第9話 青空優遊舎
「お仕事、ですか」
早朝、睡眠不足の頭で言われるがまま教会外周の掃き掃除をしていた小丸久志に、エビス顔の土蔵部が仕事を頼めないかと話しかけてきた。
「はい、教団がお世話になっている慈善団体があるのですが、そちらに届け物がありましてね。これから何度も会うことになるかも知れませんし、顔見せを兼ねてお願いできればと。今日は無理というのでしたら、また後日でも結構ですが」
「はあ、僕は別に構いませんが」
難しい仕事でもなさそうだし、教会の外に出るとなれば鮫村課長の知りたい情報に触れる可能性もあるかも知れない。とりあえず後で課長に連絡して現状報告を入れておこう。
土蔵部はエビス顔をほころばせて何度もうなずいた。
「そうですか、それは助かります。では準備を済ませますので、十一時頃に出かけてください。昼食は向こうで用意してくれると思いますから」
「わかりました。行くのは僕一人ですか」
「縞緒さんと釜鳴さんも一緒にと思うのですが、何か不都合はありますか」
「いえいえとんでもない、一人じゃ心細いなって思ってたもので。心強いです」
「それでは後ほど呼びに参りますので、掃除が終わったらお部屋でお待ちください」
それだけ言うと土蔵部は教会の中に戻って行った。
「了解。じゃ、終わったらまた連絡くださいな。あ、くれぐれも変な気は起こさないように。手柄を立てようなんて思っちゃいないでしょうが、とにかく安全第一を心がけること。バレたら私の首が危ないですからね」
鮫村課長はそう言って小丸久志からの電話を切った。正直なところ、いま散場大黒奉賛会の件は優先順位的に高くない。ムスリム大量殺人の方が遙かに大事である。しかしせっかく潜入に成功したのだ、チャンスを無駄にするのももったいなかろう。価値がある間は活用しなくては。
スマホを上着のポケットに戻して課長室から出れば、隣の刑事部屋では眉間に皺を寄せた部下たちが、写真を貼り付けたホワイトボードの前で沈黙している。グッタリしている有様は疲れ果てているようにも見えるものの、本来どいつもこいつも体力のバケモノのような連中だ。疲労と言うより不満から来るストレスが原因だろう。
いま薬物銃器対策課は捜査一課のサポートに回っている。サポートと言えば聞こえはいいのだが、ほとんど使いっ走りに近い。何せ相手は刑事部の花形で、しかも今回の事件は県警のメンツがかかった大仕事だ。表立って不満を表す訳にも行かず、腹に言いたいことを溜め込んでいる課員は少なくないに違いない。
適当にパイプ椅子を引き寄せて座ると脚を組み、鮫村は微笑んだ。
「ここにクビになりたい人はいるかな」
課員の視線が一斉に集まる。刺すようににらむ者、憤然と目を見開く者、キョトンと呆気に取られている者などなど。しかし鮫村は平然と言葉を続けた。
「私は困るんだよ、クビにされると。ローンも残ってるしね。けど今回のヤマで一課がしくじると、上の方は連帯責任を問われる訳。拳銃を使った大量殺人なんて起こされて、薬物銃器対策課長の私だけ無事安泰って理屈は通らない。いや、面倒をかけてるなとは思うよ、キミらには。でもそこを何とか。上司に恩を売ると思ってさ、いまは一課の指揮で動いてくれないかな。頼むよ」
ピンと張り詰めていた部屋の空気が緩み、刑事たちは苦笑を浮かべている。指揮官の仕事は部下をアゴで使うことではない。部下に動く理由と方向性を与えることだ。鮫村はそう考える人間だった。
確かに難しい仕事ではなかった。やや重めではあったものの、久志が一人で持てるアルミのキャリーケースを一つ、「慈善団体」に運ぶだけ。どう考えても大人が三人で任されるような仕事ではない。ケースの中身は気になったが、鮫村課長からは迂闊な真似をしないよう釘を刺されている。久志は他の二人と共にタクシーで目的地に向かっていた。
「皆さん、ご家族ですか」
高齢に見える運転手が助手席の釜鳴佐平に話しかける。釜鳴は愛想良く笑顔を返すと首を振った。
「いや、まあ言えば職場の同僚ですな」
「ああ、なるほどねえ」
いったい何がなるほどなのかはよくわからないのだが、運転手は一人納得した。かと思うとこんなことを言い出す。
