野球場と車椅子

贋作師

野球場と車椅子

 高校生の頃、急に予定が入って観に行けなくなった、という理由で知人からプロ野球の観戦チケットを譲り受けたことがあった。僕自身は野球に対して何の興味も無かったのだが、観戦日は休日で予定も入っていなかったため、暇潰しに観に行くことにした。

 当日は真夏の中でも指折りの暑さで、家の外に出た瞬間に尋常じゃない熱気が体に絡み付いてきた。駅が近くに無いため球場へ行くためにはバスを乗り継がなくてはならないのだが、一つ目のバス停に着いた時点で僕の体は汗だくになっていて、僕は観戦しに行かずに家に引き返してしまおうかと思った。どうせ家に帰っても両親の喧嘩を見せられるだけじゃないか、と自分を説得し、僕はバスへ乗り込んだ。

 一つ目のバスにはあまり乗客はいなかったのだが、野球場前へ続く三つ目のバスには多くの乗客がいた。どうやら野球観戦に行く者がほとんどのようだ。一体球場にはどれだけの人が集まっているのだろう、と僕は今さら憂鬱な気分になった。

 飲み物を家に忘れて来たことに気付いたのは、球場前でバスを降りた時だった。熱中症だけは避けたかったので、長蛇の列ができている自動販売機で清涼飲料水を数本買い、手続きを済ませて球場へ入った。

 案の定球場内は人で溢れ返っていた。メガホンを持った子供連れの家族、お揃いのユニフォームを来たカップル、何やら大声で騒いでいる学生の集団……見渡す限り一人で来ている者はいなかった。どうやらここは僕のような人種が来る場所ではないようだ。なんだか肩身が狭い。

 人混みをかき分けながらどうにか外野自由席の最後列に座ることができ、僕はようやく一息つくことができた。隣には小学生くらいの少年とその両親が並んで座っていた。これから始まる試合への期待を語る彼らの顔は皆一様に幸せそうで、なるほど、こういう家庭もあるのか、と僕は感心した。

 帽子を目深に被り、タオルを首に掛け、水分を摂りつつグラウンドを見てみると両チームの選手たちが試合前のウォーミングアップを行っているのが見えた。

 野球選手を直に見たのは初めてだった。練習だというのに彼らの目は真剣そのもので、そこには僕がどうあがいても手に入れることのできない〈熱〉のようなものが宿っている気がした。

 どうしてあそこまで真剣になれるのだろう、と僕は思った。恥ずべきことだが、僕は生まれてから一度も何かに真剣になったことがない。自分の意思の強さというものを信頼できないからだ。何かに興味が湧いて取り組んでも、明日の僕はそれに飽きてしまっているのではないか。明日までに飽きなかったとしても、一ヶ月後、一年後の僕はきっと飽きているだろう。そして飽きた後の僕はこう思うのだ。〈どうして僕はこんなくだらないことに熱中していたのだろう?〉

 そう考えると、とても何かに真剣になろうとは思えなかった。放課後にグラウンドで練習をしている運動部員を見ても、何をそんなに必死になっているんだ、という感想しか浮かばなかった。

 軽い気持ちでここに来たことを後悔した。活力に溢れた人々を目の当たりにしたことで、僕は自分がいかに怠惰な人間かを痛感させられることになった。

 

 帰ろう。ここは僕が居るべき場所ではない。そう思い、僕は立ち上がった。 

 そのまま試合も見ずに出口へ向かおうとしたとき、僕が座っていた席よりやや後方に設置された車椅子席がふと目に入った。

 打球を防ぐ為にアクリル板が設置されたその席には、車椅子に座った少女とその両親らしき男女がいた。

 僕は車椅子の少女に目を奪われた。

 彼女を一目見た瞬間、僕を包んでいた喧騒が消えた。

 僕と同年代だろうか、生真面目そうな顔は明確な意図を持って造られたかのように整っていて、瞳はアクリル板越しにただグラウンドを見つめていた。夏だというのに彼女の肌は不自然に白く、病弱で儚い印象を僕に与えた。

 しかし、僕が彼女に目を奪われたのは、その整った顔立ちのせいでも、肌の白さのせいでもなかった。

 彼女が視界に入った瞬間、奇妙な感覚に襲われたのだ。

 今まで生きてきて初めての感覚だった。

 例えるなら、ずっと昔に失くして以来ずっと探していたものが、不意に見つかったときの感覚に近いかもしれない。

 誰に教わるでもなく、僕はこの感覚があの車椅子に座った色白で生真面目そうな少女を見たときにしか感じられないものだということを知っていた。彼女が他の有象無象とは違い、僕にとって何か重大な意味を持つ存在だと知っていた。

 それから暫く彼女に見とれていたが、不意に耳に喧騒が戻ってきた。グラウンドを見るといつの間にか試合が始まっていたようだ。一体どれほどの間あの少女を見つめていたのだろう、と僕は恥ずかしくなった。

 他の観客は自らの応援するチーム(或いは選手)が活躍する度に歓声を上げていたが、僕の試合に対する関心は既に無くなっていた。

 僕はしばしば後ろを振り返り、車椅子の少女を盗み見た。

 彼女は無表情でグラウンドの試合を見つめていた。彼女の両親らしき二人は試合に何か動きがあると大袈裟に喜びながら少女に何か話しかけていたが、二人の顔からは疲労が滲み出ているように見えた。少女は二人に話しかけられる度に無表情のままで返事をしていた。

 彼女はどうして野球を見に来たのだろう、と僕は思った。あの二人に「気分転換になるから」とでも言われて半ば強制的に連れてこられたのだろうか?それとも自分の意志で野球を見に来たが、試合が思いどおりの展開にならないからあのように無表情なのだろうか?それともただ感情が顔に表れないだけで、胸の内ではしっかりと試合を楽しんでいるのだろうか?

