廓唄
ここのえ栞
生きていくには曖昧で、死んでしまうには臆病な
べべん、と。
朝霧は目を伏せたまま、
東の空にじんわりと滲む光が、格子窓を通して部屋に薄い陽だまりを作る。朝霧は泣いていた。声を出すどころか、眉ひとつ動かさず、ただほろほろと泣いていた。
「やれ朝霧よ、そう泣くな」
やがてそばで横になっていた男が身を起こし、彼女にそう声をかけた。端正な顔立ちの青年だ。彼はゆるりと着物を羽織ったまま、朝霧に手を伸ばして頬をやさしく拭ってやった。滲んだ白粉が涙とともに指先を白く染めた。
「わっちは、こん名が嫌いだえ」
睫毛をしっとりと濡らしたまま、朝霧が男を見上げる。彼女は器量の良い娘だった。三味線や琴の腕前などそこらの花魁に引け劣らないほどだったが、肩から腰にかけて大きな火傷の痕があったために、この小さな遊郭に押し込められていた。幼い頃に火事に巻き込まれてできたその傷は、朝霧の白い肌に痛々しく映えた。
「朝は主を連れてっちまう。主ぇ、もちっと朝寝しいせんか」
「……いいや、今日は結納の日。遅れるわけにはいくまいな」
男が躊躇いがちにそう返すと、朝霧はその柳眉を少し下げ、また涙を零した。彼女の薄い肩から着物が落ちる。その隙間からは爛れた肌がちらりと見えた。
薄紅から薄水へと移り変わる明け方の空のような色合いの着物は、男が最後に朝霧へと贈った上等なものだ。金糸で霞の柄の刺繍が施されており、その上品な色合いは朝霧によく似合っていた。男はそんな朝霧を目に焼きつけるように見つめている。
「朝霧や、琴を弾いてはくれぬかい」
「……次にしなんせ」
「そう言わず、最後に聞かせておくれよ。一生覚えていられるようにさ」
男が甘やかにねだろうと、朝霧は首を横に振るばかりだった。最後などと言われれば余計に弾きたくなくなる。琴を弾いてほしいという男の未練が、いつか回り回って自分たちを引き合わせてくれるのではないかと、彼女は藁にもすがるような思いで三味線の弦を叩いた。
身請けをしてほしいなどと大それたことを願うつもりはない。ただ、時折ふと思い出した時に会いに来てくれるだけでよかった。それだけで彼女は、この狭い檻の中で、浅くとも息をしていられたのだ。
良家の令嬢との縁談が決まっている男と、春を売って生きている女。共に生きるにはあまりに曖昧で、共に死ぬにはあまりに臆病な愛だった。
「わっちがほんに朝の霧なら、主を隠してしまいんしたのに」
朝霧が唇の端からほろりと零す。賢明な二人は熱をこらえるのが上手かった。男は家のために望まぬ結婚が不可欠であることを理解していたし、女は男に依存してしまえばこの遊郭で生きていけなくなることを理解していた。理解は、していた。
常より少し高く調弦された三味線の音が、静かな朝の遊郭に物悲しく響く。べん、べべん。朝霧は声なく唄う。声にはできぬ想いを唄う。瓜実顔は柔らかな白に塗られ、唇にさした紅だけがぞっとするほど赤い。結い上げられた長い黒髪は乱れている。撥を握るしなやかな指先は震えている。
やがて朝霧は手を止め、三味線と撥を傍にそっと置いた。そして男へと手を伸ばした。男がその体を抱きしめると、彼女は堪えきれずにまたしとしとと泣いた。
「主ぇ、主様ぇ」
いじらしく縋りついてくる朝霧の姿に、男は目頭を熱くした。胸がぎりぎりと痛む。豊かな着物に隠された彼女の体はどこもかしこも薄く、こうして触れてみるとあまりに脆い存在のように思えた。たおやかにしなる真白な体は一本の銀糸でできていて、端を少し引っ張ればすぐに解けてしまうのではないだろうかと、男はそんな恐ろしい幻想にばかり捕らわれた。
「ゆびきり、いたしんしょう」
「……ゆびきり?」
朝霧はゆっくりと頷いた。彼女の瞳が男だけを映す。とうめいな黒の瞳は淡い朝日を呑み、純度の高い光を滲ませており、男はぞくりと背筋をふるわせた。
ゆびきり。最近花街で流行っているものの一つで、遊女が自らの小指を切り落として男に贈るという行為のことだ。愛の誓い。愛の契り。そして────。
「最後に小指をくんなんし」
朝霧はそう呟くと、男の左手をとって口元へと運んだ。紅の滲んだ小さな唇が控えめに開かれる。朝霧、と男がその名を呼ぶ前に、彼女は男の節くれだった小指を食べてしまった。
白い歯が指の付け根を優しく噛む。何度も何度も、まるで刻み込むように。男はしばらくその様子を見つめた後、反対側の手で朝霧の右手を掬い、同じように小指を食べた。指から伝わる朝霧の口内はひどく熱いが、口内で感じる朝霧の指はひどく冷たい。細く頼りない女の小指はすぐに折れてしまいそうで、男は硝子をくわえるかのようにおそるおそる付け根を噛んだ。
やがて唇を離すと、どちらからともなく笑みが零れた。濡れた小指同士を絡め、薄暗い部屋で二人、額を重ねて泣き笑う。
「ああ、わっちの指も切られてしまいんした」
「不公平だろう。私にもおくれよ」
窓の外では空が光の色を重ねて明度を上げていた。赤、橙、黄。青、藍、紫。うつくしい娘は朝焼けが嫌いだった。かつて自らの背を焼いた炎を思い出すから。男が帰ってしまうから。
一人になってしまうから。
「お慕い、しておりんした」
「……私もだよ。お前だけを愛している」
男の言葉を噛み締めるようにして、朝霧は目尻を赤く染めたまま、ふうわりと笑った。物分りのいい大人のように、途方に暮れた子供のように。
「主ぇ、口吸いを」
言い終わる前に男が優しく唇を落とす。朝霧は閉じた瞼の隙間から涙を溢れさせながら、静かにそれを受け止めていた。刻々と別れの時が近づいている。傷がついたわけでもないのに、小指の付け根に浮かんだ歯型がじゅくじゅくと痛む。
これは朝霧の
「……おさらばえ」
愛の誓い。愛の契り。そして愛の呪い。小指を強く絡めたまま、朝霧は声なく唄う。声にはできぬ想いを唄う。
ゆびきりげんまん、嘘をついたら、共に地獄へ落ちりゃんせ。
廓唄 ここのえ栞 @shiori_0425
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