第7回 好色の王都~復讐の黒い騎士
ルーラント地方北部ベラルゴ市。ルクスアンデルの中心地、王都スカーロフはそこにある。神代より続く古い歴史の上に押し拡げられた広大な都市で、ロゼールとハルタが旅立った留石村の大きさは、この街の一区画にさえも及ばない。
王政直下のこの都市は王権に基づく宗派偏重の影響もまた大きかった。
国の突然の布告により、
教皇領が現状を認めるかの如何に拘わらず、この状況が続けば王国の変容は確定的だ。最悪の場合は遠からず国が割れる。列強の狭間にある小国ルクスアンデルは大戦の火種にも成りかねななかった。
「よもや魔神の企みだろうか」
ロゼールははたと思いついて言った。
ハルタに促されて取った整理札の桁の多さに戦慄する。これも魔神の仕業では? 顔を寄せて札を覗き込んだハルタは肩を竦めて待合席の後ろに歩いて行った。
傾国過激団に至っては魔神たちが街ひとつを掌握していた。もしも魔神がこの状況を生んだとしたら王都陥落は国家の支配に等しい。想像といえど背筋が冷えた。
「そんな訳ないでしょ、王様のしたことだってみんな言ってるじゃないの。ほらそこ、さっさと席を詰めなさいな」
自説をハルタに囁くも陰謀論かぶれを見るような生温かい目で見られた。ロゼールはむうと口を尖らせたまま長椅子の端に腰掛け、ぎゅうぎゅうと尻を滑らせた。
二人はスカーロフの状況を知るべく都市外縁区の商工会分室を訪れていた。ロゼールは何気に飛び込んだのだが、相談窓口が延々と順番待ちだったのである。
何だか窓口に並んでばっかりだ。
情報を得るなら酒場が通説かも知れないがロゼールはまだ未成年だ。聖騎士に禁酒の誓約はなく、むしろ師匠は大酒呑みだったが、解禁まではまだ数年ある。
商工会と同様に教会も方々にあるのだが、この神閥偏重の騒動で情勢は一層危うい。勝手知ったる王都といえどロゼールはより慎重に行動するよう心掛けていた。
何しろエルアリーナの街では慢心から魔神の挑発に乗り、手酷い敗北を喫した。
聖騎士として(今もその資格が残っているか不明だが)魔神に敗れただけでなく、乙女として(こちらはまだ辛うじて純潔の誓約は保たれている)お嫁に行けなくなるような危機的状況に陥ってしまった。思い出しては悶々として寝付けない。
このままではゼナイド師匠と同様に行き遅れは確実だ。いやこの例えは危ない。思い浮かべただけで鉄拳が飛んで来そうだ。(あえて微妙に意識を逸らして)こうした慢心は二度と繰り返すまい、ロゼールはそう決意も新たにしたのだった。
商工会の待合の長椅子にハルタと並んで腰掛けてしばし、あからさまではないが時おり二人を覗き見るような視線にロゼールはそわそわと落ち着かなかった。
分室とはいえ部屋は広く人の姿もそれなりだ。顔見知りこそいないものの王女に並んで公務、広報を数多く務めていたロゼールの顔を知る者は少なくないだろう。
もちろんロゼールも正体が知られないよう気を遣っていた。緋色の頭巾を目深に被り、愛剣は鞘ごと晒に巻いてケープの下に隠している。ただその刀身がロゼールの座高に収まるはずもなく背中のケープは幟の如く頭上に突き出していたのだが。
裾の短い女給服という微妙な出で立ちも目立つのだが、衣装に慣れたロゼールには思いも寄らない。美少年のハルタと共に人目を引かないはずがなかった。
「君たち、順が来るまでこの老人の相手をしてくれないかね」
二人に声掛けたのは老人と自称するのも慎ましい身形のよい紳士だった。
銀色の髪と顎髭は丁寧に整えられ、その細やかな所作も洗練されている。動作の際に垣間見えた上衣の裏地の色使いには伊達を楽しむ大人の遊び心が感じられた。