 

 

 そんなことを考えていると、不意に少女がこちらを見た。

 

 目が合った。

 

 ただ目が合っただけなのに、僕は心臓が締めつけられたような錯覚に陥った。こんなことは初めてで、僕は咄嗟に目をそらすこともできなかった。

 すると、今まで無表情だった彼女の顔に、明確に焦りの色が浮かんだ。

 

 どうしたのだろう、と僕は思った。

 

 危ない、と少女は叫んだ。


 その叫び声までもが、僕の心を強く揺さぶった。

 咄嗟に前を向くと、視界の上端に僕の目前に迫る何かが見えた。

 それが野球ボールだと気付いた瞬間、体が勝手に動いていた。

 右手に激痛が走った。僕は無謀にも飛んできたボールを素手で掴み取った。グローブを持ってくるべきだったな、と後悔した。ボールが客席に飛んでくるという可能性を、僕は完全に見落としていた。

 すっかり日焼けした男性スタッフがすぐに駆けつけてきた。彼によると、僕は打者の一人が打ったホームランボールを捕ったようだった。

 僕は彼に怪我の有無を訊かれた。掌の内側が痛んだが平気なふりをしてボールを返そうとすると、持ち帰って構いませんよ、と笑顔で言われた。

 スタッフが去った後、周りの観客が羨望の眼差しを僕に向けてきた。参ったな、と思った。僕はホームランボールなど微塵も欲しくないし、持ち帰っても両親に捨てられるだけなのに。

 僕は閃いた。そうなるくらいなら、誰かにあげてしまえばいいのだ。

 すぐ隣の家族連れにでも渡してしまえばいいのに、僕はこのボールをあの車椅子の少女に渡したいと思った。

 何でもいいから、彼女と話すきっかけが欲しかった。このまま彼女と関わらずに帰ったら、必ず後悔するという予感がした。

 そして、できればこのボールを渡すことで彼女が僕に好意を持ってくれればいい、と思った。

 しかし、彼女のもとへ歩みだそうとしたとき、僕の行動が彼女に不快な思いをさせてしまう可能性に思い至った。

 善意というものがいつでも好意的に受け取られるとは、限らない。

 僕が彼女へボールを渡したら、なぜこの人はわざわざ私にボールを渡しに来たのだろう、と彼女は考えるかもしれない。それは一人だけ車椅子に座っている私を哀れんだからだ、と彼女は考えるかもしれない。僕がこれからやろうとしていることはもしかしたら、彼女に〈お前は他人とは違う存在だ〉と言い放つことと同義なのかもしれない……

 僕は自分に呆れてしまった。おいおい、いくらなんでもそれは考え過ぎだろう?ボールを渡せば彼女は心の底から喜んでくれるかもしれないじゃないか。

 しかし、一度僕の行動が彼女に不快感をもたらす可能性を考えてしまうと、僕は動けなくなった。

 彼女はボールを張り付けたような笑顔で受け取ったあと、心の奥底で悲しむかもしれない。そして、僕を恨むかもしれない。それは僕の望むところではない。僕は彼女に……

 

 ……どうして僕は話したことすらない少女に嫌われるのをこんなに恐れているのだろう?

 

 ぼうっと考えていると、ボールを誰かにひったくられた。

 犯人は隣の家族連れの少年だった。

 どうやら時間切れのようだ。呑気に考え事をしている暇など無かったのだ。

 少年の両親が謝ってきた。ボールを大事そうに握りしめている少年を見て取り返す気にもならず、僕は少年にボールを譲った。

 その後すぐに試合は終わった。

 

 結局、僕は最後まで少女に話しかけることができなかった。





 案の定、それから僕は彼女に話しかけなかったことを後悔し続けることになる。

 そもそも彼女は大声を出してまで僕に危険をしらせてくれたのだ。彼女が叫んでくれなかったら、僕はボールに被弾していただろう。単に彼女に話しかけたいだけなら、ボールなど渡さずとも近寄っていって「声をかけてくれてありがとう」とでもいえばよかったのだ。そんなことも思いつかないほど、あのときの僕はどうかしていたらしい。

 あの日からもう十年以上経ったのに、彼女の顔は僕の脳裡に焼きついている。何度も見たはずの学生時代の同級生の顔は忘れているのに、野球場で一度見かけただけの車椅子の少女の顔を鮮明に覚えている。

 街中で車椅子を見かけると、彼女が乗っているのではないか、と目で追いかけてしまう。

 野球を連想させるものを見る度に、記憶の器が彼女で満たされる。

 後悔を散りばめたような僕の人生の中で、あの車椅子の少女に関する後悔だけが異彩を放っている。

 何事にも大して興味を持てなかった僕が、一人の少女について十年以上も考え続けている。

 

 おかしな話だ、と僕は夜中に一人で笑う。

 寝室の明かりを消し、ベッドに横になる。

 僕は目を瞑る。

 微睡みの中で僕は気づく。

 いや、本当は彼女を一目見たときから気づいていた。

 

 僕はあの少女に恋をしているのだ。

 

 今まで気づいていないふりをしていたのは、この僕が誰かに一目惚れするだなんて自分でも信じられなかったからだ。

 僕のような人間にとって、それは世界を揺るがす大事件だったのだから。

 しかし僕の恋は不発に終わり、彼女はもう僕の人生から消えてしまった。

 僕は眠りに落ちる。

 意識が途絶える寸前まで〈夢の中では彼女と話ができますように〉と願いながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 


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