第三幕……「潰える希望のその先に」

第1話 人員不足

 A棟からB棟へは2本の渡り廊下が渡されている。そのうちの1本――時計塔前広場から最も近い位置にある渡り廊下の手すりの影に隠れながら、優はB棟へとたどり着いていた。

 時刻は正午をやや過ぎたあたり。太陽が、薄っすらと垂れこめる雲に隠れ、第三校全体に影が差す。一般人が出入りすることになる三校祭において、機密情報の宝庫であるB棟が使われることは無い。よって、今日はB棟のどの出入り口も鍵がかかっているはずなのだが、


「開いている……?」


 A棟から続く渡り廊下の先にあるB棟の入り口のガラス戸の鍵が、開いていた。ここから侵入したとしても、追ってくる者を警戒して内側から鍵をかけるのが普通だ。偶然閉め忘れただけの可能性と、誘い込まれている可能性。その2つを考えつつ、優は慎重にガラス戸を開く。渡り廊下のタイル張りの床から一転、病院内のようなのっぺりとした床――リノリウムの床へと足場が変わる。

 B棟館内は、非常時とは思えないほど静かだった。当然と言えば当然で、今日は教員も研究員もB棟への出入りを固く禁じられている。そのため、いまB棟に居る者は漏れなく、規則を破った者ということになる。


 ――警備や特警の人に見つかる前に、クレアさんを連れ出さないとな。


 そのためには、まずはノアと合流を。そう考えながら手元の携帯に目をやっていた優の耳が、廊下を歩く複数の人の足音を捉えた。咄嗟に近くの男子トイレの入り口の壁に身を隠しつつ、優は息を殺して聞き耳を立てる。


「Où est le “document S” ? !  N'était-ce pas au deuxième étage de cet immeuble ? !」

(“S文書”はどこだ?! この建物の2階にあるんじゃなかったのか?!)

「Attendez, d'après la plaque signalétique, c'est le premier étage」

(待て、表札によればここは1階らしい)

「Hé, hé, que se passe-t-il ? Ne sommes-nous pas au deuxième étage ? Est-ce un labyrinthe」

(おいおい、どうなってるんだ? 俺たち2階に居たんじゃないのか? ここは迷路かよ)


 自分には全く聞き馴染みのないフランス語が飛び交うおかげで、優には彼らが何を話しているのか全く分からない。せいぜい、声の違いから3人の人物がいるらしいということだけだ。いつだったか春樹と外国語の必要性について話したことを思い出しながら、優はグッと奥歯を噛みしめる。

 もし自分が外国語を勉強していれば、さらに多くの情報を得られたのに。そう考えて、しかし、すぐに優は首を振る。今、そんな仮定の話に意味はない。大切なのは、彼らが外国語を話しているということだ。現状、B棟に居る外国人など、クレアの関係者以外にあり得ない。


 ――とりあえずやり過ごして、後を追う。


 優が廊下の気配を探りながら考えていた、その時だった。


「『S文書はどこだ?! この建物の2階にあるんじゃなかったのか?!』だ」


 優の耳元で、囁くように誰かが言った。驚きのあまり声を上げようとした優の口を、囁いた当人が「馬鹿かっ!」と押さえる。改めて聞くと聞き覚えのある声に胸をなでおろした優は、廊下にあった足音が上階へと消えていくのを確認した後、


「馬鹿はお前だ、ノア」


 ジトリとした目を正面の人物に向ける。柔らかそうな金髪に、深い青色の瞳。身長は優より少し低いにもかかわらず、すらりと長い手足がスタイルの良さを感じさせる。不器用な皮肉屋ことノア・ホワイトがそこには居た。


「なっ?! ボクのどこが馬鹿だって言うんだ?!」

「誰だって後ろから急に声をかけられればビビる。手を引くなり、服を引くなり、方法はあっただろ」

「それは……、そうだな。悪かった」


 ことの他すぐに自身の非を認めたノアに、優が拍子抜けしたのは言うまでもない。


「……それで、あの人たちはなんだ? なんて言ってた?」

「あれが前にボクが言ったクレアの護衛だ。クレアを止める以上、あいつらをどうにか無力化しないといけない」


 渡り廊下から続く扉の鍵を優のために開けておいたのも自分であることもノアは明かした。


「高低差のある第三校の施設に、あいつらも翻弄されてるみたいだ」


 自身も来校当初はよく迷子になったものだと懐かしみつつ、ノアは口角を上げる。同じく入学当初苦労した優も苦笑を返しつつ、気持ちを切り替える。


「さっきの集団にクレアさんは居なさそうだったな」

「ボクが知る限り、護衛は10人同行していたはずだ。いくつかのセルに分かれて行動してると考えるべきか」


 お目当ての資料の位置にある程度目星をつけつつ、それぞれの教室を手分けして探しているのではないか。そんなノアの予想に、優も同意する。そのうえで、先ほどいたセルが3人組スリーマンセルだったことも考慮すると。