老紳士はアルフレッド・サンテールと名乗った。スカーロフの資産家で趣味が高じた取引の相談にここをを訪れていたのだと言う。ハルタとロゼールを誘った老アルフレッドは上位会員用の個室に二人を招き入れ湯気の立つ飲み物を振舞った。
「近頃は我々も肩身が狭い、君たちもさぞや息苦しかったでしょう」
そう言って微笑み掛ける。
ロゼールは訳が分からずきょとんとしていたが、ハルタには自明だったらしい。
「アナタの衣装も
そう応えて艶然と微笑んだ。
「あー」
老アルフレッドは
「なに、私のような老い先短い者をわざわざ咎め立てぬだけのことですよ」
確かにこの神閥偏重の政令下では
「小父さまはこちらでどんなお仕事をしてらっしゃるの?」
ハルタはロゼールの目的も忘れて茶飲み話の体勢だ。歳の差は孫ほどだが、あるいはそのせいか、美少年の妖しい瞳に老アルフレッドはどこか浮わついている。
「私は単なる道楽者です。趣味で誂えたものを商品化しようと思いましてね」
「それでこちらに登録を?」
「ええ、古い馴染みがいるものですから」
老アルフレッドは悪戯っぽく微笑んで二人の前に面取りのある長手の箱を取り出した。中に入っていたのは握り手の付いた腕ほどの長さの棒だ。丁寧に編まれた革製で先端には箆のようなものが付いている。ハルタはそれを手に取って軽くしならせた。微妙に手慣れている。
「乗馬鞭かしら」
「よくご存じだ」
「最近は使わないと聞いたのだけれど」
「ええ、これは私が特別に仕立て直したものです」
老アルフレッドは嬉しそうに頷いてハルタの前に身を乗り出した。鞭を目の前に翳して素材や構造のあれこれを微細に語り始める。頬が紅潮し鼻孔が膨らむ。
「長年の探求を経て作り上げた打つ者打たれる者に最上の喜びを与える一品です。痛みとその痕の美しさ、何よりその音。どうです一度お聴きになりませんかな」
焦点の合っているような合っていないような目でハルタを見つめ、妖しく見つめ返すその瞳にとうとう感極まった老アルフレッドは服を脱ぎ出した。
いやいやいやいや、ちょっと待って。ロゼールは慌てて老アルフレッドを押し留めた。私たちこの街に着いたばかりで何も分からなくて。などとロゼールも慌てふためいて自分でも何を言っているのかよく分からない。
老アルフレッドは我に返って、これは年甲斐もなくと照れながら襟飾りを締め直した。上着を羽織り直し咳払いをひとつすると冷めたお茶の手配にと席を外した。
「まさかあれも魔神じゃないだろうな」
老アルフレッドが席を離れた隙にロゼールはハルタに小声で耳打ちする。
「夢を追う素敵な紳士じゃないの」
「いやな夢だな」
個室の事務員が部屋にやって来て茶を淹れ直して行った。茶菓子も一層盛りが派手になり、会話の様子を伺いながらもロゼールはそわそわと菓子に手を伸ばした。
「ところで叔父さま、お気づきだと思うのだけれど私たちこの街は久しぶりなの」
仕切り直しの雰囲気に乗ってハルタが話の流れを変える。
「そうなんです、どうしてこんなことになってしまっているのか分からなくて」
慌ててビスケットを飲み下し、相乗りしたロゼールもぶりぶりの声音で訊ねた。
王都の状況もそうだがロゼールは自身の不在がどう理屈づけされているのかも気に掛かる。留石村に飛ばされてから随分経っている。何か手掛かりでも掴めれば。
老アルフレッドは表情を改め、やや声を落として二人に話し掛けた。
「ところで
