おるすばんのホームズ

秋待諷月

おるすばんのホームズ(上)

 君は微睡まどろみから目を覚ます。

 窓からレースのカーテン越しに柔らかな午後の日差しが入る、リビング窓際のソファの上で、のそりと身を起こして大きな欠伸をする。

 カチ、コチ、という時計の音を聞きながら、寝ぼけ眼のまま、ぼんやりと室内を見渡した。

 そこで初めて君は気付く。


 いつでも綺麗に掃除された木目調のフローリングの上に、あたかも桜の花びらが散ったかのように、大量の紙片が散らばっていることに。


 つるつるとした厚めの紙が、細かくビリビリに破れたもののようである。紙片の形や大きさは不揃いだが、君の掌より大きな面積を残しているものは無さそうだ。破れる前の紙のサイズは判然としないが、豪快にぶちまけられた紙片の量からして、広げた新聞紙程度だろうか。

 まだ夢の中に足を半分突っ込んだまま、リビングの床に敷かれた紙片のカーペットという見慣れない光景を眺めているうちに、君は唐突にその正体に思い当たった。同時に、これが由々しき事態であることを理解し、慄然とする。


 それは、今日の昼過ぎまでは間違いなくリビングの壁に貼ってあった、一枚の大きなポスターの成れの果てだった。


 若い女性たちから絶大な人気を誇る、いわゆる「男性アイドル系アニメ」のグッズである。総勢二十名近い二枚目キャラクターたちが画面いっぱいに配置され、それぞれにポーズを決めて笑顔を浮かべる華やかなポスターの持ち主は、君が暮らすこの家の中において絶対的な力を持つ、高校二年生の姉。

 このアニメの熱狂的なファンであり、登場キャラクターを神のごとく崇め奉って憚らない彼女は、歳の離れた小学校三年生の妹までも巻き込んで、テレビ画面に向かって黄色い声を上げるのが日課となっている。

 このポスターは、姉が蒐集するグッズの中でも一番のお気に入りだ。リビングの壁にアニメのポスターを貼ることに、母親は最初こそ難色を示していたが、仕舞には根負けして折れた。なお、数の力で女が圧倒的優位に立つこの家庭内において、父親と君の発言力は無いに等しい。

 姉は毎朝、起き抜けにリビングへ顔を出すと、両親への挨拶もそっちのけでポスターに「おはよう」と手を振る。外出から帰宅すれば、君や妹よりも先に、ポスターに「ただいま」と微笑みかける。


 そんな、彼女にとって宝物とも言うべきポスターが、今、前述のとおりの哀れな姿に変わり果てているのである。


 八つ裂きになり、顔面の三分の一が欠けたイケメンキャラクターの笑顔に見つめられて、君は恐怖に竦み上がった。愛するキャラクターたちがこんな目に遭わされたと知れば、あの姉の怒りがどれほどに達するか、想像するに余りある。


 いや――事態がもっと深刻であることに、君はとうの昔に気が付いている。


 眠気も完全に吹き飛んだ君は、素早く室内に鼻先を巡らせ、同時に耳を澄ませた。

 リビングに人の姿は無く、物音も聴こえない。他の部屋や二階にも、誰かがいるような気配は無い。

 待機中の家電が発する微かな音以外では、リビングで唯一の音源となっている壁掛け時計に視線を送れば、長短合わせて三本の針が十六時五十分ジャストを示していた。

 今日は月曜日。父親は会社に出勤しており、母親もパートで働いている時間帯である。姉はまだ高校から帰って来ていない。妹はすでに帰宅しているはずだが、君がここで眠り込んでいる間に、いつもどおり、友人の家にでも遊びに行ったのだろう。

 よって現在、この家の中にいるのは君だけだ。

 このあと、帰宅した姉がリビングに広がる光景を目の当たりにしたら、この状況を一体どう受け止めるだろうか?

 無残に破り散らされたポスターと、その傍らでぽかんとアホ面を浮かべる、家に唯一残っている君。


 彼女は、これが君の犯行であると断定するに違いない。


 ただでさえ、姉は理不尽の権化である。君は常日頃から彼女に遊ばれ揶揄からかわれ、怒鳴られ叱られ揉みくちゃにされている。大事なポスターを台無しにされたと思い込んだ彼女が、君にどんな仕打ちをするか――よくておやつ抜き、悪くて夕飯抜き、最悪、外に追い出されて「一晩頭を冷やせ」などと言い渡されても不思議ではない。

 故に、君は決意を固める。


 姉が帰宅するまでに事件の真相を突き止め、己が潔白を証明することを。


 君は再度時計を見上げる。姉は、これから十分以内には必ず帰ってくる。今日の十七時から放送する情報番組の中で、まさにこのアニメの特集が組まれているからだ。今朝、登校前の姉が「リアルタイム視聴リアタイするから五時までに帰る」と鼻息も荒く断言するのを、君も無関心ながら耳にしていた。

 十七時きっかりに帰宅していては番組の冒頭を見逃す恐れがあるため、姉は多少の余裕を見て帰ってくるはずだ。となれば、君に残された猶予は、せいぜいあと五分。

 今こそ、君がこの世に生を受けてからこれまでに培ってきた、十一年分の知恵と知識を総動員する時だ。

 君は勇ましく口元を引き締め、ソファの上から飛び降りた。

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