噓作りのスタンプラリー

佐伯僚佑

噓作りのスタンプラリー(上)

 その霊の子を拾ったのは、なんてことのない道だった。綺麗に舗装されたアスファルト、遠くに見える信号機、何度も通ったこの道で、今日、たまたま、目が合ってしまった。

 あ、まずい。そう思った瞬間には既に、両肩にズシリと衝撃にも似た重みがかかっていた。それで腰が曲がるとか、膝が折れるとか、そういうものとは違う種類の重みがかかり、急激に消えていく。しばらくすると、ほとんど気にならないが、十秒前にはなかった僅かな重みがたしかに残った。

 やってしまったな。

 そう思うのは初めてではない。


     ◇


 最後の和音を荒っぽく叩きつけた。その瞬間、終わった、と安堵した。演奏が終わった。そして審査の結果も、多分終わった。俺にできることなんて、でかい音を出すくらいなものなのだが、当然、ピアノコンクールは音の大きさで決まるものではない。表現の豊かさ、繊細さ、テクニック、ときには表情や醸し出すオーラのようなもので決まる。

 色っぽさや繊細さが足りない。

 先生から何度も言われたが、結局、最後までよくわからなかった。いや、正確にはわかる。才能ある弾き手の演奏を聞けば、ああ、なんて可憐なんだとか、伸びやかで見惚れてしまうようだとか、感動を覚える。ただ、真似ようとした途端、それを見失う。自分が弾いた瞬間に、別物だと感じて手を止めてしまう。レストランで出て来たオムライスの後に、いかにも手作りしました、という風のケチャップで文字を書いたオムライスを見ている気分になって手が止まる。

 そんな絶望を今日も感じていた。練習はしてきた。技術は身につけてきたつもりだ。でも、それでは足りない。俺にはユニークさや表現力、尖った感性や魅力がない。楽譜通りに弾く。大きな音で弾く。それだけらしい。

 自分なりに工夫しているつもりなのだが、小手先、という言葉が脳裏にちらついて鬱陶しい。

 椅子から立ち、審査員と観客に一礼する。拍手が遠く、皮肉にすら感じられる。なんとか笑顔をつくって退場した。大したことない演奏のくせに、やる気すら見せられなければさすがに失礼だ。

 つまるところ、才能がない。

 そう、自分で言葉にして認めてしまえる時点で、俺はもう負けているのだろう。

 控室でラフな服に着替え、会場の外に出た。自動販売機を見つけ、メロンソーダを飲みながら地面に直接座り込む。大きなため息をやっとつけた。

 スマートフォンには母さんからのメッセージが届いているだろうが、今は会話をするのも面倒で電源を入れたくなかった。結果発表なんて聞く意味がない。誰よりも、俺自身がわかっている。

 高校三年生。夏のコンクール。入賞を勝利条件とすると、三連敗だ。つまり、全敗。

 小さい頃からレッスン漬けで腕を磨いてきた子供たちが集まるコンクール。この先は音大やプロを目指すような、原石だって混じっている大会。俺は、明らかに場違いだった。有利な点があるとすれば、力強い音と心。体格や手の大きさには比較的恵まれていたし、緊張もしたことがない。だから大失敗はしたことがないけれど、大成功もしない。

 無感動で無表情。それが俺の演奏に下す自己評価だ。大きく悲しみもしないけれど、大きく喜びもしない、がさつな心。コンクールに入賞しても、結局は「まぐれだな」と自分の成功を喜べない捻くれた感性。

 俺みたいなつまらない人間じゃ、あの楽器は不相応だ。

 ピアノは不思議だ。同じ物体なのに、弾く人間によってまったく違う音を出す。発明した人は天才だと思う。調律師か楽器メーカーの社員ならなってもいいと思えたかもしれないが、うん、しばらくはピアノを見たくもない。俺には過ぎた道具だった。

 いつの間にか、手癖でスマートフォンの電源を入れていた。思った通り、母さんからメッセージが来ている。どこにいるのか、と。

 ――外です。

 短く返信すると、電話が掛かってきた。

「お疲れ様。良かったよ」

 そんなわけがあるか。俺は衣装が入った鞄を放り投げ、メロンソーダを一口飲んだ。なおも何か言っている母の言葉を全て無視して言い放つ。

「ピアノはもう辞める。今日が最後だ。先に帰るよ。先生にもそう伝えておいて」

 即座に通話を切り、電源も切った。母さんは何か言いそうな気配をしていたが、どうでもよかった。もう決めたことだ。

 空になった缶をゴミ箱に突っ込み、鞄から財布を抜き出して歩き出す。二度とここに来ることはないだろう。衣装も楽譜も、もう必要ない。目に付いたゴミ箱に鞄ごと放り込んだ。

 母さんのみやこは、かつて天才少女と呼ばれたピアノ奏者だったらしい。音大に主席か次席で入学したとか、していないとか。過分に誇張が入っているような気はするが、少なくとも国立の音大に入学できたほどの腕前だった。それがとんでもなく凄いことだということはわかる。とんでもない努力をしたのだろうということも、わかる。

