第8回 潜入!お色気大作戦

 澄んだ硝子窓を覆う豪奢な窓掛けに指先を差し入れ、ロゼールは隙間を覗き込む。眼下に迫る大聖堂前広場の喧噪を見おろした。通りには衛兵が列を成し、賓客用の車寄せまで路面を確保している。皆が王女の到着を待ち構えているのだ。

 かりかり。

 地霊術で加工された高級硝子に淡い日除けの一枚を残し、ロゼールはそっと窓辺を離れた。ここは要人向けの高級宿屋、しかも大聖堂を正面に見る高級客室だ。

 部屋数はあれどハルタと二人の相部屋で、仮面のように愛想笑いを崩さなかった支配人も、裏ではどこぞの若い貴族の逢瀬か何かだと思っているに違いない。

 かりかりかり。

 どういう訳かハルタには、ここぞというとき何処からともなく金が湧いて来る。

 今回はどうやら先日の老アルフレッドが資金源のようだが、これも邪神の手管だとしたら相乗りしているロゼールも同罪だ。こんなので破門が解けるだろうか。

 かりかりかりかり。

 ロゼールの不安もお構いなしに、もうひとりの自分はさっきからずっと夢中で菓子を食んでいる。クロエと対峙して以来すっかり顕現の定着してしまった純潔の誓約だ。窓際の卓を陣取って抱えたビスケットを一生懸命に削り取って行く。

 それは手に載るほど小さくロゼールを戯画化したような姿をしていた。こうして菓子を与えていればおとなしいが、時折ロゼールから飛び出してはやれ座る時はしっかり膝を閉じろだの、むやみにハルタに近付くなだの口煩く責め立てるのだ。

「よく食べるなおまえ」

 ロゼールが呆れて純潔の誓約に呟くと部屋着のハルタが隣室から顔を出した。

「あら可愛いじゃない」

 手にした盆には性懲りもなく茶器と菓子盛りが載っている。餌付けで篭絡するつもりか純潔の誓約に際限なく餌を与え続けているのはこの邪神の使徒だ。

安心あんふぃんしろ、これくらいのことでわふぁひ揺らがないゆらふぁない

「菓子を吹くな」

 ロゼールは頑なにビスケットを離さない純潔の誓約から菓子の粉を払った。人形のような身体に触れてふと、これほど食べた菓子はどこに行くのかと訊ねる。

「私はおまえだ、当然ここに入る」

 馬鹿にしたような視線で差されロゼールはその先の自分の下腹に手を遣った。

「え?」

 確かよく分からない満腹感があった。慌てて純潔の誓約から菓子を取り上げる。

「あっ、何をする」

「馬鹿者、私を肥え殺す気か」

 純潔の誓約はむうと膨れてすぽんとロゼールの胸に飛び込んだ。ロゼールと一体なのは持ち運びに便利だが、よもや腹の中まで繋がっているとは思わなかった。

「あらあら仕方ないわね。じゃあこれはアタシたちで戴きましょうか」

 ハルタがそう言ってロゼールに菓子を勧める。手を伸ばし掛け、危うく気付いてハルタを睨んだ。太ったら絶対ハルタのせいだ。もっと朝夕の修練を増やさねば。

 ハルタが外の喧騒に耳を欹て窓に歩み寄る。大聖堂の沿道には人がみっしりと詰め掛けていた。綱を渡して押し留める衛兵の向こうを警護を従えた馬車が通る。

「あれが王女さまかしら?」

 遠い馬車の窓越しに少し俯いた少女が見える。上が窓枠に途切れているうえ黒いヴェールで顔がよく分からない。ただ身体に似合わぬふくよかな胸が目についた。

「たぶんリリアーテだ」

 何となくハルタの視線を辿ってロゼールは口を尖らせた。ロゼールよりも小柄なくせに、そこだけつんと張っている。それほど王女の胸の印象は強い。恐らくヴェールで顔がよく見えない沿道の市民もその部位で王女と認知しているのだろう。