思わず口のお茶を吹き、ロゼールは気遣う老アルフレッドに咽ながら大丈夫と応えた。いきなりの本人登場に心臓が跳ね上がる。俯いて頭巾の端を引き下げた。
「実は彼女がこの騒動の発端なのです」
老アルフレッドの話によれば、
信仰篤きその
幸い王女の信仰は揺らがなかったが勧誘に失敗したロゼールは姿を晦ました。王女は親友の裏切りに動揺して臥せり、事情を知った国王は激怒した。大司教サロモン・ジスカールに迫り
この状況に
だがこうした状況を止められなかったのは女王の長期不在も一因だった。
血族の力関係や尻の敷かれ方からしても本来なら女王が国王を諫めたはずだ。女王は副司教ゼナイド・ブランシェールを伴い長期の地方順拝の最中だったのだ。
大司教の弱腰な態度も副司教がいれば大きく変わっていただろう。一説によれば彼女は元凶の愛弟子ロゼールを討つべく一足先に旅立ったとも噂されている。
「うわああ師匠が、師匠が来る」
老アルフレッドの話に動揺が極まり、師匠の噂にぷつんと切れてロゼールは机をひっくり返した。ハルタがふんと当て身を喰らわせ泣き叫ぶロゼールを黙らせる。
「ごめんなさいね、このこ
ハルタは笑ってそう言うとロゼールをひょいと小脇に抱えた。呆気に取られる老アルフレッドの席を丁寧に辞して、ついでに幾つか手土産もせしめて、そそくさと商工会を出た。抱えられたロゼールはそのままの格好でべそべそと泣いていた。
ハルタは奇異な人目を無視して通りを歩くと、人通りの少ない公園を見つけてロゼールを放り出した。突っ伏したロゼールは頭を抱えてごろごろと身悶えする。
「うそだうそだうそだうそだ」
どこからそんな作り話が出たのか分からないが一刻も早く誤解を解かねば。師匠が首を取りに来る。そうなったら言い訳など聞くはずがない。
だがこの状況で直接訴え出るなど有り得ない。せめて身近な所から、話を聴く前に衛兵を呼んだり首を刎ねたりしない所から順番に説得しなければ。
情報収集は充分だ。ロゼールは当面の方針を転換した。自身に掛けられた濡れ衣を払うべく、ロゼールは王都スカーロフの方々を訪ねて回ることにしたのだった。
ところが状況は思いのほか深刻だった。
最初に訪ねた純潔騎士団の官舎はすでに閉じられ、全員が軟禁状態にあった。ワルキュリエの実家、分家にも国王麾下の兵が張り付いていた。当然、王女リリアーテに面会が叶うはずもない。城に近づくだけで捕まってしまうだろう。
あっという間に八方塞がりの状況だった。
「心痛ご察しいたしますとも傷付き易い乙女心はええ手に取るように状況からして無駄だと分かりそうなものですがそこは若さはち切れるほどの若さむちむちとして健康的なその」
「黙れ」
ロゼールがびしりと鞭を打つ。ハルタが老アルフレッドから貰った乗馬鞭だ。
「ああ強く、そんなに強く」
魔神の馬に対しては人用であろうが馬用であろうがそれ本来の使い方らしい。
この状況下でロゼールが街の交通機関を使う危険は冒せず、かといってこの広いスカーロフを徒歩で往来する訳にも行かない。背に腹は変えられずハルタに頼んで魔神馬を召喚して貰ったものの、くどくどと喋る馬の背は実に鬱陶しかった。
派手な頭巾とマフラーの二人が喋る馬に乗って街を駆けている。なのに不思議と誰も気に留めない。怪訝に思ってハルタに訊くと魔神の力で不可視にしているという。簡単に姿を消せるならこの馬を黙らせる術はなかったかとも思うのだが。
「さて次はどうしたものかしらね」
ロゼールの行脚に文句も言わずハルタはむしろ観光気分だ。次々に当てが失せて落ち込むさまを楽しんでいるのかも、とロゼールの方が捻くれてしまっている。