 しかし、卒業後ピアニストではなく俺の教育に熱を上げていることから明らかだが、彼女は挫折した。もしくは競争に負けた。詳しくは聞いていない。聞くと不機嫌になるし答えてくれないので、いつしか興味を失った。天才少女の挫折なんて、聞いて楽しい話になるわけがない。その後、一般企業に就職し、父さんのまさると出会って結婚し、俺が産まれた。

 よくあることだ。親が叶えられなかった夢を子供に託すことなんて。それが、環境がものをいうピアノというフィールドならばなおさら。

 俺は物心ついたときからピアノを触っていたし、毎日練習していた。友達と遊ぶこともあったけれど、まずピアノ優先の生活を十八年間続けてきた。

 ある意味では、才能もなくはなかったと言える。俺は普通よりも音に敏感で、僅かな違いも聞き取れた。四歳のとき、どんな和音でもあっさり聞き分けられたので、それで母さんの教育熱に火が点いた。

 聞く才能と弾く才能は別物なのだと痛感するには、それから数年要することになる。

 俺にはきっと、我が家にとって多額の金が投資されている。そして投資するほど、それを回収したくなる。つまり、引っ込みがつかなくなる。母さんはその悪循環に陥っているのだと思う。俺の興味はとっくにピアノから離れていたというのに。

 ならば何に興味があるのかと言われても、正直、困ってしまうのだが。

 ピアノはもうどうでもいい。でも、今の俺にはピアノしかない。何のためにこれから受験勉強をするのか、それとも就職するのか、大学か、専門学校か。何もわからない。

 ただ、この解放感だけは本物で、手ぶらで、バスにも乗らず、延々と家路をのんびり歩くことは楽しかった。必死に時間を作って練習する必要は、もう無いのだから。




 家に着く頃には真っ暗になっていた。四時間歩き続け、足にマメができた。帰宅したらその瞬間から、辞めるなんて許さないと説教されるかと思ったが、意外と家の中は静かなものだった。

 防音室とは反対にあるリビングに顔を出すと、父さんがソファから振り向き、曖昧な顔で笑って手招きした。

「おかえり。ピアノ、辞めるんだって?」

 辞めたいではなく、辞める。そう言ってくれたことが何となく嬉しい。少なくとも父さんは、俺の意図をわかっている。

 俺は隣接するキッチンに向かって歩く。

「ああ。辞める。もうコンクールには出ない。レッスンも行かない。今日が最後だ」

「手ぶらか?」

「楽譜とかステージ衣装とか、もう要らないだろ」

「そうか。そうだな」

 俺は冷蔵庫から麦茶を出してコップに注ぐ。内心、肩透かし。もっと荒れた話になるかと思っていた。

「母さんは?」

「お風呂。いいタイミングだったよ。先に父さんが話したかったんだ」

「うん、俺もだ」

「父さんたちにとっても、潮時なんだと思う。これ以上、お前に無理をさせるわけにはいかない。お前が辞めると決めた。それが全てだと思うよ」

 俺は鼻から大きく息を吸った。俺の教育に一番口を出しているのは母さんだが、その元手を最も稼いでいるのは父さんだ。我が家は父さんが最終的な決定権を握っている。

 俺の引退が、今、決まった。

「母さんには、父さんから言っておく。それとも、自分で言うか」

「頼むよ。というか、母さんにはもう言ったものだと思っている。ありがとう」

 父さんは苦笑に似た笑みを浮かべ、ため息のように吐き出した。

「ごめんな」

 返す言葉が無かった。そうだと言えば傷つけて、そんなことないと言えば嘘になる。

「腹減ったな。何かある?」

 俺に言えたのは、そのくらいだった。


     ◇


 高校三年の夏、俺は方向性を失った。ひとまず大学受験を目標にすると決めたのだが、如何せん、今までピアノばかりだったものだから成績は壊滅的だ。担任教師に相談すると、一浪してじっくり勉強してからでも遅くはないと言われた。予備校にでも通って、遅れを取り戻せばどうにでもなるらしい。

 問題は、進路希望がないことだった。行きたい学部、勉強したい分野、そうしたものが全く思いつかない。目標がなければ熱も入らない。本気で未来を想像できないものだからどうにも勉強が手に付かない。

 俺に必要なものは何となく分かっている。気持ちの切り替えだ。ピアノを辞めた後を埋めるものがないから気持ちが入らないのだ。

「辞めたといっても、十八年だもんなあ」

 高校の自習室でだらだらと閉館ぎりぎりまで勉強し、夜の住宅街をぶらぶらと歩く。独り言が止まらない。

「空っぽ空っぽ、俺は空っぽ。ピアノ以外入っていない。入っているものも大したものじゃない」

 竹林を敷地内に持つ神社に沿った道を歩く。少し暗いが、人通りが少ないので独り言をするには向いている。静かなのもいい。

「何がやりたいかと言われてもな、何もして来なかったしな」

 部活動に精を出す同級生たちが羨ましかった。仲間と一緒に汗を流す青春を送ったのだろう。ピアニストは孤独だ。ほとんどの時間が一人きりの練習に注がれる。サッカーのようにパスすることはない。野球のようにキャッチボールすることもない。

 連弾は特殊な例なので考えない。あれはたまにやるからいいものだ。

 俺の手の中には何も残っていない。高校三年までピアノを続けてしまったのは、俺自身、今まで培ったものを失うのが怖かったからだ。中学で見切りをつけておけば、高校一年で辞めておけば……キリがないしどうしようもない結果論だが、考えずにはいられない。

