第10話 人々の想いをここに――

「シアさんは、どうしたいですか?」

「……ぅえ?! 私、ですか……?!」


 真剣な顔で優に尋ねられ、シアは困惑する。


 今まで優が考えて決めたことは全て、うまくいっていた。先週の絶望的な状況でさえ、シアの力を引き出して魔獣と戦い、見事、くつがえして見せた。


 今日だってそうだ。マナの爆発に巻き込まれ、森で1人になったときは不安で胸が押しつぶされそうだった。


 ──また、自分のせいで。


 そう、下を向きそうになった。


 しかし、そんな時、優が迎えに来てくれた。相変わらず表情は硬いままだったが、可能な限りシアを安心させようと、手を尽くしてくれた。


 そして、またしても役割分担をしてくれて、今日だけで何体の魔獣を倒しただろうか。


(優さんに任せていれば良い。私よりも、よっぽど落ち着いていて、頼りになる)


 だから今回も。そう、シアは考えていた。


「私は優さんの考えに――」


 しかし、シアはそこではたと言葉を止め、もう一度考える。自分が今言おうとしたその答えは、今回もまた、優に頼りきりになってしまうということと同義ではないだろうか。


 それは信頼以上に唾棄すべき、依存というものだと前回、反省したはずだ。このままではあの時から一歩も前に進んでいないことを優に示すことになりかねない。


(私は、天人。人を導き、行く先を照らす存在……)


 一度大きく首を振ったシアは、胸に手を当てて小さく息を吐く。そして、


「――いえ。やっぱり、この魔獣は私がここで倒します」


 魔獣と戦うことを、決断する。さらに、


「権能を、使います」


 森で再会した時、シアは優に、いざとなれば権能を使うことも辞さないと言った。相原という人間を食べて、強力な魔獣が現れようとしている今がその時だと判断する。


「集中を欠くと優さん達にも影響があるかもしれないので、できるだけ離れていてください。魔獣が完全に変態を終えると同時に、使用します」


 シアが優、三船、木野の3人にそう言った頃には、魔獣の変態は終盤に差し掛かっていた。


 ただの肉だるまだった球体は人型になっている。しかし、頭部に当たる部分が見当たらない。また、背中からは虫の羽が4枚現れ、人間のような手足に加えて腹部に節足が6本生えている。妙になまめかしい肌色の表皮には赤黒い血管が浮き立ち、脈動していた。


(見たところ、あと10秒もないだろうな……)


 シアに任せきりにして大丈夫なのか。権能の効果は。自分たちにできることは無いか。優の中には聞きたいことが山ほどあるが、問答をしている時間はなさそうだ。


「シア様、頑張ってください。……動けますか、木野さん?」

「余裕だよ、三船さん……。任せちゃってごめんね、シアさん」


 目の前で人が食べられた光景に青ざめる木野を連れて、三船が木陰に移動する。


「もっと離れていてください。皆さんを巻き込みたくないんです。……なので、優さんも、早く離れてください」

「……はい」


 どこか余裕が無いように見える、シアの指示。巻き込みたくない。シアのその言葉はどこか、心の叫びのようにも聞こえて。離れようとする優の足を鈍らせる。


 そんな優に気付かず、シアは生まれて初めて権能の使用を試みる。それは、神としての自身の力と司る概念を象徴する、天人にとっての存在証明でもある。


(落ち着いて、慎重に……。私にだって権能が使えるはずです)


 目の前にいる人型の魔獣は、将来、多くの人間に死をもたらす。天人として、人間を守り、導く者として。今、力を使わずしていつ使うのか。


 前回、シアは死を受け入れて、あるいは事態の悪化を招くことを恐れて、権能を使わなかった。使えなかった。


(ですが、今回は。……今回こそは!)