「護衛だとするなら、クレアさん単独で行動するとは考えにくい。なら、セルは最大で3つか」


 クレアの護衛10人全員がここに来ていると優は考えていない。まず1つ。普段なら人感センサーが働いて自動的に明るくなる廊下が、優が姿を見せても一向に明かりが点く気配を見せない。また、警報器が鳴った様子もない。それらのことから、電気系統が止められている可能性を考えていた。前日までにそんなことをすれば作戦が露見するため、陽動となる爆発があってから止めたと考えられる。


 ――そうなると、かなりB棟の内情に詳しくないといけないわけだが……。その理由を考えるのは後だな。


 あるいはもっと力技で。陽動の爆発と同時にB棟の警報システムを魔法で破壊したかだろうと、優は考える。優がA棟で感じた爆発はかなりの規模だった。しかし、時計塔前広場にはそれほど大きな爆発があったようには見られなかった。

 いずれにしても、警報システムを無効化するセルがあったはずだった。他にも、時計塔前広場での特警の動きを観察し、伝える人員も必ずいるはず。でなければ、最も重要な撤退のタイミングがつかめないからだ。これで最低でも2人、人員が割かれているはずだった。

 よって、クレアを含めて残るは最大でも9人。それらが3つのセルに分かれて行動している、という優の予想に、ノアも大きく頷いて見せる。


C'est çaそうだな。問題は、どこか1つとやり合えば、必ずほかのセルが駆けつけるだろうことだ」


 クレアを止めようにも、彼女についている護衛が必ず邪魔をしてくる。それに手を焼いていると、前後挟み撃ちと言うことも容易に想定できるとノアは語った。


「……おい、ノア。明らかに人員不足だ。もう少し人を呼べなかったのか?」

「悪いな、神代。ボクの人脈は控えめに言って、最悪だ」

「せめて春樹を呼ぶくらいは出来ただろ?」


 優に言われて、ノアは確かに、と納得せざるを得ない。瀬戸春樹もまた、ノアにとっては気の置けない友人になりつつある。にもかかわらず、真っ先に浮かんだのは神代優だった。

 ノアとしては、なるべくこの一件に人を関わらせたくはなかった。頭数が増えれば増えるほど、秘密の隠匿は難しくなる。そうして絞りに絞った人員が、仇になった形だ。


「ボクとしては、陽動に半数を割くと思っていたんだ。日本の警察は優秀だと聞くからな」

「……なるほど。だが、時計塔前広場の騒動で陽動の必要がなくなった、と」


 結果、陽動の予定だった人員もB棟に来てしまっているかもしれなかった。惜しむらくは、全体像が見えないことだろう。何人の護衛がここに居るのか。その確証を、優もノアも得られない。


「……それでもここまで来た以上、俺たちでクレアさんを止めないとだ。ひとまず2階に移動するぞ、ノア」

「ああ。了解――しっ、神代。誰か来た」


 護衛たちが居なくなって、静かだった廊下に1人分の足音が響いている。先ほど聞こえた男たちの足音とは違い、かなり軽い足音。恐らく女性だろうと、優とノアはあたりをつける。


「ノア。護衛の中に女性は居るのか? 居ないなら、一応、クレアさんの可能性がある」

「悪いが、分からない。ただ、相手は1人だ。2人でかかれば、どうにかならないか?」


 優とノアが小声で話している間も、足音は迷うような足取りで廊下を歩いてくる。もう少しで、優とノアが隠れているトイレの前を通るというところまで来ていた。

 もう迷っている時間はない。優はノアと頷き合うことで、1人で歩いて来ている相手を無力化することに決める。


「……無色の俺が先に出る。ノアはフォローしてくれ。魔法は使わず、組み付きだけで取り押さえる」


 万が一、迷い込んだだけの一般人だというのなら避難誘導すればいい。必要最低限の事項だけ確認して、2人は意を決する。

 時折足を止めながらも、徐々に近くなる足音。落ち着いて、タイミングを見計らって。女性と思われる足音がトイレの前を通り過ぎたその瞬間に、優が飛び出す。すると、案の定、そこには小柄な女性の姿があった。


 ――すみません!


 心の中で詫びながら隙だらけの背中に手をかけた、瞬間。


「は?」


 マヌケな声を上げたのは、優だった。気づけば彼の視界は上下逆転し、背中を廊下の硬い地面に打ち付けている。何が起きたのか分からずにいた優の上に、今度はノアが降ってくる。そして、


「「ぐぇっ……」」


 2人は情けない声を上げて、重なるように倒れこむ。完全に不意を突いたにもかかわらず、2人は女性1人にものの見事に投げ飛ばされたのだ。

 その事実に優が気づいたのは、


「ふぅ……。あなた達、こんなところで何をしているんですか……って、神代くん?」


 手を叩いて自分を見下ろす春野の姿を認めた時だった。

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