「結局、誰よりも俺が優柔不断だったってことだよな」

 何者でもないと認めることが怖かった。まだ、もしかしたら自分にも才能があって開花するんじゃないかと期待した。

 引っ込みがつかなくなっていたのは、母さんだけじゃない。俺の自尊心が、負けを認めたがらなかったのだ。

 はっ、と自嘲の声が出た。そのとき、前に制服姿の女の子が現れて慌てて表情を引き締める。

 俺は人一倍音に敏感で、クラスの数十人が出す音に、たまに気持ちが悪くなる。学校はどこにいっても雑音や嬌声が満ちていて、心が安らぐことがない。だからよくこうした人気の無い道を選んで歩くのだが、それでも人通りはある。どこに行っても人、人、人だ。

 俺はすれ違い、ふと違和感を覚えて振り返った。音が、何か。

 そして後悔する。その女の子も振り返っていた。そして、目が合った。

 しまった、音が無くて当たり前。

 この子は、生きていない。

 よく見れば透けている。両肩にズシリと重りが乗った気がした。

「あなた、私が見えている?」

 舌打ちが出た。

 憑かれてしまった。




 誰にも言っていないことだが、俺にはいわゆる霊感がある。幽霊が見えることがたまにあり、憑かれることも稀にある。そんなときは、両肩に何かが乗る感覚が付随する。基本、無視しているといつの間にか離れてどこかへ行く。そして、会話は成立しない。そこにいるだけであることがほとんどだ。

 だが、この子は違った。

「うわ、これ本当に見えているよね。ねえ、声は聞こえる?」

「聞こえているよ」

「喋れた!」

 なんというか、物凄く生者っぽい。テンション低く装っているが、正直、会話ができたことに驚愕している。喋る霊はちょくちょく遭遇するが、ブツブツと何かを言っているばかりであり、会話にはならない。

「俺も初めて会うな。会話できる幽霊」

「そうなの?」

「ああ。あんたほど落ち着いている奴も初めてだ。大抵、突っ立っているか、襲い掛かってくるかだから」

 襲い掛かられても触れられないのだから被害は無いけれど、びっくりはする。

「他の幽霊と会話したことないからわかんないけど、そうなんだね」

「こっちのセリフだ。幽霊同士のコミュニケーションってないのか」

「少なくとも私は知らないよ」

「あ、そう」

「君、名前は?」

「四合翔太」

「変わった名字だね」

 よく言われる。そして相手の名前は聞き返さない。長く関わるつもりはないから。

「じゃあ、幽霊さん、さっさと離れてどこかへ行ってください」

「酷いね。折角話せたのに。もうちょっとお話しようよ」

「俺は別に話したくなんてありませんよ。死者は死者らしく、墓場で運動会でもやっていてください」

 あれ、これは妖怪だったか。まあ、いい。同じようなものだ。成仏でもなんでもして、離れてくれれば文句は無い。

「でも、多分、私、君に憑いちゃったんだよね。こんなの見たことないけど」

 その子は、ほら、と自分の首を指さした。そこには、白と銀の中間のような色の糸が巻き付いている。糸は俺の背後に延び、視界の外に消えた。

 尻尾を追う犬のようにくるくると回るが、その先が見えない。

「君の背中に繋がっているよ」

「なんで」

 こんなことは初めてだった。憑かれたことは何度かあるが、こんな、絡みつくように、結ばれるように憑かれたことは初めてだった。

「あれ、ちょっと。私も離れられないんですけど」

 幽霊さんは糸を千切ろうと両手で引っ張っているが、切れる様子はない。

「翔太君、これ、どうしよう」

「どうって言われても」

 俺は霊能力者ではない。除霊なんてできない。

 だが不思議と、恐怖や焦りのような感情はなかった。この幽霊さんからは悪意を感じないし、同年代で結構可愛い。

 俺はこめかみをポリポリと掻く。

 まあ、いいか。コンクールも終わったしな。肩が重いくらい、しばらくは許容してやることにしよう。




 人気の無い道は独り言にうってつけで、幽霊と話すにもうってつけだった。

 俺は糸で繋がった幽霊を、やや透けたその体をまじまじと見る。長い黒髪、左右に分けた前髪、見覚えのある、でも俺の学校とは違うセーラー服。透けているので顔は見えづらいが、整った顔立ちなのはたしかだ。モデル並みというほどではないが、可愛い部類で間違いないだろう。

「これまで誰かに憑いたことはある?」

「ないよ。翔太君が初めて。翔太君は憑かれたことある?」

「何度かね。でも、こんな糸は見たことがない」

 俺の背中を見てもらったところ、右の肩甲骨辺りから糸は出ているらしい。俺は触れなかったし、幽霊さんも切ったり抜いたりできないということだった。

「翔太君、落ち着いているね」

「ちょうど今、暇だったんだ。時間というよりは、頭の中が」

 ピアノが抜け落ちた俺の生活は、時間と精神に大きな隙間をつくっていた。そこに付け込まれたわけでもないだろうが、女の子の幽霊一人くらい許してやろうという気持ちになっているのはたしかだった。