「いえね、最近じゃ家族ってもイロイロあるじゃないですか、昔と違って。私らが子供の頃なんて親父はすっげえ怖くてね、いつもムスッとしてましたよ。でも威厳があった。おっ母さんは優しくてニコニコしててね、それでいて慌てず騒がずドーンと落ち着いてて懐が広かった。それが最近はねえ」
「何かありやしたか」
よせばいいのに釜鳴が言葉を促す。まったくどうして老人は、こう過ぎ去った昔を美化するのか。昔の親だって、そんなに立派な人ばかりのはずはなかろうに。呆れた久志のため息も聞こえないのか、運転手は上機嫌でさらに話を続けた。
「今朝なんですけどね、親子連れを乗せたんですよ。たぶん親子でしょうな、あれは。三十過ぎの坊主頭のでっかい岩みたいな体つきした男と、十二、三歳くらいかな、女の子の二人連れ。釣り竿ケース持ってたから夜釣りからの帰りですかね、この親父がいかついクセにだらしなくって、服なんかボロボロの穴だらけでしたよ。で、後ろの席に乗ったらすぐグースカ眠り始めて。もう父親の威厳も何もありゃしない。私ゃ正直、ああ、こんなのがうちの息子じゃなくて良かった、って思いましたね。だいたい母親は何してんだか……」
延々ペラペラと客の悪口を別の客に聞かせて、この運転手は自分が得をするとでも思っているのだろうか。ムッとしている久志の隣で縞緒有希恵は静かに外を見つめ、助手席の釜鳴は楽しげな顔で相槌を打っている。まったく、どいつもこいつも。
しかし久志はまだ知らなかった。いま感じている不快感など、この後にやって来る事態のそれに比べれば、そよ風の如き快適さであったのだと。
繁華街の裏路地にある、外壁が煉瓦模様の小さなビルの三階、スチール製の扉にはこう書かれてあった。「社会整備団体 青空優遊舎」と。この時点で少し嫌な予感はしたのだ。何だ、社会整備団体って。社会福祉法人とかならわかるが、県警で何年も会計課員を努めてきたのに初めて聞いたぞ。いったい社会の何を整備する団体なのだろう。
しかし久志が躊躇しているのを横目に、縞緒は平然と扉の前に立ってインターホンを鳴らす。すると聞こえてくる優しげな女性の声。
「はい、青空優遊舎です。どんなご用件ですか」
「散場大黒奉賛会です。荷物を届けに参りました」
縞緒がそう答えると同時に扉が開く。そこには白いストライプのスーツに紫色のシャツを着た、パンチパーマの巨漢が立っていた。感情のない冷たい目で見下ろしながら。
これまでの人生の中でも、おそらくは最凶レベルであろう居心地の悪さを覚えながら、久志はソファの真ん中に座っていた。冷や汗を吹き出している背中は背もたれにつけない。いつでも立ち上がれる体勢で両脚には力を入れっぱなしだ。左右には縞緒と釜鳴が、共に平然とした顔で座っている。
ピンクと緑の蛍光色で染めた短い髪にTシャツとミニスカートの女は、インターホンに出た優しげな声の正体か。受付カウンターに座り、棒付きキャンディを咥えながら久志に手を振るが、もはやそちらに注意を払う余裕はない。久志たちの周りをいかつい男たちが囲み、目の前に、ブヨブヨの肉塊がいるために。
年齢はよくわからない。ここまで太って禿げ上がってしまっては、六十歳でも七十歳でも見た目などたいして変わらないのだ。不健康そうな血色で、目の下には深いクマが浮かんでいる。周囲から「会長」と呼ばれるその男――さすがに男なのは間違いあるまい――は、パンパンに腫れ上がったかのような太短い指で、机に置かれた銀色のキャリーケースを差した。
「中は確認したか」
痰が絡んでいるようにも聞こえる不快なダミ声。その問いが自分に向けられたのだと気付いた久志は首を振る。
「い、いえ、ただ運べとだけ言われましたので」
すると会長は少し馬鹿にしたような目を久志に向け、鼻先で笑った。
「ふん、そいつは賢いな」
そしてケースに手をかけ勢いよく開けば、中から響く甲高い電子音。久志にも聞いた記憶がある。スーパーやホームセンターで商品に付けられている盗難防止タグの音だ。会長は少し不快げに顔を歪ませたが、そのまま中身をしばらく見つめ、またケースを閉じた。中からはまだ電子音が漏れ出している。
「確かに、中は見てないようだ」
いったい中に何が入っていたのか気にはなるものの、とてもそれを質問できる空気ではない。と、そこに漆塗りで蓋付きの重箱が三つ、いかつい男たちに運ばれて来る。会長はぐふぐふと気味の悪い笑い声を漏らしながらこう言った。
