第16話 鈍感

 オートロックのマンションの八階。せっかくドアの前まで入れてくれたのだから、もう少しくらい歓迎してくれてもいいのではないか。小さく開いたドアの隙間から、まるで裏切り者でも見るような不審の目でにらみつける視線に、地豪勇作は気圧されていた。


「で」


 相手の鋭く短い言葉に勇作は目を白黒させる。


「で、とは」


「アタシにいまさら何の用かって聞いてるんでしょうが!」


 斬りつけるような怒鳴り声に勇作は思わず気をつけの姿勢となり、がくがくと何度もうなずいた。


「す、すまん。いや、実は、カードが利用限度を超えてしまって、あれだ、使えないんだ」


「それが何」


「レンタカーを使いたいんだ、できれば急いで。でも現金の持ち合わせがなくて」


「まさかと思うけど、金を貸せとか言わないよね」


「……できれば貸してもらいたい」


「アホかぁっ!」


 ドアが叩き付けられるような勢いで開けば、中には背の高い――そして恐ろしく気の強そうな――女が立っていた。年は三十絡みだろう、相応の老け方はしているが顔立ちは整い、長い手足も華奢な印象はない。


「何でこのアタシが、とうの昔に別れた男に金を貸してやらなきゃならん訳! だいたいアンタに貸して返せんのか!」


 しかしこれはさすがに心外だったのだろう、勇作はムッとした顔で言い返した。


「お、俺がおまえに嘘ついたことあるかよ」


「ないよ、それがどうした」


 女は平然と言い返す。


「馬鹿正直と女を殴らないことしか能のないのがそんなに自慢かね」


「自慢してる訳じゃねえよ、ただ俺は」


 しかし女の視線は勇作の顔から下に移動する。真っ赤なロサンゼルス・エンゼルスのキャップをかぶって半袖のパーカーにハーフパンツ姿のマーニーが、キョトンとした顔で見上げていた。


「これでよく子供なんて作れたもんだ」


「俺の子供じゃねえよ!」


 慌てる勇作に、女はさらなる疑惑の目を向ける。


「アンタまさか」


「気持ち悪い想像すんな! そういうんじゃねえから!」


 それでもしばらく女は勇作を値踏みするように見つめると、アゴで勇作を促した。


「入りな。玄関先じゃ近所迷惑だ」


 近所迷惑なのは、俺のせいではないのでは。勇作の顔にはそう書いてあったが、口には出さずマーニーを連れて部屋に入った。




 一人で住むには少し広い部屋。最近流行りのミニマリストなのだろうか、家具らしい家具も見当たらずガランとした印象。


「出してやる座布団はないから、その辺に適当に座れば」


 女はそう言うと、部屋の隅にあった木の丸椅子に座る。フローリングの床の真ん中にカーベットが敷かれていたので、勇作はその端に腰を下ろして胡座をかいた。女はそれが気に入らないと露骨に顔に出したのだが、口に出さなかったのは最低限の敬意か。しかし勇作はまるで気付かず、立ったままのマーニーを不思議そうに見ている。なるほどな、という顔でマーニーは、キャップを脱いでカーペットの外側に座った。


「子供の方がよっぽど気ぃ回るわ」


 そうつぶやいてズボンの尻ポケットからタバコとライターを取り出した女に、勇作は眉を寄せる。


「おまえ、まだタバコ吸ってんのか」


「だーっ、るっさいなもう。何で最近の男は、どいつもこいつもタバコやめさせようとすんのかね。健康志向か、アホ臭い。そこまでして長生きするつもりないから、こっちは」


 まくし立てながら女は勇作から目をそらし、片手でタバコを咥えて火をつけた。勇作はやれやれといった風にため息をつく。


「その言い方じゃ、前の旦那にもさんざん言われたんだろう」


「えーえー、言われましたね。前の旦那にも、その前の旦那にもね」


「えっ、おまえ二回も離婚してたのか。いつの間に」


「何でそんなことイチイチ報告しなきゃいけないのさ。年賀状にでも書いて欲しかったの、離婚しましたーって。アホか」


 女はタバコをふかしながら、シャツの胸ポケットからスマホを取り出し、何やら操作している。一方の勇作は背筋を伸ばし、真剣な顔だ。


「けどおまえ、娘がいるんだろう」


「だから何」


 女は刺すような目で勇作を見つめた。


「娘がいたらタバコ吸っちゃいけないの。再婚しちゃいけないの。セックスしちゃいけないの。アンタにそれ言う資格ある?」


 勇作は目をそらさない。まるでそれが自分の責任であると考えているかのように。


 そのとき、女のスマホがチャイムを鳴らした。タバコを大きく吸い込みながらそれを確認すると、迷惑そうにこう言う。


「アンタの口座に三十万振り込んどいたから。もうこれ以上ビタ一文貸さないからね。あと絶対返してもらうから覚えといて」


 すると、マーニーが不意に立ち上がった。


「さて、行くか」


 これに当惑する勇作。


「な、おい何だよおまえ」


「おまえ言うな。まったく鈍感もここまで来ると、さすがに始末に負えんな」


 そして呆気に取られている女に向かってマーニーは微笑んだ。


「余計なお世話かも知れないが、そなたの判断は賢明だし誠実だ。罪を背負い込もうなどと考える必要はない」


 それだけ言って玄関に向かう。勇作は意味がわからないが、マーニーを放っておく訳にも行かず、バックパックと釣り竿ケースを手に立ち上がって後を追った。


「ちょっと待て、おいちょっと待てって」


 勇作の声がドアの向こう側に消えるのを待っていたかのように、女は椅子から崩れ落ちるように床にへたり込む。見開かれた目からは涙が落ちた。




 まったく何てこった。今日は教育実習の学生を連れて飲みに行くはずだったのに、近所のショッピングモールで発砲事件があったらしく、生徒たちを勝手に帰す訳には行かなくなった。基本、保護者が迎えに来るまで学校内で待たせなくてはならないし、保護者に連絡がつかない場合は教員が手分けをして送り届けるよう、教育委員会からも指示があった模様。飲み会はパーだ。


 黄色いジャージの体育教師の男は、不満タラタラな顔で中学校の校門前に立っている。保護者が来る前に不審者が入ってこないとも限らない、と校長に言われての門番役だったが、それなら竹刀か刺股さすまたくらい持たせろよというのが正直なところ。しかし「印象が悪い」との理由で、素手で外に立たされているのだ。本当にまったく何てこった。


 だいたいあの校長のやり方は前から気に入らなかったんだ。あまりにも教員を馬鹿にし過ぎている。ろくな責任も取れないくせに責任者づらだけ一人前で、何かあったら下に丸投げだ。現場の人間をなめんじゃねえぞ。


 その気持ちをそのまま口に出せれば問題の解決には早道なのだろうが、残念ながらそんな度胸は、この男にもある訳がない。


 黄色ジャージの体育教師が、何度目かの大きなため息をつくその目の前に、車が一台停まった。保護者の車だろうか。随分早いな、家が近所なのかも知れないが。いや、待てよ。前がエラいひしゃげてるぞ。修理しないんだろうか。本当に保護者の車か?


 確認しようと一歩近付くと、窓が静かに降りた。運転席の作業服の男が、白いライトバンの中から手を出す。黒いモノを握った手を。黄色ジャージの体育教師は何か不思議な力に引き寄せられるかの如く、その黒い塊を手にした。

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