 だがロゼールは知っている。僚友に隠し通せると思ったら大間違いだ。今となっては国家機密だがハルタもそれを知ったらどう思うか。ロゼールが悪い顔をする。

 ふとロゼールの脳裏を何かが掠めた。あれは何処かで。だがよく思い出せない。

 ロゼールの一件(もちろん無実だが)以来、滅多に表に出なかった王女がここ最近は足繁く大聖堂に通っている。こうして毎日のように大聖堂を訪れるのは大司教との会談のためだ。この状況の打開策について話し合っていると噂されていた。

 ルクスアンデルの血統で女王、王女の人気は高い。国王が強引に神閥偏重を施行したことによる混乱に、民衆は国王より王女に解決の期待をかけているのだった。

 専用路は使われなくなって久しいが王城と大聖堂の距離は遠くない。要人との会談や商談に際しては裏手に警備の厳しい専用の車寄せもあるのだが、あえて沿道を通って馬車を正面に着けるのは、そうした姿勢を見せる演出なのかも知れない。

 王女は大仰に沿道を警護付きの馬車で行き来する。警備も衆目も大聖堂の正面に集まっている。その時刻を見極めることがロゼールの狙いだった。

 けして上宿の贅沢に興奮して宿泊を延長していた訳ではないのだった。

 ブロンエグリーズの裏路地でクロエと邂逅して以来、ロゼールは考えを改めた。ロゼールが諸悪の根源と噂されるこの状況下で皆を説得するのは現実味がない。クロエでさえ問答無用で斬り掛かって来るのだ。つまりは正攻法をきっぱり諦めた。

 ロゼールの目的はただ一つ。破門の解除と律令神アラサークの再帰神だ。否、二つ。内心はハルタの転宗も目論んでいたりするので正確には三つだった。

 これらを叶え現状を打破する最短距離は大聖堂の神器を使うことだ。度重なる不幸にロゼールの思考は完全に短絡していたのだが他に手法を思い付かなかった。

 ルクスアンデルには教皇領も一目置く太古の神器が三つある。神誓の王笏オースセプター神罰原器プロトバニッシャー破門砲エクスコミュニケータだ。これらは大聖堂の宝物庫に厳重に保管されている。

 アラサークの破門を解きロゼールの再帰神を可能とするには神誓の王笏オースセプターが必要となる。ついでに邪神の洗礼を解くためには破門砲エクスコミュニケータが必要だ。ついでにハルタを巻き込めば純真無垢な紅顔の美少年の出来上がりだ。

 じとりと半眼で睨む純潔の誓約を無視しつつロゼールは算段した。何しろ高位の聖騎士としてさんざん警護や式典に訪れた大聖堂だ。課題はあるが潜入は容易い。

 もちろん、こっそり宝物庫に忍び込んでこっそり神器を使うだけで万事解決元通りという訳にもいかない。むしろそこからが始まりなのはロゼールも自覚している。あの日王女の私室で何が起きたのか、その解明こそが名誉回復の次の段階だ。

 鼻息の荒いロゼールだが実は国賊的行為よりも不安に思うことがあった。これらの計画はハルタにとって不都合なはずなのに依然ロゼールに協力的なことだ。

 ハルタがロゼールを破門すれば話はひとつ早い。なのにそれはしないと頑なに言う。ロゼールが足掻くのを楽しんでいるだけなのか。

 ハルタが何を考えているのかが分からないのだった。


 集まった民衆のせいで聖堂正面の警備は人手が割かれ、一方で裏手は手薄になっていた。リリアーテは夕の祈りに参加してからの帰城予定で、おそらく本堂の閉館まではその状態が続くだろう。それを狙ってロゼールは裏手からの潜入を試みた。

 大聖堂の裏手は関係者以外立ち入り禁止だ。教会公務を執り行う聖務堂を始め、教会関係者の生活に関わる施設が小さな街のように併設されているからだ。

 そこでの一切が修道院的に禁欲的で規則正しい生活かというと実は意外と聖職者の生臭い商談の場であったりもする。流転神罰には本分だが、二大神閥に拠って立つ大聖堂には暗部とまでは言わずとも商売っ気は体面も気になるところだろう。

