120 喫茶室「123」⑥~仮の婚約者になる話と周囲の様子
ヒドゥンは数秒、黙って目を大きく広げてテンダーを見た。
「……キミやっぱり、時々突拍子も無いこと言うなあ」
「だって貴方、昔言ってませんでした? 三十までお互い独身だったら結婚しないかって」
「言ったな」
「覚えてたんですね」
「キミ、あえて手紙に書かなかったろ」
「解りますか?」
そう、実際テンダーは文通している間この話題は一切文章にしていなかった。
「何で?」
「貴方が忘れていたら嫌ですし」
「忘れていたらキミとずっと文通はしてないし。実際今でもそう思ってるよ。女の中ではキミが一番話していて楽だし」
「私もそうですよ。……普通の男だったら近寄られるのも嫌ですから」
「俺が男おとこしていないから?」
「まあ、否定はしません」
ふうん、と彼は腕を組み、ゆっくり頷いた。
「キミ実際に俺と結婚したい?」
「どうでしょう。きっとしたところで私達はそれぞれ仕事で離れて暮らしているでしょうし、何が変わるということでもなく。私の望みは今の幸せを逃したくないことですし」
「俺もそれは同感。じゃあまあ、口約束でそういうことにしている、ということで」
「そうですね。三十まではまだ数年ありますから」
決まり、とテンダーは自分から手を差し出した。
*
「……ねえ…… あの握手って何の色気も無いんだけど……」
「あきらめろ。私達のテンダーに色気を求める方が間違っている」
ヘリテージュとセレ、そしてテンダーに服を頼んでいる女優達は自分達の同僚との仲をちらちらと気にしていた。
「何言ってるかまでは聞こえないけど、あれだけテンダーが接近できるのはあのひとだけだと思うし!」
「まあ、それは私も同感だ」
「そうよねえ! 正直何であれだけぴりぴりするのか不思議なくらい」
マリナはそれまで、採寸等で自宅だの劇場だのにやってきたテンダーがすれ違う男優達に常に身体を固くしていたのを知っている。
「意識しすぎだと思うんだけど、どうしてかしらね」
「慣れないからだろ」
「貴女は慣れすぎで色気が無いんだけどね、セレ」
「色気が無くとも敬愛はあるが」
「え」
ヘリテージュは慌てて友の両肩を掴んだ。
「ちょっと待ってセレ、貴女浮いた話あったの?」
「浮きはしないが、共に暮らしてもいいな、と思う相手は居る」
「何それ、私初耳だけど!」
「そりゃあ言ったらヘリテは騒ぐだろうしエンジュは今日の様なことを何か仕組むだろう? 私はテンダーほど初心ではないからな」
そう言ってセレは手元のジンジャー風味の金色のサイダーを口にする。
「うん、この苦みはいいなあ」
「……目を反らさないで。なるほど。つまり私達に内緒で事実にしてしまおうと」
「別に内緒にしていた訳じゃないさ。色々決まってからの方がいいと思っただけ。でないとうちの研究室の連中は貴女達に萎縮しちまう。まあ後で教えるよ。……あ、このお代わりを頼みますよ! 今度はアイスクリームを乗せて」
*
一方別のテーブルでは。
「先生はどうしてそんなに色んなお話を考えつくのですか? 私はもう読んでその世界に浸って怖がったりうっとりしたり忙しいだけなんですが」
ポーレは憧れの作家に会って、明らかに普段より舞い上がっていた。
「あらうっとりなんて嬉しいこと。別にね、大したことじゃあないのよ」
「そんなそんな」
「ああ、そうねえ…… でも、息子にはちょっと苦労かけてしまったかもしれないわ……」
カナン女史は頬に手を当て、ミルクと蜂蜜を入れたコーヒーを口にしながらおっとりした口調でポーレに語る。
「息子さんがいらっしゃるのですか?」
「あら、私が結婚していないとお思い?」
「いえ、そうではないのですが、……その、ご家庭をお持ちなのに凄い、と」
「そうねえ…… でも、夫が亡くなってから、色々必死だったから」
ふっ、とカナン女史はやや離れたテーブルを指すと、従業員にその席に座る青年を呼んでくれないか、と頼んだ。
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