第6話 黄金バット

 草木も眠る丑三つ時、散場大黒奉賛会の支部教会で、薄暗い廊下を小丸久志は歩いていた。とりあえず寝惚けまなこでトイレでも探しているような風を装いながら、教会のあちこちをうろついて回る。ざっと見た限りでは防犯カメラも見えないし、セキュリティ的にはザルと思えたが、念には念を入れておいた方がいい。ここは敵の真っ只中なのだから。


 とは言え公共施設のように館内案内図がある訳でもなく、廊下に並ぶ引き戸にいちいち部署名が書いている訳でもない。できれば事務室のPCなどが覗ければ有り難いのだが、片っ端から戸を開けて探す訳にも行かず、さてどうしたものかと頭を捻っていると、廊下の角に人影が現われた。


 慌ててはいけない。久志はあたかもこれ幸いといった態度で人影に近付いた。向こうも驚いた様子もなく近付いて来る。釜鳴佐平、あの赤い般若を背中に彫った老人だった。


「おや小丸さん、でしたっけ。どうしやした、こんなとこで」


 気さくに話しかけてくる釜鳴に、久志は懸命に作った照れ笑いを浮かべた。


「いやあ、トイレに行こうと思ったら迷っちゃいまして。夕方に一度行ったんですけどね、暗いと場所がよくわからなくなって」


「ああ、トイレならそこ曲がって突き当たりでやすよ。アッシはジジイでやすがね、道を覚えるのは得意中の得意なんでさ」


「そ、そうなんですか」


 そんな自慢をこんな場所でされてもな。久志が困惑していると釜鳴は不意にニッと笑い、声を小さくした。


「ところで小丸さん、アンタ面白えことに興味はねえですかい」


「……は?」


 いったい何を言っているのかともう一段困惑する久志の目の奥を、釜鳴はじっと見つめる。


「なあに、ちょっとしたイベントを考えてやしてね。もし気が向いたらアッシに声をかけておくんなさい。ああ、それと悪いこたぁ言わねえ。あの縞緒ってお嬢ちゃんには気を付けた方がいい。できれば近付かねえこった」


 それだけ言うと、釜鳴はポンポンと久志の肩を叩き、通り過ぎて行った。久志の背中を冷たい汗が流れる。油断ならない相手がまた一人増えたのだから。




 トイレが全部洋式なのはありがたい。和式は苦手なのだ。久志が手を洗いながら鏡を見つめれば、見慣れた困り顔がこちらを覗き込んでいる。やはり今日潜入してすぐ何か証拠をつかみ、明日には逃げ出すなんて考えは甘かったようだ。


 新人研修は三日間だが、果たしてその間に何かつかめるかどうか。じっくり時間をかけるしかないのだろう。センサー式の蛇口は水を止めた。今夜は眠っておいた方がいいのかも知れない。


 久志がトイレから出たとき、隣の女子トイレから手を洗う水の音が。偶然……か? 久志がしばし立ち止まっていると、女子トイレからハンドタオルで手を拭きながら縞緒有希恵が出てきた。久志を見ても立ち止まることなく、軽く会釈をして通り過ぎて行く。


 久志も会釈を返したものの、さてどうしたものか。自分も部屋に帰らねばならないのだが、縞緒の後から歩いて行けば変質者のようだし、かと言って延々トイレの前で立っていても、それはそれで変態のように思われるかも知れない。


 そうこう考えている久志の視界の中で、縞緒の背中が立ち止まった。そして静かにたずねる。


「『黄金バット』をご存じですか?」


「……へ?」


 自分はいま大層間抜けな顔をしているのだろうな、と久志は思ったものの、さすがに返す言葉が思いつかない。すると縞緒は振り返り、小さく微笑んだ。


「ご承知の通り黄金バットの紙芝居は戦前からありますが、私の言っているのは1966年の実写劇場版、および1967年のアニメ版のことです」


 もちろん久志はまったくご承知ではない。


「えーっと、見たことはないですけど、名前だけは」


 当惑している久志に縞緒はうなずく。正直でよろしい、といった感じか。


「アニメ版の黄金バットの設定は、古代アトランティス文明の守護者です。現代に蘇った黄金バットは超科学技術を誇る悪の怪人ナゾーを、その圧倒的な超自然の力で叩きのめす正義の味方」