 当然、裏手には許可が要る。一定区分の以外は必ず案内人も付く決まりだ。

 だがロゼールとハルタは二人きりだ。小走りに、だが悠々と少し身を寄せて歩いて行く。変態馬に乗ってスカーロフを回った際の不可視の術だ。これもハルタの杖のおかげ、正確にはロゼールが倒して取り戻した魔神の力のおかげだった。

 ファルテリンデの裸襟締めに基づくものらしいがハルタに寄り添っている限りは人にぶつかりでもしない限り気付かれない。ロゼールが不思議に思うのは、むしろ神々との接点である大聖堂に霊的な障壁が何もなく魔神の力が使えることの方だ。

「あった、こっちだ」

 ハルタの袖を引いてロゼールが囁く。間近の頬にぎこちなく目を逸らした。誰にも見られていないとはいえ息がかるほど身を寄せて歩くのは微妙に居心地が悪い。

 目線の先、裏手の車寄せには大型の馬車があった。大布を被って身を隠した者がぞろぞろと聖務堂に入って行くところだ。何だあれと思いつつ、ロゼールとハルタは裏手に回って人のいない通廊を走り抜けた。大司教の執務室はまだまだ奥だ。

 ルクスアンデルの神器は大聖堂の宝物庫にある。一般的には翼廊の先にある飾り格子で封じられた部屋なのだが、本物は地下深くの真の宝物庫に管理されていた。

 その入り口は大聖堂の奥端にある聖職者席の裏手に隠され、聖職者席の裏手に繋がる秘密の地下通路はこの聖務堂からしか行くことができない。実に面倒だ。

 つまりロゼールのミッションは、最初に大聖堂裏手の聖務堂に侵入、大司教室で宝物庫の鍵を奪い、地下通路を通って大聖堂に渡り、人の溢れる夕の祈りを尻目にこっそり聖職者席の裏手を経由し、大聖堂地下の真の宝物庫へ向かうことである。

 そうして神誓の王笏オースセプターを使ってアラサークの破門を解き、破門砲エクスコミュニケータを使って邪神教の洗礼を解く。完璧だ。ロゼールはふんすと鼻息を吹いた。後はどこか田舎の教会で秩序神閥コスモスリーグの洗礼を受けるだけだ。

 何なら留石村に潜伏してじっくり名誉回復の機会を伺ってもよい。

 最大の難関は大司教室で宝物庫の鍵を奪うことだが、そこはまあ多少の暴力に訴えれば何とかなるだろう。口調は変だが小柄で気の良いおじさんだ。不意を突けば容易い。この際相手が大司教であっても構ってはいられなかった。

 通路に人の声がしてロゼールは思わず身を隠した。数人ほど集まっているが端は通れそうだ。大丈夫、見えていないはずと言い聞かせ、ゆっくりと通り過ぎる。

 そこには若い司教見習が数人。痩せて年老いた小間使いを囲んでねちねちと叱咤している。小間使いは大きな箒を後生大事に抱え小さく身を竦めていた。その足許にはガチョウが一羽、自分以外はみな置物とばかりに勝手にうろうろしている。

 廊下の掃除が行き届かなかったか、世話をするガチョウが邪魔なのか。小間使いを叱りつけている司教見習いたちは孫ほどの歳だった。大聖堂勤めの良家の神職は自分の生まれが地位そのものだ誤解している。聖職の本分すら学んでいないのだ。