「昼飯はこっちで食うことになっとるのだろう。鰻だ。帰る前に食って行くといい」
鰻の重箱は三つ、久志たちの前のテーブルに置かれる。ここで食べろというのか。食べ物が喉を通る気分ではまったくなかったのだが、この状況で久志に断れるはずがない。鰻を出すなら、せめて吸い物くらい付けてくれてもいいのに、などと思いながら箸を取ろうとすると、隣の釜鳴がその手を静かに押さえる。
「おやめなせえ、小丸さん」
微笑みながら首を振る釜鳴に、会長は刺すような視線を飛ばした。
「何の真似だ。ワシの出した飯が食えんと言うのかな」
その声が聞こえたと同時に、隣の部屋で待ち構えていたのか、扉が開いて人相の悪い男たちが、さらに五人程なだれ込んで来る。思わず立ち上がりかけた久志の腕を、釜鳴の左手が握って止めていた。物凄い握力で、しかも右手にはいつ抜いたのか、銀色の拳銃を会長に向けながら。鈍く輝くそのリボルバーは、銃器に詳しくない久志でさえ名前を知っている。コルト・パイソン。
周囲を取り囲む男たちには緊張が走ったものの、会長は動じない。またぐふぐふと笑い声を漏らす。
「何だ、モデルガンか」
これに釜鳴は平然と笑みを返した。
「そりゃあそうでやしょう。こんな老いぼれが本物のパイソンなんぞ持ってる訳ゃあない。ただのオモチャでやすよ。たぶんね」
「それで、そのオモチャを何でこっちに向けてるんだね。こっちはおまえさん方の商売の客だ。客に嘘でもチャカ向けるなんざ、常識がないにも程があるぞ」
馬鹿にしたような会長の視線に、釜鳴の口元がニヤリと歪む。
「商売ってのはお互い様でやしょう。こっちが一方的に下手に出る必要はねえ。それにこんな薬
会長はしばらく釜鳴をにらみつけていたが、やがてフンと鼻を鳴らした。
「そこのお嬢さんがあんまり色っぽかったもんでな、ちょっと遊びたかっただけだ。たいした悪意はない」
いや、メチャクチャ悪意あるだろ。久志の喉元まで出そうになった言葉を飲み込ませたのは殺気に満ちた空気だけではなく、当の縞緒の落ち着いた声だった。
「では会長さん、私どもは帰ってよろしいでしょうか」
会長は出入口の前に立っていた男たちに視線を飛ばし、道を空けさせる。釜鳴の左手はようやく久志の腕を放し、三人は立ち上がった。
会長は言う。
「次の取引からはボディチェックが必要だな」
ここで縞緒は初めて笑顔を見せた。
「次があるといいですね」
それから三十分ほど経って、三人はファミレスの片隅に席を取っていた。久志はゲンナリと魂が抜けたかのような顔でうつむき、隣では釜鳴がイタズラ小僧のように笑う。
「よう頑張りましたな、小丸さん」
「嫌味ですか」
「何をおっしゃいますやら。あの場で泣き喚いたりションベン漏らしたりしなかっただけ、たいしたもんだと感心してるんでやすよ」
疑惑の眼差しで見つめる久志の背を、釜鳴はポンポンと叩いた。向かいに座った縞緒もうなずいている。
「どんな醜態を見せてくれるのかと期待していたのですが、予想外でした」
どう考えても褒められているとは思えないが、必ずしも馬鹿にされている訳でもなさそうだ。もちろん、そんなことくらいで喜べる気分でもなかったものの、久志はとりあえず丸まっていた背中を伸ばすくらいには気持ちを持ち直した。
「そうそう、自信を持ちなせえ」
微笑む釜鳴は優しげだ。いまなら聞いても大丈夫だろうか。久志は思い切ってたずねてみた。
「あの、釜鳴さん」
「何でやす」
「さっきのパイソン、本物なんですか」
すると釜鳴はニッと歯を見せる。真意の推し量れない笑顔。
「そいつは聞かねえ方がいいでやしょう。アッシにどう答えられても旦那が困るんじゃありやせんかね」
どう答えられてもって、どう答えるつもりなんだ。久志がそう思うのと同時にウェイトレスが料理を運んできた。
「海鮮わくわくピラフのお客様」
縞緒が黙って手を挙げる。この話は教会に戻るまでできそうにないな。とりあえず、いまは昼食を済ませよう。久志は小さくため息をついた。
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