この状況が状況だけに、いったい誰がロゼールを信じるだろう。誰彼と接触しては相手の立場も危うくするため、ある程度の地位と信用がなければ双方が危険だ。
はたとロゼールは思い浮かべた。クロエ・プルダリオはどうだろう。
クロエは慈愛神ファブミを奉神とする
この情勢で
だがクロエならきっと信じてくれる。幼い頃から共に師匠の死線を潜った親友だ。真相を知れば共に名誉回復に立ち上がってくれるはずだった。ロゼールの冤罪照明は即ち
「クロエなら、きっと」
ロゼールは呟いた。
「あら、あのお友達ね」
ハルタは古い写し絵で
クロエ・プルダリオは寡黙で男装の似合う麗人だった。純潔騎士団時代も女性人気を一身に集めていが、おそらくそれは今も変わっていないだろう。
強面とは裏腹に面倒見がよく、それに付け込んだロゼール、リリアーテと一緒に規則を破っては、しょっちゅうゼナイド師匠に半殺しにされたものだった。
「親友との再会ね。素敵な予感がするわ」
ハルタは微笑んだ。邪神の使徒の素敵な予感など凶事と決まっているのに追い詰められたロゼールは思いが及ばない。見目とは反対にクロエは純で押しに弱い。頼み込めばちょろいはずなどと図々しいことを考えていたのである。
「ほほうご友人のところに行くのですね」
聞きつけた馬が口を挿んだ。
「成長して変わって行く若い身体の秘密を恥じらいながらも互いに明かし合った親友のところに」
ロゼールは容赦なく鞭を打った。動物ではないので苦情が来ても平気だ。
「ああ二回も、強く二回も」
だが、懐かしい思い出に浸りつつ黒衣騎士団の庁舎を訪れたロゼールは、そこで親友クロエの行方と今この街の郊外で起きている奇妙な事件を知るのだった。
しかもクロエの配置されたブロンエグリーズ地区では原因不明の意識喪失が立て続けに起こり先日も五人の被害者が出たばかりだという。
体よく厄介事を押し付けられたのだ。
よほど暇を持て余していたのか、庁舎の番をしていた見習い騎士はその事件についても二人に語ってくれた。ときおり後ろに目を遣っては太い銜を幾つも?まされ恍惚の表情を浮かべる馬をでちらちらと奇異な目で窺っていたが。
話に耳を傾けつつ見習い騎士の視線が気になるロゼールは、馬を見えなくできないかとハルタに囁いた。だがその術はハルタに触れていなければ効力がないという。ハルタが傍にいなくて困るのは口下手ですぐ地が出るロゼールの方だった。
話によればスカーロフ南東のブロンエグリーズ地区は元々
誘い込まれたか迷い込んだか、幾人もの老若男女が干乾びたように憔悴し切った姿で発見されるのである。死人こそまだ出ていないものの被害者はみな腎虚で意識不明。辛うじて意識を取り戻した者も虚ろな眼をしたまま事情を語ろうとしない。
それどころかまたふらふらと路地裏に出かけて彷徨う始末だという。
付近一帯は捜索されたが、せいぜい野良犬が目撃された程度。その原因と思しきものは一切見当たらなかった。もはや現場を押さえるより打つ手がなく、かといって自ら志願する者もいない。その貧乏籤を引かされたのがクロエだった。
話を聴くやロゼールは口許を曲げてハルタをこっそり窺った。気付いたハルタは小さく肩を竦めて見せる。どうやらこればかりは魔神の仕業かも知れない。
見習い騎士によれば、どうやらクロエは以前にも魔物と遭遇した経験があるらしく、これは適任と理屈を付けられ、独りで警邏に配置されてしまったらしい。
だがロゼールにとっては好機だ。現場なら人目を気にせずクロエに会える。