 自分は学び、成長できるのだと示す必要がある。皆が安心して頼ることのできる存在でなければならない。


 シアは胸元で小さく手を握り、目を閉じて、集中する。自身のマナを薄く広げ、周囲の存在とマナとをゆっくり把握していく。


 すると、自分という存在が少しずつ曖昧になり、広がって、世界に溶けていくような感覚に包まれる。


 そうして把握していく世界に、ふと、優のマナを感じた。その瞬間。


『シアさんがこうしたいと強く願えば、啓示もその方向に傾くかもしれないですよ?』


 なぜか、優のその言葉が脳内で響いた。


 啓示を示すことこそが、自分たち天人の存在意義だ。今、人々は魔獣という脅威が消える運命を望んでいる。であれば、【運命】を与えられた天人として、彼ら彼女らの願いに応える義務がある。だからこれは決して、自身の願望ではない。


 誰にともなく言い訳をして、シアはさらに深く集中する。世界と、溶け合っていく。


「――──」


 また、優の声が聞こえた気がする。彼はやさしい。シアが欲しい言葉をくれる。自分に道を示してくれる。そんな彼に一度は依存してしまった。


(でも、私は天人です)


 人間に頼られることはあっても、頼ってはいけない。何かを望まれることはあっても、望むわけにはいかない。


「――シアさん」


 優が何度も自分シアの名前を呼んでいる──気がする。


 権能を使用するときは、魔法を使うとき以上に効果をしっかりとイメージしなくてはならない。そうしないと、良くて魔法が不発。最悪の場合は暴発して、思いもよらない効果をもたらすことになってしまうからだ。


 かつて権能を使って人間を管理する“神”だった天人。その力の影響力は計り知れない。シアに失敗は許されない。


(だから、惑わせないでください……っ)


 最後の最後で優の声に答えそうになる自分の甘さを振り切って、目を閉じたままのシアはついに極限の集中状態に入った。音が遠くなり、意識だけが鮮明になる。


 そうして改めて、【運命】についてイメージする。


 例えばそれは水。その在り方を自分では操ることが出来ず、決められたように、決まった方向に流れる。そして、巡り巡って、あるべき場所へかえるしかない。


 例えばそれは雲。そこにあることは分かっていて、どのように動くのかもわかっている。しかし、いざそれを掴もうとしてもその手をすり抜け、遠くへ行ってしまう。


 例えばそれは雨。そこに生きる人間に、恵みと試練を与えるもの。突然のこともあれば、時間をかけてゆっくりと。その存在を知らしめてくる。誰もそれを操ることなどできない。


「シアさん!」


 殊更ことさらはっきりと、優の声がシアの耳朶じだを打った。


(幻聴じゃ、ない……?)


 優しい優のことだ。きっと応援してくれているに違いないと、シアは微かに笑う。


 ふと。彼ならば。先週、薄暗い小屋からシアを連れ出してくれた、彼ならば。運命それを変えてしまうのではないかと思ってしまう。変えてくれるのではないかと、思ってしまう。


 しかし、それこそが甘えなのだと、シアは小さく首を振る。そのまま、迷いを断ち切るように、静かに、魔法を唱える。限定的ではあるものの、世界をも変えうるその力の名前を。


 願うのは死だ。“彼ら”を抗いようのない死の運命へと誘う流れ。自分を中心として、波紋を広げるように、暗く重いマナの波を広げていく。


(見ていてくださいね、優さん。私の天人としての在り方を!)


 今もシアの名前を呼ぶ優に甘えないよう、自分に内心で言い聞かせる。そうして大きく息を吸い込んだシアは、淡い桃色の唇を動かす。


「人々の願いを此処に――」


 短く祝詞のりとを唱えたシアは最大の集中力を持って、今度こそ、自身が司る概念の名を叫ぶ。それこそが、自分が今、ここにいる理由なのだと、宣言するように。


「――〈運命〉! ……え?」


 権能の使用と同時に目をけたシアが見たもの。


 それは、人間とハエを無理やりつなぎ合わせたような醜い異形の化け物と、いつの間にか目前に迫っていた4つの黒い光球──死の運命だった。

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