 腹を立てたロゼールは思わず連中の後ろ頭を思い切りぶん殴った。やばいと気付いて走って逃げる。ちなみに若いとはいえ司教見習はみなロゼールよりも歳上だ。

 角を曲がって壁に身を伏せる。通路はちょっとした騒ぎになっていた。ふんと鼻を鳴らして隣にいるはずのハルタに目を遣った。だがいない。ハルタが見えない。

 走ったせいで術の範囲を出てしまった。つまり自分は見えているということだ。

「そこのお前」

 不意に声を掛けられロゼールは飛び上がった。


 *****


 ロゼールは咄嗟に頭巾を口許まで引き下ろした。通路の先で聖務職員が呼んでいた。心なしか相手は苛立ちと焦りが混じったような顔をしている。

「こっちだ早く来い。余計な所に行くんじゃない」

 こっそり逃げる隙を窺うロゼールに向かって職員はそう言って手招きをした。

 誰かと間違えているのだろう。少し逡巡したものの騒ぎになるくらいなら誤解に乗じようと決めた。ハルタも近くにいるのなら、きっと付いて来てくれるだろう。

 聖務職員は奥へと進む。大司教室もそろそろだが、職員は階下におりた。妙に厳重で胡散臭い場所だ。大聖堂に似つかわしくない甘ったるい残り香が漂っていた。

 控えの小部屋に商談中と思しき背を眺めロゼールが案内されたのは、ざわざわと人の気配のする場所だった。入ると先に感じた芳香が強く鼻を刺す。部屋の中ほどに引かれた仕切り幕を潜ると大布を被った幾人もの女性が横一列に並んでいた。

 そういえば車寄せで見掛けた。ロゼールは頭巾の下で眉を顰めた。女性たちはみな顔を隠しているのだが、その他が割と剥き出しだった。エルアリーナの傾国過激団を思い出す際どい衣装で、実際あれを真似ている者もいるような気がする。

 決して顔を上げてはならない。足元しか見てはならない。世話係と思しき聖務職員が繰り返し注意していた。女たちもそれを心得ているのか、くすくす笑いながら従っている。むしろ顔を隠しているぶん煽情的に身体をくねらせている気がした。

「おい、見たら帰れなくなるぞ」

 茫然としていたロゼールが小突かれた。まさか自分はこの女性たちと間違えられたのか。確かにスカートの裾は短いけれども、この格好ってそんなにアレか。

 世話係が奥で何者かと会話をしている。よくは聞こえないが、右から何人目がどうの左から何人目がどうの。この頃にはロゼールも察しがついた。虫唾は走るが憤怒の相の純潔の誓約が胸から飛び出そうとするのを抑えるのに必死だった。

 不意にロゼールの前に世話係が立った。

「ああ服はそのままで」

 誰が脱ぐか、殺すぞ。ロゼールがケープの下の黄金の翼エルドールを握り締める。

「その靴がとりわけ気に入ったとのことだ」

 世話係に押されるままロゼールは歩いた。触られるのも嫌で早足で進んだ。背中から微かに、こんなのいたかしらと女性たちの怪訝な気配が伝わって来る。

 足許を見ながら部屋の奥を抜けた。決して相手を見るな。歩きながらまたくどくどと繰り返し説明を受ける。ハルタはどこだろう、これって乙女的にかなり危険な状況なのでは。いっそ全員を斬り殺して逃げようか。そう思ううち辿り着いた。

 背中の扉の閉まる音に身体がびくんと跳ねる。垣間見えたのは思いも寄らぬ豪奢な部屋だ。小柄ででっぷりとした半裸の男がロゼールに背を向けて立っていた。

「顔を上げるな、顔を上げるな。私を見てはならんぞ。その目が潰れるゆえな」

 声に俯けば靴先が毛足の長い敷物に埋まっている。荒い呼吸が近づいて来た。

「良いな、良き良き、実に良き」

 高くて歌うような声がした。何だろう癖のあるそれに聞き覚えがある。だが理性が考えるなと訴えた。影と音と暑苦しい気配がロゼールの間近をぐるくると回る。

 徐に白くぷっくりとした指先がロゼールの脚に伸びた。エナメルの滑らかさを確かめるように膝上ブーツを撫で摩る。ぞわぞわと這い上る怖気にロゼールは声にならない悲鳴を上げた。裾との間に露出した肌が羽根を毟った鳥みたいにぶつぶつとざわついている。