かくして二人は夕暮れを待ってブロンエグリーズ地区の繁華街を訪れた。
*****
「あら坊やこんな所に来るのは早いんじゃない」
「心配しないで両方いけるの。優しくするわよ?」
「ねえ君たち、何だったら二人とも面倒も見てあげる」
事件にも拘らず繁華街には人手が多く、通りを歩く二人にも店先から華やいだ声が降って来る。ハルタはむしろ春の風に頬を撫でられるが如く心地よさげだが、ロゼールはその声と目線から身を遠ざけるようにハルタにぎゅっと身を擦り寄せた。
あからさまな誘いの声を掛けるのは何故かむしろ客の方が多かった。最後の声など裕福そうな
見渡す限り辺りがちかちかと鬱陶しくロゼールは小さく呻いた。通りが賑やか過ぎるのもあるが純潔の誓約が小さな四角の模様であちこちを覆っている。最近のロゼールの行動が目に余るのか、誓約ますます過保護になっている気がする。
「もうだめだ我慢できない」
喘ぐように声を漏らしてロゼールはハルタの袖を引いて路地裏に引き込んだ。何故か辺りからどよめきと口笛が飛び交うもロゼールには意味が分からず無視した。
話に聞いていた通り、路地裏に一歩入れば景色が変わった。所々に仄かな黄色い燈があるだけで、辺りは暗く闇が濃い。表通りの喧噪も嘘のように遠退いていた。
ロゼールはハルタの袖を引いたまま建屋の間を抜けた。薄暗い裏通りは思いのほか道幅がある。この街の造りがあえて小さな昼と夜を作り出している気さえした。
「何用あって人を連れ込んだ」
背中に声が飛ぶ。硬く低いが女の声だ。何よりロゼールには耳馴染みがあった。
振り返ればクロエ・プルダリオがそこにいた。相変わらずの黒色の男装だ。
首回りの開いた丈の短い上衣に胸元まで締め上げた硬質のコルセット。腰まである黒髪を後ろで結い上げ、腰に長く反った片刃刀を矧いでいる。
「クロエ私だ」
ロゼールは頭巾を撥ね上げ旧友に顔を晒した。
「話を」
有無を言わせずその隙間すらなくクロエの剣先がロゼールの鼻先を掠めた。抜刀一動作の攻撃だ。ロゼールが咄嗟に避けなければそのまま首が飛んでいる。
「危な」
命からがら後退り、ロゼールは噴き出した汗を拭った。
「馬鹿、死んだらどうする」
「よくも顔を出せたものだなロゼール」
全然ロゼールを信じていなかった。親友なのに。
「あー」
考えれば誤解しているに決まっている。ロゼールも何となくそれは分かっていたのだが、クロエがいきなり斬り掛かってくるとまでは思っていなかったのである。
「待て、話しを」
地を蹴ったかと思えばクロエは瞬時に眼前に迫る。耳を貸そうともしない。
「黙れ」
迅い。ロゼールはクロエの剣先を読んで身を躱し、距離を置こうと跳び退った。
「普通の聖騎士に戻るとか言っておいて
待て。本当に待って。何がどう伝わってるのだ。二撃、三撃を辛うじて凌いだもののクロエとの距離はむしろ縮まっている。
遂には躱し切れずロゼールは
「おまえ」
己の剣を打ち返した黒刃を間近にクロエが目を剥いた。
リリアーテも含め、三人は共に
当然、クロエは
この真っ黒な剣に驚くのは当たり前だ。斬り結びつつロゼールは慌てた。
「あ、いや、これはそこのハルタのせいで」
思わず目を遣る。ハルタはクロエに向かってはあいと手を振った。
「盛り上がってるところごめんなさいね」
火花を散らす刃が見えないのかハルタはマフラーを揺らして飄々と間に割り込んだ。驚いたクロエは剣を引き、思わずまじまじとハルタを見た。睫毛が長い、鼻梁が美しい、黒い瞳が怖いくらい綺麗。虚を突かれたクロエはうっと口籠る。
「アタシ、フロルケイン・ハルタ、ロゼールのお友達よ」