 それに、幽霊とまともに会話できる機会は珍しい。この機に知りたいことは結構ある。

「定番だけど、何かの未練があって成仏していないんだよね」

「ううん、どうだろう。そうだと思う」

「はっきりしないな」

「死ぬの、初めてだから」

 そりゃそうだ。俺は頭の後ろで手を組んだ。

 なんというか、お互いに危機感がない。これがコンクールを控えた時期だったら、話し相手になることすら厭うだろうが、俺の次の勝負は受験である。早くても来年。本番は多分、再来年だ。もうすぐ夏休みだが、俺は夏期講習すら入れていない。つまり、ぐだぐだに、やたらと時間がある。

「やりたいこととか、行きたい場所とかあるのなら、連れて行こうか」

「え、いいの?」

 俺は頷く。自分でも意外なほどすんなりと提案が口を衝いた。

「ずっとこうして俺に憑いているわけにもいかないでしょ。それに、まだ受験勉強に取り組む気持ちにはなれないんだ」

「高校三年生なんだね」

「そう」

「私と同じだ」

「そうなのか」

「死んだときの歳ね」

「いつ、死んだの」

「何年経つのかなあ。知らないと思うけど、幽霊って時間の感覚が鈍くなるんだよね。十年以上は前だと思う」

「そんなにか」

 十年。俺から見れば途方もない時間に思える。それだけの間、誰にも憑かず、孤独に彷徨い続けていたのだろうか。いつも思うが、幽霊というやつはとても悲しい連中だ。

「だからタメ口も許してあげよう」

「同い年じゃないか」

「生まれたのは私の方が先じゃん」

「おばさん扱いされたい?」

「絶対に、嫌」

 幽霊さんは笑った。俺もくっくっと笑いが出た。

「滝に行きたいな。平岩の滝っていって、マイナーな場所なんだけど」

 何を唐突に、と一瞬思ったが、何のことはない、俺が振った話だ。

「聞いたことがない」

「ここからそんなに遠くない場所だよ」

「ふうん」

 スマートフォンで調べると、県内にあった。車なら二時間もあれば行ける。途中、ぐねぐねした山道を通ることになりそうだった。

 思いついたことがあって、計算してみる。ちょっときついかもしれないが、なんとかなりそうだった。

「よし、行こう。滝に」

「本当に?」

「自転車で」

「……遠くない?」

「何日か漕げば着くだろ」

 意外そうな顔をする幽霊さんに、俺は軽く笑って応えた。きっと大丈夫だ。

 胸がざわついた。勢いよく立ち上がる。やるべきことをリストアップ、それらを実現するための手順を考えながら、俺は歩き出した。歩いているうちに小走りになっていく。

 なんだか久しぶりに、気持ちが浮き立っていた。




「父さん、お願いがある」

 俺は早速、帰宅直後の父さんを捕まえる。俺と母さんは先に夕食を済ませていた。まだ母さんは、俺がピアノを辞めたことに納得していないようで、でも何も強制できなくて、かなりぎこちない食卓だった。そんな母さんに、このお願いはできない。