 純潔の誓約が飛び出して、指先で喉元をひと振りして殺れと言った。

 だが剣を取ろうとしたロゼールを察したのか太い指がが腕を掴む。それはじっとりとして柔らかく巨大な幼虫が這うような感触がした。ロゼールの気が遠くなる。

「ささ、これを、これを」

 その手がぎゅっとロゼールに押し付けてきたのは最近も見た乗馬鞭だ。こいつも老アルフレッドのお得意さまか。ロゼールが呆れ返るうち男は足許に身を投げ出した。

「打て、打つがよい。ささ早く早く」

 尻を高く突き上げ左右に振る。

「ささ、ささ」

 やめて吐きそう勘弁してお願い何で私がこんな目に。嫌悪に震えて早口に呟くうちロゼールにふつふつと怒りが込み上げて来た。踊るような尻の動きに血が昇る。

「黙れ豚」

 思わず叫んで尻を蹴った。踵が尻に突き刺さり男が化鳥のような叫び声を上げた。豚のくせに何だその鳴き声は。ロゼールは鞭を思い切り振り被った。

「豚、豚、豚、豚」

 力任せに鞭を打つ。派手な鞭声と悲鳴のたびに尻がびくんびくんと高く跳ね上がる。肩で息をしながらロゼールは鞭を放り出し黄金の翼エルドールに手を掛けた。

「さすがにそれでやったら死んじゃうわね」

 ロゼールの耳許に呆れたような声が囁いた。

「まあアタシは別に構わないけど」

 気付けば男は敷物に突っ伏し、白目を剥いて気を失っている。

「ハルタ」

 振り返って縋り付き、ロゼールは思わず泣き出した。

「もうイヤだ」

 継ぎ接ぎの神官衣に顔を埋めつつ鞭の感触を思い出してええうと嘔吐く。

「ちょっと、ここで吐かないでね」

 扉の開く気配はなかった。ハルタはいつから隣にいたのだろう。もしかしたら最初から傍にいたのでは? きっとロゼールの窮地を眺めて笑っていたに違いない。

「だんでぼっどばやぐででぎでぐでだがっだど」

 ロゼールがハルタを睨んで責めた。怒って泣きながら洟を啜っている。

「さすがに何を言ってるかわかんないわ」

 しばらくの間ぐずぐずとハルタにしがみ付いた後ようやく自分を取り戻したロゼールは改めて辺りを見渡した。どうやら部屋はこういった用途に造られている。いつまで経っても叫び声に駆け付ける気配もない。いつものことなのだろう。

 ロゼールは嫌々視線を落とし、足許で悶絶する男に目を遣った。嫌な予感がして、ずっと顔を見まいとしていたのだ。捩じれて横を向いたそれに視線を向ける。

「ぎゃああ。やっぱり大司教猊下」

 それは紛うことなきルクスアンデル大司教、秩序神閥コスモスリーグ六代神官サロモン・ジスカールその人だった。五回も司祭に転生しておきながら、いったい何処に行き着いたというのだろう。

「こういうのって修道的な魔境なのかしらね。自分を鞭打つうちに他人に鞭打たれることに目覚めた、みたいな」

 ハルタが半笑いでいいかげんなことを言う。ロゼールはハルタを睨んで逡巡し、手で触れるのが嫌だったので爪先で蹴って大司教猊下の丸い身体を転がした。

 これが本物の大司教なら鍵を持っているに違いない。警護の際に聞いた話が本当なら扉も通路も宝物庫も全て大司教が肌身離さず身に着けた鍵で開くはずだった。

 果たしてそれはあった。こんなことをしながら首に掛けていた。真面目なのか何なのか。この国の保安が不安だ。決してロゼールが言える立場ではないのだが。

 当然この部屋も大司教の鍵で通れるようになっていた。専用路を介して大司教室や大聖堂にも繋がっている。つまりは図らずも計画通りだ。大層な寄り道だった。


 気を取り直したロゼールは、ハルタと二人聖務堂の地下通路を駆け抜けた。およその方向を手掛かりに大聖堂を目指す。いかがわしいことに活用しているだけあって専用通路には誰もいない。鍵が一切の認証なのか防衛機器の類もなかった。