瞬時に思考の螺子がどこかに飛んだクロエはかくかくと頷いた。
「アナタともお友達になれるかしら?」
小首を傾げる小動物的な可愛さのハルタにクロエは混乱した。
表情の乏しい強面の美女は見た目だけ、クロエ・プルダリオの中身は引っ込み思案で可愛いもの好きの純情少女なのである。しかも大勢の取り巻きは女子ばかりで男への免疫がまるでない。思わず助けを求めてあわあわとロゼールの方を見る。
「邪神教の代理神官だがな」
呆れて半眼で眺めるロゼールはむっつりとクロエに言い捨てた。
「いいわよね、お友達って。さあ思い出して二人の思い出、楽しかったあの頃」
不貞腐れたロゼールに被せて調子に乗ったハルタが歌うように声を張る。不意にロゼールとクロエの脳裏に半ば強制的に在りし日の自分たちの姿が浮かんだ。
共に官舎で過ごした修練の日々。皆の前に立ち二人で息を合わせた後進の指導。
『クロエは無口ながらも要所に鋭いボケがあり、ロゼールはその突っ込みにこだわりがあった。立ち位置、振り幅、その角度、全てが?み合ったとき最高の突っ込みが生まれるのだ。今はまだ遠くても二人ならきっと舞台に輝くスタアになれる。
「なんでやねん」
その一言に寝食を忘れて打ち込む深夜の公園。ロゼールの毎夜の突っ込みの素振りに愚痴ひとつ零さず付き合ってくれたのが相方のクロエだったのである。』
「え? ちょっと待って」
『クロエはロゼールよりも上背がある。普段は抑えた身体にも実はかなりメリハリもあった。ぱあんと弾ける突っ込みの音を考慮して硬く晒を締めているのだ。
「なんでやねん」
その日ロゼールの斜めに振り上げた腕は思いも寄らぬ柔らかな感触に跳ねた。風呂上がりの修行にクロエがうっかり晒を巻き忘れてしまったのである。
無口なクロエが頬を染め「んっ」と噛み殺した声を漏らした。
「ご、ごめん」
呟くロゼール。どことなく気まずい空気に口を噤む二人。共に耳を染めて立ち尽くす深夜の公園に涼やかな夜の風が吹き抜けるのだった。』
「甘酸っぱいわねえ」
「いやいやいや、そんな思い出あったか?」
訊ねるロゼールにクロエは頭が取れるくらい首を振った。何を意識したのか頬が赤い。だいたい何で二人が芸人を目指して深夜の公園で修行せねばならないのか。
「あらそうなの? どうやら
意味の分からない言葉を呟いてハルタは困ったように口許を曲げた。んーと人差し指を掲げて周囲に身体を巡らせる。ふと路地の暗がりを向いて指差した。
「そこかしら?」
遠くに浮かんだ黄色い燈が瞬いた。
「おや私に気付くとは」
濃い粘質の闇が蟠る路地の奥から、ごろごろと唸るような声が返った。暗がりの中に仄かな蒼い焔が揺ぐ。現れ消えながら、ゆっくりとこちらに近付いて来る。
犬だった。間抜けな顔をした野良犬だ。だが、でろんと舌の落ちた半開きの口がぜいぜいと息をするたび、その吐息が蒼い焔となって漏れ出している。
「だが何者であれもう遅い」
犬はそう言って唸るように笑うと、ぬっと上体を立ち上げた。
「ちんちーん」
ロゼールとクロエは一瞬凍りつき、互いをちらりと見て何となく居た堪れずに目を背けた。犬の股間に何やら怪しげな桃色のものがいきり立っていたからである。
「そ、それはちんちんだがそんなのはちんちんではない」
クロエが動揺して叫んだ。
「しっかりしろクロエ」
思わず突っ込んで剣を構える。
「きさま魔神か。動物なら暴力を振るえないと思ったら大間違いだぞ」
目を伏せながらロゼールが呻いた。純潔の誓約が犬の股間を覆っている。
「くっくっく」