「どうした」

 沢庵をかじりながら、父さんは何気ない調子で返してくる。この人はこういうところがある。聞き流しているようで、実は物凄くちゃんと他人の話を聞いている。

「三日くらい、外泊したい」

 父さんは箸を止め、口が半開きのまま俺を見た。俺は少し恥ずかしくなって、目を逸らす。こんなお願いをするのは初めてなのだ。

 慣れないのは父さんも同じようで、たっぷり間を空けて言葉が返ってきた。

「どこへ、行くんだ」

「ふらふら寄り道しながらだけど、平岩の滝ってところに自転車で行く」

「ああ、あそこか。自転車で行って帰るには、そうか、一日じゃ足りないな。そうか」

 そうか、そうかと繰り返し、父さんは箸を動かす。

「どこに泊まるんだ」

「ビジネスホテルを中継していくつもり。悪いんだけど、旅費をください」

 俺にはお金がほとんどない。お年玉などは貰ってきたが、楽譜代やCD代に消えた。こんなことなら全部母さんにねだって貯金しておくべきだった。

 父さんはそこで考え込んだ。一応、勝算というか、父さんは断らないと思っていたが、いざ悩まれると自信がなくなってくる。

「夏休みに入ってからだよな」

「ああ」

「日程は決めているのか」

「いや、まだ」

「そうか」

「誰かと一緒か」

「ううん、一人」

 答えながら、釈然としない気持ちになる。父さんは何を悩んでいるんだろう。箸を置き、指でテーブルをこつこつと叩く。髭が伸びかけた顎を撫で、俺をじっと見る。

「何? いい加減に何か言ってほしいんだけど」

 一人旅が心配なのはわかるが、こちとら高校三年生だ。大学生になれば一人暮らしだってする年頃なのに、そこまで心配されるのは過保護だと思う。

「お前、バイトするか」

「は?」

 父さんにふざけた様子はなく、真剣な顔で俺を向き合っている。どうやら、俺の想像とは違うことを悩んでいたらしい。

「旅費を出してもいい。代わりに、道中で仕事をしなさい」

 控えめに頷く。それは吝かではない。我がままを通すのだから、それなりの代償は覚悟していた。だが、道中でできる仕事とは何だ。

「父さんの古い友人たち、市川いちかわ仁山にやま三葉みつばという人たちに会って、返事を貰ってきてくれ」

「どういう意味だよ」

「詳しくはまた話そう。あいつらとも調整しないといけない」

 わからないことだらけだったが、俺に断る権利はない。承諾して、後日に詳細を聞くことを約束するしかなかった。


     ◇


 出発の日、空は晴天。今日からしばらくは天気がいい。夕立には気をつける必要があるが、いい日取りになった。雨より暑さの方に気をつけなければならない。

「じゃあ、毎日連絡しなさいね」

「わかったよ」

 母さんは不安な様子で見送りに来た。父さんはにこにこ笑っている。

「いいねえ。学生って感じだ」

 俺のママチャリの荷台には荷物が括りつけられ、前籠には飲み物などが入った小さなバッグを放り込んでいる。

「じゃあ、しばらくのんびりしてくるよ」

 そう言い残して、俺はペダルに力を入れた。角を二つ曲がれば、もう学校とは違う方角を向く。あまり長距離を漕いだことはないが、足は楽に動いた。持久力には少しだけ自信がある。ピアノ演奏は体力を使うのだ。

「さて、幽霊さん、いる?」

 特に大きな声でも、背後に向かって言ったわけでもないが、後ろから返事が来る。

「荷物の上に座っているよ。重い?」

「そんなに重くない。少なくとも、幽霊さんの体重は感じないね」

「良かった」

 今日の宿泊先は、平岩の滝がある山の麓のホテルだ。平岩の滝は、自転車で日帰りするには遠いが、二日でなら往復できる距離にある。俺は二泊三日で帰ってくるつもりだった。

 そして、父さんから頼まれたバイトの一つ、市川さんという人に会うのが今日の予定だ。

 自転車は快調に飛ばしていく。まずは、大きな道をひたすら西へ。

「出るとき、どうしてのんびりしてくるって言ったの?」

 幽霊さんが聞いてきた。

「まるで温泉旅行にでも行くみたいな言い方」

 たしかに、今の俺の姿はのんびりしていない。でも、これは間違いなく、のんびりするための旅行なのだ。

「ピアノのことを考えなくていいからだ。家にいたら、どうしてもな」

 家には小さいながらも防音室があり、アップライトピアノが置いてある。俺がピアノを辞めても、ピアノを処分したわけではない。母さんだって弾くし、二度と弾かないと決めたわけでもない。

 寸暇を惜しんで練習してきた。その癖が抜けず、家にいると、ついピアノを練習する時間を気にしている自分がいる。防音室のドアを目にするたびに心がざわつき、練習しないことに焦燥感を覚える。