 ここかと思ってロゼールが扉を開くと、うっかり聖職者席に出た。幸い席には誰もいなかったもが主祭壇の向こうは広い身廊いっぱいに礼拝者が犇めいている。

 ロゼールは慌てて首を引っ込めた。ちょうど夕の祈りを終えたところか、幸い人々は祭壇に背を向け帰り始めている。子どものように祭壇を覗き込もうとするハルタの裾を引き留め、ロゼールは床に蹲ったままハルタを通路に押し込んだ。

 覗き見た主祭壇には聖堂詩篇を刻んだ古い石碑が飾られていた。第三の詩篇は削られた跡として造り込まれている。大聖堂のそれはあの日地下の祭壇で見た石碑に酷似していた。もしかしたらあれが石碑の原型だったのかも知れない。

 宝物庫に続く扉は近くのはずだ。かつてロゼールが純潔騎士団の総長に就任した際、国家の守護職として国王、大司教らと共にここを訪れたことがあるのだ。よもやこんな形で再訪することになろうとは。在りし日の大司教の後ろ姿が尻を振る。

 あの姿を思い出すとロゼールの感慨も何だか微妙な具合になってしまった。

 ロゼールは見つけた隠し扉を開けハルタの手を掴んで引っ張り込んだ。

 宝物庫へと続く長い階段を下る。幾つかの扉を開け放ち最後の大扉を開くと人を感知して地霊術の燈が灯った。自動施術は薄暗い地あかりだけ、広い部屋の隅にはまだ暗がりが蟠っている。天高はあるが重苦しい空気の漂う立法形の空間だった。

 中央の台座には三本の杖が並んで立て掛けられている。神誓の王笏オースセプター神罰原器プロトバニッシャー破門砲エクスコミュニケータ。式典で人の目に触れるのは全て精巧に作られた模造品だ。神代に造られた重厚感。そこにあるのは限られた者しか目にすることができない本物の神器だ。

「これがそうなのね」

 ハルタが華やいだ声を上げる。声は遠い天井に吸い込まれた。

 王笏の名が付くのはひとつだが、およその聖杖がそうであるように神器も柄頭の形状を除いて形状は似通っていた。ただしそれぞれの権能は大きく異なっている。

 神誓の王笏オースセプターは無条件で神々の赦しを得、破門砲エクスコミュニケータは無条件で神々の庇護を剥奪し、神罰原器プロトバニッシャーは神々の怒りを顕現して信徒に能わざる者を物理的に消去する。

 神罰原器プロトバニッシャーを元に開発された神罰器バニッシャー黄金の翼エルドールにも組み込まれているが、それは遥か昔に機能のみが取り出され目の前のような形状は失われていた。ロゼールの持つそれらは幾百分の一の権能が分かたれたものに過ぎないとも云われている。

「こら気安く触るんじゃない」

 ロゼールがハルタを制する。先に何かされては厄介だ。

 教皇領が列強に対しルクスアンデルの庇護を宣言しているのはこの神器のおかげといっても過言ではない。使い方を誤れば神の築いた秩序は一変してしまう。

 そう思うとロゼールの勢いも急に萎えた。世界の秩序と個人の事情を秤に掛けて今さら自分の身勝手で神器を使っても良いものだろうかと正気に返ってしまう。

 不安に隣に目を遣るとハルタは微かに目を細め興味深気に神器を眺めていた。

 ロゼールにとってこれはアラサークの信心を取り戻す第一歩だ。邪神と縁が切れたなら、これ以上あのような恥ずかしい思やもいやらしい思いをしなくて済む。

 同時にハルタにとってはたったひとりの可愛くて有能な信者を失なう災難だ。ならばもう少し神妙な顔をすべきでは? 考え直せと泣いてお願いすべきなのでは?