魔神は後肢で立ち上がるや、ふるふると歩き辛そうに近づいて来た。肢の構造が犬のままだから仕方がない。だがどう足掻いてもトチ狂った発情期の犬だ。
「そうれ、おまえたちも存分に盛るがいい」
犬がくわっと前肢を掲げた。せいぜい肩を怒らせたほどだが。しかしロゼールは目に見えない突風が吹き抜けるのを感じた。ひんと思わず声を上げる。つい口に出た自分の声が恥ずかしくて口許を押さえるも、腰がら這い上る衝撃に膝が萎えた。
堪え切れずロゼールはしゃがみ込んだ。吐息が荒く視界が潤み、頬がちりちりと焦げるように熱い。剣を支えに立ち上がろうにも腰が震えて力が入らなかった。
クロエも同じ様子だ。唇を噛んで耐えているものの、ついに膝から崩れ落ちた。路上に身を丸め、自分を抑え込むように抱いて何度も撥ねるように震える。
「初心者にその感度は行き過ぎだわね」
困ったように二人を眺めてハルタが呟いた。魔神犬は目を眇めるも、いつぞやのようにハルタの姿だけがよく見えない。何事かと鼻先を盛んにひくつかせている。
ハルタはロゼールに歩み寄り無造作に抱き上げた。脇に手を入れ持ち上げられる動作でロゼールは恥ずかしくなるような悲鳴を上げた。先だって洗礼名を唱えた際のあの感覚だ。ハルタに縋って辛うじて立つも触れた身体が焼け付くように熱い。
同じ誓約を持つクロエにはこれがどういう状態かもよく分かっていないだろう。痛みへの耐性を体得する修練はあっても快楽を抑える術は教えられていないのだ。
すすり泣くように身体を震わせロゼールがハルタに寄り掛かる。間近の唇に顔を寄せ助けてと喘いだ。返る吐息が火のように熱い。実経験がないせいで、どうしてよいか分からず無意識に身体を擦り付けている。
何てこと。純潔の誓約が悲鳴を上げた。
「目を覚ませ、この淫乱娘」
ロゼールの胸から小さな人影が飛び出しハルタとの顔の間に身を捩り込んだ。針のような小さな手でロゼールの頬をぐいぐいと押し遣り、思い切り蹴飛ばした。
「純潔の誓約?」
ロゼール自身には問わずとも分かる。それは自分に課した誓約と加護だ。
目の前に顕現したそれは手に乗るほどの大きさでロゼール自身を戯画化したような姿をしていた。今の女給服を模してはいるが誰の乙女趣味かと思うほど白を基調に可憐さを増し増し、背にはおよそ物理的に役にたない羽まで生えている。
「呆けるな馬鹿者、これは乙女の危機である」
ぺちんとロゼールの頬を打って偉そうにつんと胸を張る。
「ほら御覧なさい、アナタのせいでアタシの愛し子が割れちゃったわ」
ハルタが魔神犬を睨んだ。犬はぎくりとその声に目を遣り、首を突き出して目を眇める。冷や汗が噴き出すところだが犬である以上は無理なのだった。
「さっさと討つのだロゼール。なるべくあの変なものは見るな」
純潔の誓約が肩に立ちロゼールの耳を引いて檄を飛ばした。疼きを堪えロゼールは足を踏みしめる。
「停まれ昂まれ情欲に身悶えよ」
慌てた犬が股間に何だかよく見えないものをいきり立たせながら叫んだ。黒い刃が迫る寸前、これは駄目だと諦め身を翻そうとする。すでに遅かった。
「神罰、覿面」
犬魔神が黒塵となって弾け飛ぶ。
薄暗く瞬く黄色い燈が不意に明るさを取り戻した。
見掛けは犬だが恐ろしい魔神だった。こんなのが朝まで続いたら意識不明にもなるだろう。ふらふらとまたここに来てしまうのも何となく分からないでもない。
力尽きたロゼールは思わず蹲った。下腹部が疼いて動けない。下手に動くと意識が持って行かれそうになる。洗礼名を唱えたときはその先まで行ってしまったが、あんな恥ずかしいのは二度と御免だ。このまま昂りが収まるまで堪えるほかない。
