほどの喧騒が微風と共に押し寄せてきた。人間、人間、人間。私が呆けていると、先頭の少女が笑いながら言った。そしておもむろに手を差し出した。
「トリック・オア・トリート」
見れば、彼女には耳が四つあった。灰狼の耳と、ヒトの耳とがある。喧騒の中心へ目をやると、さらなる群衆が列をなし歓声を上げながら、角を曲がってこちらへ向かってくる。何という数だろう。
ささやかな我が家の周りは昼夜ともに閑静であり、私は機械車両の駅か、首都に立ち寄った際にしか、これほどの群衆を見たことが無い。しかし、見た事のある顔が沢山混じっていた。大人達だ。彼らは、近隣の商店の主たちだった。私は、しばしば彼らと取引を交わしていた。彼らは、私の払う対価に礼を言っていた。私だって、彼らの商う肉や魚やパンに、深く満足していた。そしてもちろん、礼と感謝を失した事など無いというのに。
〝もてなさざれば騙す〟とは、どういう符合なのだろう。
聡明だった彼らは、他者に択一を迫ることの傲慢さと無礼さを、突然に忘れてしまったようだ。であれば答えよう。そして思い出してもらわねばならない。私に何かの選択を強いる、などという事は、私自身を除く誰にも、決して出来はしないというその事を。
私は失望と決意とに満ちて、群衆の前にでた。彼らは行進を妨げられ、戸惑っているようだ。ゴム製の蝙蝠のような扮装をした男が、テレビカメラを私に向けた。テレビカメラというものを、私はテレビの画面の向こうでしか見たことが無かった。とても、奇妙な感覚だった。
ああ、諸君。人外の
優しかった君たちは、何をどうしてしまったのだ。いいだろう。人間に扮していたひとりの異形が、災禍がここにいる。それはやはり、諸君には許せないことだったのだろうか。では、やはり君たちの敵は目の前にいる。すでに、人でない君たち。君たちは、衆寡敵せずなどという人間のコモンセンスに、もう取り憑かれてはいないのだろうね? おのおの自らの不死と偏在を信じて、私を打ち倒そうと来たのだろう。そうでなければ、こんな愚行はないのであるから。私は君たちを信じよう。敵として認めよう。このような不本意な形とは思わなかったが、私は、君たちの敵として復活を遂げる。
私は右腕の
どこへ行く。いまや敵となったかつての隣人たちよ、どこへ散ろうというんだ。逃げないで欲しい。ほら、明けるまで死者の夜を続けよう。今夜は、私が人として死んだ夜なのだからね。
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