 ピアノから離れたい。それが偽らざる本心で、そのために出る旅行でもある。

「この数日間、翔太君の様子を見てきたけど、なかなか大変なご家庭だもんね。我が家はあれほど教育熱心じゃなかったな。ピアノをねだっても買ってもらえなかったし」

「高いしね」

「ま、私は三日坊主で弾かなくなっていたと思うけど」

 外見に似合わない発言で笑えた。真面目なお嬢様といった風貌だが、意外と飽きっぽいのか。

「親御さんの見立ては間違っていなかったわけだ」

「そうだね」

「会わなくていいのか」

 幽霊さんの言葉が途切れた。

 行きたい場所に滝を指定されたが、裏を返せば、家族に会うことは求めなかったともいえる。たとえ相手からは見えないとしても、一目見たいと思って不自然ではない。

「いいよ。嫌いじゃなかったけど、優先順位をつけると、ね」

 幽霊さんの声に重みはなくて、少し安心する。

「ふうん。俺は友達がいないからわからないけど、仲がいい人もいたんじゃないのか」

「友達、いないんだね。道理で学校でもずっと一人だと思った」

「ピアノ漬けだったからな」

 諦めてきたものが、たくさんある。学校行事は普通に参加してきたが、特別親しい友達はできなかった。休日のほぼ全てをピアノに使っていれば当然そうなる。

「俺の話はいいんだよ。幽霊さんは友達に会わなくてもいいのか」

「今どこにいるかもわからないよ。運がよくないと会えないと思う」

「ああ、そっか」

 考えてみれば当然のことだった。俺だって大学進学すれば県外へ行くかもしれない。十年あれば引っ越しの一度や二度するだろう。

「そういえば、幽霊さんの死因って何だったんだ」

 ふふ、と笑う声が聞こえた。

「自殺」

 喋りながら漕ぐのが辛くて、それ以上は聞かずにおいた。

 こんな序盤から荷物を増やすこともない。


      ◇


 休み休み漕いだ昼過ぎ、約束の時間通り、市川さんの自宅に到着した。汗が完全には引かないが、どうしようもないので勘弁してもらおう。

 小さい方のバッグを抱えてインターホンを鳴らすと、髪を短く刈り込んだ、人の好さそうな男の人が満面の笑みで出迎えてくれた。

「いらっしゃい。勝から聞いている。さあ、入って入って」

「お、お邪魔します」

 全身から放たれる陽のオーラにたじろいでしまう。こういう人は底抜けに明るく、そして暗い場面ではしっとりと、実に素直に演奏するタイプだ。

 素直ならいいというものでもないから難しいんだけどな。

 ピアノで考える癖が抜けていないことを自覚し、こっそりとため息をついた。

 通された涼しいダイニングで麦茶を頂く。自己紹介していないことに今さら気づいた。

「遅れましたが、初めまして。四合勝の息子の翔太です」

「こちらこそ初めまして。市川です。お父さんとは、高校で同級生だった」

「では早速ですが、これが父からのメッセージです」

 俺はバッグから便箋と封筒を取り出し、渡した。封筒には「共用」、便箋には「市川へ」と書かれている。

「個人宛の手紙を読んで、共用に返事を書き込んでくれ、とのことです」

「なるほど。ありがとう」

 市川さんは手紙を受け取ると、リビングのソファに移動した。俺の視線が気になったのだろう。俺もプライベートな思い出話の手紙を盗み見るつもりはない。心置きなく麦茶を飲む。幽霊さんの気配も背後に感じながら、俺はゆっくりと待った。




「翔太君」

 はっと意識が戻った。居眠りしていたらしい。

「すいません」

「いやいや、いいんだよ。僕が待たせてしまったからね。これが返事だ」

 市川さんは封筒を俺に手渡した。中には紙一枚しか入っていないことが感触でわかるほど薄い。

「僕たち、つまり、君がこれから会う人たちは、高校のとき同じグループだったんだ。僕、勝、仁山、三葉、そして高崎」

「高崎?」

 父さんから聞いていない名前が出た。

「会う予定はないだろう。彼女はもう、この世にいないんだ。交通事故で亡くなった。僕たちが高校三年生になったばかりの春だった」

 そう切り出して、市川さんは昔語りを始めた。




 市川と勝はテレビゲームに興じていた。有名キャラクターが出てくるレーシングゲームである。市川の自宅リビングでプレイしていると、インターホンが鳴った。ゲームを中断し、開錠する。

「どうぞ」

 インターホン越しにそれだけ言い、市川はコントローラーを握った。何も言わずに再開するが、勝の操作にラグは無い。

「お邪魔します」

 三葉の緩く巻かれた明るい髪が入ってくる。続いて高崎と仁山もお菓子が入っていると思われるコンビニの袋を提げて入ってきた。

「いらっしゃい」

 市川はテレビ画面から目を離さずに言った。勝とは実力伯仲しており、油断すると負けてしまう。誰もその雑な歓迎を気にせず、勝手知ったる様子で菓子を出していく。三葉は鞄からノートと参考書を出した。

「仁山、数Ⅱ教えて。二次関数」

「人んちに来てさっそく勉強かよ」

 勝がゲーム画面から目を離さず言うが、三葉はため息一つで返した。代わりに高崎が答える。

「今年は受験なんだから、あんたらも遊んでばっかりじゃいられないよ。仁山を見習え」

 勝は気にした様子もない。

「俺たちは仁山と違って帰宅部じゃないから。部活を引退してから追い上げるんだよ。高崎こそ、地理の成績がいいのも下心じゃねえか」

「うっさいな。できないよりは百倍いいでしょ」

 高崎は黒髪のまっすぐなロングヘアーを揺らして市川の隣に座った。服はモノトーンのワンピース。色白の肌も相まって、清楚な女子高生然としている一方で、口と性格は全く清楚ではない。どちらかと言わなくても、大人しいのは三葉の方なのだが、こちらは地毛が明るいことに加え、背が高く、目つきが鋭い。外見と内面が入れ違いになったようなコンビだと、市川はずっと思っている。

 市川と勝が知り合ったのは高校一年。同じクラス、同じ卓球部に所属していたから。仁山とも、同じクラスにいるうちに仲良くなった。高崎と三葉も同じクラスだったが、仲良くなるのは一年の三学期だった。

「下心とは失礼だよね。純粋な努力だと思わないわけ?」

「モチベーションは、少なくとも純粋じゃないだろうな」

 黙っていた仁山がからかうように笑って言った。高崎が露骨な舌打ちをする。その音を聞くだけで、どんな表情をしているのかわかる気がした。顔を歪め、一瞬後には元に戻っているだろう。

 高崎が下田という、一年のときの担任教師に好意を寄せている、それどころか隠れて付き合っていることは五人の共有情報だった。市川は高崎たちと親しくなったきっかけを思い出す。

 —―ねえ、あんた達の仲間に入れてよ。

 今より少しだけ幼い、記憶の中の高崎の表情がはっきりと思い出せる。断られるわけがない、そう思っている顔だった。

 そのときの仁山と勝は顔を見合わせ、そして高崎の後ろについてきていた三葉を見て、頷いた。

 市川が三葉のことを好きだと、二人は知っていたからだ。

 そんな強引な切っ掛けから、丸一年と少し。五人は仲良くやってきたと市川は思っている。今、仁山から勉強を教わっている三葉に思いを伝えるタイミングを探りながら、油断ならない、でも楽しくて仕方ない時間。