 そう思うとロゼールはだんだん腹が立ってきた。

「ねえちょっとロゼール」

 おっと今ごろ気付いたか。ふふんとロゼールが胸を張る。小突くハルタに顎を反らし、聞いてあげなくもないわよと目を向ける。ハルタは神器を指差して言った。

「この破門砲エクスコミュニケータ、偽物だわ」

「え、うそ?」

 虚を突かれてハルタの指す聖杖を振り返った。そう言われてみれば何となく艶に重厚感がないかな程度には思う。今さらロゼールが惜しくなって見え透いた嘘を吐いたのでは? そう思ってハルタを見るも当人はまるできょとんとしていた。

「これって模型よ?」

 ロゼールは思わず破門砲エクスコミュニケータを手に取った。実物に触れたことはないが確かに安っぽい。柄頭の細工は精巧だが間近に見れば木工に箔を張った展示用の模型だ。

「そこまでだロゼール」

 声と同時に戸口から人影が飛び出した。一瞬でロゼールの間近に距離を詰める。

「げ、クロエ」

 ブロンエグリーズの裏路地から逃げ去った旧友だ。あのときのあられもない嬌声を思い出してロゼールが赤くなる。クロエも気付いて耳の先をかっと赤く染めた。

「あれは忘れろ」

「うん、ごめん」

 クロエの出で立ちは同じだが身形は隙なく整えられており、まるで物陰で慌てて梳き直したかのように髪の艶も良かった。そのくせ頚にはハルタの緋色の首輪がそのまま残っている。

「次は殿下を狙うかと張っていたが、まさか神器の簒奪が目的とは」

 クロエがロゼールの手にした破門砲エクスコミュニケータに手を掛けて引く。ロゼールが抵抗すると思ったのだろう。それは二人の手をすっぽ抜けた。

 勢い余って台座に当り、ぱかんと砕ける。

「あ」

 思わず声を揃えて凍り付いた二人の足許を割れた柄頭が転がって行く。

「あああ」

 クロエが真っ蒼になってハルタとロゼールに目を向けた。これは偽物だと明かそうか、それとも少し黙って優位に立とうか、ロゼールが意地の悪い思案をする。

「ロゼール、ロゼール。よもやおまえが生き延びていたとはな」

 そのとき高く歌うような声が戸口からロゼールを呼ばわった。

「今度は誰だ」

 誰何しながら大扉を振り返るも声の主を間違えるはずもない。あの場で顔こそ見られなかったが同じ衣装は誤魔化しようがなく、変な汗がだらだらと流れ出た。

「あらあら、お尻は大丈夫かしらね」

 ハルタがくすくすと笑いながら余計なことを呟く。豪奢な祭服の小太りの男が薄暗がりから進み出た。司教杖に寄り掛かかり、どこかぎこちない足取りだった。

「大司教猊下?」

 六代神官サロモン・ジスカール大司教の姿にクロエが呆然と呟いた。手にした破門砲エクスコミュニケータの残りに気付いて慌てて後ろ手に隠す。

「これはその、ついうっかり」

「偽物、クロエそれ偽物」

 ロゼールが小声で叫ぶ。

「え?」

 逆上した大司教の目にはクロエもハルタも十把一絡げに映っているのだろう。

「おのれ奸賊、今度こそ、今度こそ」

 皆ロゼールと同じ敵対者だ。大司教は叫んで杖で近くの柱を打った。癇癪を起こしたように衝動に任せて何度も叩く。ロゼールとクロエがどうしたものかと顔を見合わせていると、大司教は柱を覗き込んだ。

 ああここだったかと柱の一部を押した。

「あ」

 足下がぱっくりと消え失せた。

 不意に辺りは漆黒の伽藍洞に覆われ、四角く切り取られた天井が頭上にみるみる小さくなって行く。誰かの、もしかしたら自分の悲鳴が長い長い尾を引いた。

 暗闇を落ち、凍て付いた風に身を切られながら、確か前にも同じ目に合ったっけなどとロゼールはぼんやり思い返したのだった。

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