プロローグ

 ――一八八五年、アメリカ合衆国インディアナ州某所。

 ひとけのない静かな湖で、シスターが尼僧服に隠された裸身を惜しげもなくさらし、ひとり沐浴していた。

 至福の時間を邪魔する不届き者アクタイオンはいない。気分よさげに歌まで口ずさみ始める。

「漕げ漕げ漕げよ♪ ボート漕げよ♪ ランランランラン川くだ――」

 その美声が突如、すさまじい轟音によってかき消された。同時にまばゆい閃光が、周囲を一瞬白く染め上げる。すわ落雷かと彼女はおどろき、音と光の先を見やった。

 すると、地面に燃えさかる轍を残しながら、とてつもなく奇妙な馬車が走って来た。

 見た目は黒くて平べったく、まるで巨大な棺桶みたいだ。なぜか馬が一頭もつながれていないし、御者の姿もない。何かの拍子に手綱が切れ、馬に逃げられてしまったのか。とすると、制御不能に陥っているのかもしれない。

 案の定、黒い馬車はシスターの横を通り過ぎ、まっすぐ湖へ飛び込んだ。しかも運悪く深みにはまって、どんどん水底へ沈んでいってしまう。

 一瞬だったが、なかに人影らしきものが見えた。あんなおかしな馬車に乗っている人間は、きっと金持ちに違いない。ならば溺れかけたところを助け出せば、たんまり謝礼をもらえるはずだ。

 シスターは意気揚々と湖へ潜る。やはり馬車には、まだ青年がひとり残されていた。どうやら水圧のせいで扉が開かず、脱出できないらしい。完全に浸水するのを待てば開けられるが、青年はスッカリ冷静さを欠いている様子だ。

 だが彼はシスターの姿に気づくや、あわてふためいていたのが、ウソのように呆けた。おそらく彼女の美貌に見惚れているのだ。接待絶命の状況下であきれたことだが、彼女にとってはむしろ都合がいい。パニックで暴れるようなら、気絶させなければならなかったが、どうやらその必要はなさそうだ。

 シスターは馬車の扉を、力ずくでこじ開ける。鉄製なのか思いのほか頑丈だったが、彼女の膂力に耐えきれずひしゃげて壊れた。それから青年のカラダを車外へ引きずり出して、小脇に抱きかかえる。そのまま水面へと浮き上がり、安全な岸辺まで運んだ。

 助け出された青年はシスターの裸身をしげしげと眺め、「人魚なのに、二本足なんだね」

「べつに人魚ではありませんから」

「そうだね。どっちかっていうと半魚人だ」

「……というか、あまりジロジロ見ないでもらえますか?」

「ご、ごめんっ」青年は顔を赤らめ、あわてて視線をそらした。

 それにしても、ずいぶんとヘンテコな恰好の青年だ。南部のカウボーイみたいなファッションに、なぜか中南米の先住民が着ていそうなポンチョを合わせている。ひょっとしたらアリゾナ州あたりで流行っているのかもしれないが、北部の市街地では確実に浮くだろう。ヘタをしたら、不審人物として市警に通報されかねない。

 とはいえ解釈しだいでは、金持ちのボンボンに見えないコトもない。これは謝礼も期待できるのではないか。シスターは舌なめずりした。

「ああ、まだお礼を言ってなかったね。危ないところを助けてくれてありがとう。キミは命の恩人だよ。ホントにありがとう。僕はマ――じゃなくて、クリント・イーストウッドっていうんだ。キミの名は?」

 名前を問われて、シスターはどう答えるべきか少しばかり迷ったが、「カミーリャ・オクティンゲン――いえ、よく考えたらとっくにノンゲンも越えていたような」

 そう言いよどむ彼女の視線の先には、こんな僻地に誰が持ち込んだのか、椿の花Camelliaが咲いていた。

「カミーリャ。せっかくだから言葉だけじゃなくて、何かちゃんとお返しをしたいところなんだけど……」

 その言葉を聞いて、シスターは胸を高鳴らせる。

 青年は申し訳なさそうに、「あいにく、有り金残らず車ごと沈んじゃったんだよね……」

「それを早く言ってください! すぐ取って来てあげます!」

 シスターは着ようとしていた灰色の尼僧服を放り捨て、ふたたび湖へ飛び込んだ。

 そしてものの数分も経たないうちに、有り金どころか、馬車ごと湖底からサルベージしてしまった。その光景を目の当たりにした青年は、口をポカンと開けて絶句したのだった。

 先ほど青年を助けたときは気づかなかったが、馬車の座席に皮袋が十数個積み込まれていた。シスターはそのひとつを手に取って、中身を覗き込む。

 とたん、彼女は白くまばゆい光に圧倒された。先ほどの落雷に勝るとも劣らない輝きだ。

 青年は得意げに、「知ってるかい? ソイツは■■■■■■っていうんだ。かのナポレオン三世も愛したお宝で、なんと黄金よりも価値があるんだぞ」

 今度はシスターが絶句する番だった。■■■■■■といえば、彼女もうわさに聞いたことがある。見た目は銀に似ているが、羽根のように軽い、不思議な金属だと。実物をこの目で見るのは初めてだ。確かにこの高貴な輝きは、誇張抜きで黄金にも匹敵する。

「それ、全部キミにあげるよ」

 彼女は天を仰いで叫んだ。「おお、ジーザス! ホントにもらってよろしいのですか!」

「もちろん。キミが車を引き揚げてくれなきゃア、どうせ取り戻せなかったワケだし……。ホントはそれでひと儲けのつもりだったけど……どうやら悪だくみってのは上手くいかないね……」

「悪だくみ?」

「いや、こっちのハナシ。気にしないで。……それよりひとつ注意しておくけど、コレはさっさと売ってドルに換えたほうがいいよ。じゃないと、すぐに価値がなくなっちゃうから」

 シスターはまったく腑に落ちなかった。黄金を超える財宝にもかかわらず、なぜ放っておくと無価値になってしまうのか。まるでワケがわからない。黄金がいつまでも黄金であるのと同じように、■■■■■■も■■■■■■であり続けるはずだ。

「いいかい? 絶対だよ? 忘れずに換金してね」

 青年から執拗にクギを刺されたが、彼女は■■■■■■を手放す気などサラサラなかった。とても綺麗だし、黄金よりも高価だと考えるだけで、思わずヨダレがこぼれそうだ。薄汚れた紙切れと交換するなど、冗談ではない。

 コレは大事にとっておき、いつまでも飾って眺めるとしよう。ほかの財宝と同じように。

 シスターの顔が欲深な笑みにゆがむ。すると光の加減で、ほおにひび割れのようなものが浮き上がった。

 いや、それはひびではなく――

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