 レースは勝が勝った。それから高崎もコントローラーを握って、三人で対戦する。

勉強する三葉と、それを教えながら観戦する仁山。ゲームに一喜一憂する市川達。そんな風に一時間ほど過ごし、高崎はコントーラーを置いた。

「じゃあ、そろそろ行くわ」

「いってらっしゃい」

 市川は玄関まで見送り、高崎は上機嫌で手を振って歩いていった。

 リビングに戻ると、勝はソファにだらりともたれかかっていた。少しゲームにも疲れたようだ。

「高崎は今日も逢引か」

「上手くいっているみたいだな、あの感じだと」

 出て行くときの顔を見れば、なんとなく二人の関係が良好かどうかわかるくらいには、見慣れた光景だった。

 高崎は、高校一年の冬から下田と付き合い始めた。下田は今も市川達の学年の地理を担当している。しかしもちろん、教師と生徒の恋愛は許されない。学校の外で二人で会うことすら、誰かに目撃されたら致命傷になる。そこで目を付けたのが、市川達のグループだった。

 今、この時間、高崎は市川の家にいることになっている。万が一、下田との逢引が目撃された際、市川達は高崎とずっと一緒にいたと証言することを約束している。いわゆるアリバイ工作だ。

 三葉と高崎は入学当初から二人でいることが多かったが、下田との付き合いにあたって、三葉だけにアリバイ工作をお願いするわけにはいかなかった。あまりに負荷が大きいし、逢引の間、三葉は基本的に誰にも会わず、架空の用を作り続けなければならない。そこで高崎は集団をつくることを考えた。自分と三葉を含めたある程度の集団から、自分一人だけが消える。これならば負担を分担できるし、三葉も一人でいる必要はない。

 気がかりなのは、男子三人の中に女子一人であることだったが、意外と三葉は気楽そうにしている。

「あいつ、マジで地理の成績だけは図抜けていいよな。羨ましい」

 勝がだらけた姿勢のまま言った。下田に嫌われないように、少しでも好かれるように、高崎は地理をとても勉強している。地理だけなら、学年トップクラスの成績だという。

 仁山は眼鏡を少し触れて位置を直した。

「羨ましがっても成績は上がらないぞ。努力した分しか点数にはならん」

 市川は仁山のクールな意見が聞きたくて話を振ってみる。

「大学か。高崎と下田の関係はどうなるんだろうな。教師と生徒じゃなくなるわけだけど」

「どうにもなりはしない。下田は妻子持ちの既婚者なんだ。高崎と結ばれる未来はないよ」

 仁山の意見はあまりに現実的で、少し高崎の肩を持ちたくなる。

「逆転満塁ホームランの可能性だってあるだろ」

「下田が離婚したら、そういうこともあるかもしれない。でも、高崎が幸せになる代わりに、下田の妻子が大変なことになる。それを素直に喜ぶことはできないな」

 肩を竦めた。わかっている。下田にちょっかいを出したのは高崎の方で、妻子持ちの男、しかも担任教師と関係を持ってしまったことは、決して褒められたことではない。

 だが、市川はそれでも高崎が幸せであってほしいと思っていた。好きな人と結ばれればいいと願っていた。なぜなら、親友だから。利用される関係ではあっても、それだけの関係ではない。五人で夏祭りに行った。海にも行ったし、学園祭を一緒に回った。クリスマスを騒いで、同じクラスだった頃は毎日のように顔を突き合わせた仲なのだ。

 下田のことは、教師としてはどうかと思うが、高崎が好きになった相手だから悪く言いたくない。卒業までには、きちんと決着をつけてくれるだろうと期待している。

 市川はリビングの隅に放ってあった鞄から教科書とノートを出した。

「仁山、僕にも頼む。数B、ベクトル」

「はいはい」

 淡々と言う仁山と対照的に、勝は取り乱した。

「あ、お前らだけずるい。教科書持ってきていないんだぞ」




「僕たちはそんな関係だった」

 市川さんは突然青春時代のことを話し始め、俺は呆気に取られて聞いていた。ようやくできた間に、「そうですか」とだけなんとか声を発した。

「君のお父さんから、僕たちの関係について話すように書かれていたから、懐かしい話をしてみた。僕にも子供がいるけど、自分が学生だった頃のことなんて話さないから、なんだか新鮮だったよ」

 父さんの指示だったらしい。このバイト、ただのメッセンジャーに徹することもできるが、父さんがわざわざ俺を寄越したことは理由があるだろうと思っていた。三日間、ただぼんやり走るのも悪くないが、目的があるとまた違う。父さんが考えていること、狙いは何なのか、考えてみてもいい。

 きっと父さんなりに、ピアノを捨てた俺を心配し、何かを伝えようとしているのだろうから。

「高崎さんは、亡くなったんですよね。その後、四人の関係はどうなったんですか」

 聞く限り、高崎が必要としていたから生まれた関係だ。

「三葉は他の女友達と過ごすことが多くなった。勝と仁山と僕は、そんなに変わらなかった。とても寂しかったけどね。だから、三葉に想いを伝える機会はなかった。言い訳というか、さっさと言えばよかったのだけれど、簡単に言って、ビビったんだな」

 市川は悔いているはずだが、どこか楽しそうに言う。きっと今が幸せなのだろう。見える範囲にも家族の写真が何枚も飾られ、生活感のあるキッチンやダイニングからは家族の気配がする。