「あらあらロゼール、慰めてあげましょうか」
近づくハルタの前に純潔の誓約が飛び出した。両手を拡げて立ち塞がる。
「乙女の秘密だ、男はこれ以上近づくな」
「面白い解離の仕方するわねアナタ」
ハルタは純潔の誓約に鼻先を寄せて微笑んだ。
壁に擦り寄り衝動に抗っていたクロエはロゼールとハルタを交互に見た。魔物、邪教、ロゼールの黒刃。友を変えてしまった元凶はロゼールの言う通りこの男か。
「おまえが」
クロエがハルタを睨んで声を上げる。
「おまえがロゼールを堕としたのか」
「あら危ない」
最速でこそないものの常人の目には止まらない剣筋をハルタはふわりと躱した。ひとつの動作で返して薙ぐもハルタはくるりと刃を避ける。どれだけ振っても届かない。クロエは焦った。まるで風に舞う木の葉を団扇で斬ろうとしているようだ。
見失ったかと思うと胸元にハルタが身体を擦り寄せた。間近に見上げる。
「アナタにはこれをあげる」
間合いに凍りつき、吐息に驚いたクロエが転がるように後退った。
喉元の違和感に気づいて弄ってみればいつの間にか帯状のものを嵌められている。鋲打ちの施された緋色のチョーカーだ。あからさまに犬の首輪を模している。
「いつの間に」
首輪に指を掛け外そうと焦るクロエにハルタは弾むように歩み寄る。
「まだ外しちゃダメ」
ハルタは徐に懐から老アルフレッド印の乗馬鞭を取り出した。
鋭い鞭声と聞いたことのない親友の嬌声に驚いてロゼールが顔を上げた。鞭打たれるたび誰憚らずあられもない悲鳴を上げ、クロエは身体をぴんと反る。
「うわあ」
その様を呆然と眺めるロゼールから鼻血が垂れた。真っ蒼になった純潔の誓約が、がたがたと震えながらロゼールの頬に縋り付く。
手足を突いて肩で喘ぐクロエは上目遣いに涙ぐみ恨めし気な目でハルタを見上げた。ロゼールの視線に気づくと耳の先まで真っ赤になって慌てて立ち上がる。
「その」
乱れた髪と胸元を直しつつ、えーっとなどと言葉を捜して口籠る。
「ゆ、許さないからな」
きっと顔を上げハルタに指を突き付けてそう叫ぶと、クロエは縺れるような足取りで駆け去った。それじゃあまたねとハルタは手を振るように鞭を振っている。
呆然とその背を見送るロゼールは、クロエってあんな声が出るんだ、などとぼんやり考えていた。我に返って半眼でじたりとハルタを見上げる。
無意識に口をへの字に曲げた。
「おいおまえ。誓約を破ろうなどと考えていないだろうな」
純潔の誓約がロゼールの顔の間近で睨む。気付けばさも当たり前のようにいた。
「アナタもよろしくね誓約ちゃん」
ハルタが二人(?)の前にしゃがみ込み、純潔の誓約の間近に顔を置寄せる。
「おのれ邪教の使徒、私に近づくな」
しゅっしゅとハルタの鼻先に拳を繰り出し必死に威嚇する純潔の誓約。
「そうだ、お菓子食べる?」
ハルタが懐からビスケットの包みを取り出した。これも老アルフレッドから手土産に貰ったものだ。近所のおばちゃんかハルタ。何となく不機嫌なロゼールは鼻を鳴らしたものの、純潔の誓約は差し出されたビスケットを前に凍り付いている。
警戒しながらハルタとビスケットを交互に見比べ純潔の誓約は頷いた。
「うん、食べる」
あっさり陥落した。大丈夫か私の純潔。ロゼールは呻いた。こいつはむしろお前の一番の敵なのだが。
自身の加護のことながら先行き不安なロゼールなのであった。
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