「でもね、納得いかないこともあるんだ」

「何ですか」

「死んだとき、高崎の血中からアルコールが検出された」

「……飲酒していた?」

 俺には経験がないが、父さんたちがお酒を呑むと、言動がふわふわとして、少し馬鹿になる。注意力も下がる。

「その日も、おそらく下田と会っていたんだ。僕たちは聞かされていなかったけどね」

「下田が高崎さんに酒を飲ませたということですか」

「そういうことだと思う。そして、事故に遭った。直接の因果関係はない。でも、高崎が飲酒していたことが知られてしまった。それを隠してあげられなかったことは、少し残念だ」

 市川さんは、父さんからの手紙を弄ぶ。

「その日僕たちは集められていなかったから、高崎が何をしていてお酒を呑んだのか、本当のところはわからない。でも、十中八九下田だろう。これでも、高崎の交友関係は知っていた。酒を飲ませるような友人は思いつかなない。

 親御さんは高崎が死んだ日の足取りを知りたがったが、下田は何も言わなかった。そりゃあ、言えないよな。代わりに僕たちが、直前まで一緒にいたことにしたんだ。飲酒は知らない、帰り道で買って飲んだのだろうと、親御さんには説明した。本当は、下田との関係を暴露すべきだったのかもしれないが、死者の名誉を傷つけても誰も救われない」

 終始柔和な表情だった市川だが、最後の言葉だけは険しい表情だった。


     ◇


 川面が煌めく。

 河川敷に降りられる階段に座り、草野球をしているおじさんたちを見ながら俺は何もしないことをしていた。川がこんなに眩しいなんて知らなかった。流れる水がこんなにも膨大で、途切れなく続く不思議。きっと、海に行けば波が立ち、雨が降れば違う姿を見せるのだろう。

 そんな当たり前のことすら忘れているようで、情緒豊かな演奏なんかできるわけがなかった。よく言われることだが、自分の中にあるものしか表現できない。知らないことは喋れない。もちろん、陽光を反射する川を見たから劇的にピアノが上手くなるわけではないだろう。だけど、自分の中に無かったものがたしかに補給された。足元の草をむしって放り投げる。この土の感触すらも、今は貴重に思える。

「何考えているの」

 隣に幽霊さんが座っていた。周りから見て怪しまれるかもしれないと思ったが、どうでもいいか、と開き直って声を出す。

「何も。時間がゆっくり過ぎるなって思っていた」

 ピアノ練習がないと、一日はこんなに長いのか、そう、感じていただけだ。考えることも感じることも、今は急かされていない。

 俺は市川さんから受け取った、「共用」の封筒を開いた。特に封もされていない。入っているのは紙一枚。四合、市川、仁山、三葉の四つの名前の下に記入欄があり、「四合」の下には×が、「市川」の下には〇が書き込まれている。

「何だろうな、これ」

 幽霊さんも横から覗き込んだ。

「出欠表みたいだね」

 たしかにそう見える。だが、それならば電話でもなんでもいい。わざわざ俺を遣わす必要はない。四人だけの出欠表というのも、腑に落ちない。

「個別の手紙に書いてあることが重要なんだろうな。市川さんが話していた、高崎って人のことが関係しているような気がする」

「どうして」

「市川さんは、父さんから学生のときのことを俺に話すように言われた、と言っていたが、旧友の死なんて、世間話でする話じゃないだろう。三年間一緒に過ごしたなら、父さんとの思い出話は他にもあるはずだ。父さんが話題を指定したんだ」

 そしてこの名簿は、これから俺が回る人たちの名前が書いてある。

「父さんは、俺に何かを伝えようとしている。こんな、回りくどい方法で」

「それはどうかな」

 俺は確信めいたものを感じていたが、幽霊さんは意外にも難しい顔をしていた。

「自分が主役だって、思ったことない?」

「いきなり何」

「自分の人生ってさ、自分が主役で、最後まで諦めなければ素晴らしいエンディングを迎えられるような気がするよね」

 別に素晴らしいエンディングを期待するほど子供ではない、と言いたかったが、割り込まない方が良さそうで聞き続ける。

「意味ありげなことは自分へのメッセージだとか、自分の行動で未来を引き寄せられるとか、思っちゃうよね。でも、自分が本当は脇役だって認めたくない気持ちが、そういう、なんていうのかな、バイアスをかけてしまうことはあると思う」

「バイアス……」

 俺は四人の名前が書かれた紙をもう一度見た。これは、俺へのメッセージではない?

 力ない笑いが出た。

「そう言われればそうだ。俺は主役じゃなかったな」

 ステージでは主役だ。俺一人しかいない。でも、コンクール全体で見れば、俺はただの噛ませ犬、脇役も脇役だった。俺の名前なんて、審査員の誰も覚えていないと自信を持って言える。そんな主役はいない。

「幽霊さんはさ、どうして自殺したの」

 なんとなく、今の会話が繋がっている気がした。

「主役を気取った脇役だったから、かな。いい気になっちゃったんだよね」

 それきり、幽霊さんは口を閉じた。

「そっか」

 俺の姿なのかもしれない、と唐突によぎった。これまでのどこかで、もしくはピアノを続けていたら、俺も自ら命を絶っていたかもしれない。精神的に追い込まれたことは何度もある。期待が辛かったことも数えきれない。そんなときに、自分は敗者の役割を負っていたのだと思い知らされれば、もしかしたら。

「そういうこともあるか」

 死ぬ前に気付けてよかった。そう言うことがデリカシーに欠けていると、さすがにわかった。


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