「はあ、そうなんですね」


 こんな夜中にトイレの前で、いったい何の会話をしているのだろう。いや会話にすらなっていない。しかしそんな久志の戸惑いなど気付かないのか、縞緒はまるで教示するかのように滔々と話し続ける。


「この物語の基本構造、つまり科学技術と自然の対立と言えば、あなたは何を思い出しますか」


「え、何を、って言うかその」


「そう、1954年の映画、『ゴジラ』ですね」


 縞緒は勝手に納得する。


「ゴジラもまた科学技術と自然の対立する物語でした。つまり黄金バットとゴジラは物語的には相似形を描いているように思えます。でも、実はそうではありません。何故なら、水爆実験に対する大自然の怒りであるゴジラが善悪を超越した恐怖そのものであったのに対し、黄金バットは絶対正義の存在だから」


 そしてまた、ふっと笑う。


「黄金バットの映画化およびアニメ化に際し、当時のスタッフにどんな葛藤やせめぎ合いがあったのかはわかりません。でも普通に考えてゴジラを知らなかったはずはありませんし、何の影響も受けていないとは考えられないでしょう。しかし黄金バットの制作スタッフは、自然の力を恐怖ではなく、ときには厳しくとも、本質的に人を守り慈しむ正義と設定したのです。この決断を私は高く評価します」


 返事のしようがない。久志はさっき釜鳴から言われた言葉を思い出す。


――あの縞緒ってお嬢ちゃんには気を付けた方がいい。できれば近付かねえこった


「何となれば」


 縞緒は胸の前でパチンと手を合わせた。


「自然とはまさに正義だからです。人にとってだけではなく、この宇宙をも貫く絶対的な正義、それが自然の法則です。いまだ人類に発見されていない超自然を含めて、あらゆる自然は想像上の恐怖ではなく、真なる正義として世界に君臨します。だからこそ」


 縞緒の口角が上がった。


「超自然をかたり悪事を働く者を、この世界は許しません」


 そして縞緒は久志に再び背を向けた。


「これから私はここの事務室に向かいますが、小丸さんはどうしますか」


「えっ」


「選択はご自由に」


 そう言って歩き出した縞緒を、久志は追いかけるしかなかった。




 廊下に面した何の変哲もない木の引き戸。隣の部屋や向かいの部屋と、これといって変わった所はない。もちろん表示板の類いなどないし、いったいどんな根拠でここにたどり着いたのかはまったく不明だが、縞緒は迷わずこの部屋の前に立ち、当たり前のような顔で戸を引き開けた。


 壁にある照明のスイッチを入れると、部屋の中に並んだ事務机の上には、それぞれ液晶モニターが。なるほど事務室なのは間違いなさそうだ。久志はしばし入り口で躊躇ちゅうちょしていたが、やがて腹をくくった。とにかく情報を手に入れるのだ。娘を放ったらかしにして、こんなところに何日もいられない。


 PCは事務机の下に設置されている。さて、どれから探ろうかと久志が考えていると。


「何をする気でしょうか」


 部屋の一番奥に立った縞緒が不思議そうにたずねる。


「え、何って」


「あなたが何を求めてここに潜入したのかは知りませんが、『本当に欲しい情報』がパソコンの中にあるなどと考えない方がいいですよ」


 縞緒は少し呆れているようだ。


「端末であれサーバーであれ、いつ侵入されるか、いつ情報が流出するか、いまどきはわかりませんからね。そんなところに置かれるのは、流出してもゴメンナサイで済むレベルの情報だけです。そもそもPINコードやパスワードをどうやってくぐり抜けるつもりですか。朝までじっくり試すつもりとか?」


 久志には返す言葉もない。まったくもってその通り、いかに何年も県警に勤めているとは言え、捜査に加わることなどない会計課の事務職員である。基本もコツも知らなかった。一方、縞緒は久志を見てはいない。部屋の一番奥から真正面にあるガラス戸付きの、壁一面を覆う大きな書棚をにらみつけている。


 書棚の中には、書類が詰められているのだろうファイルがビッシリと並んでいた。ここに何かあるというのだろうか。まさか銃や麻薬の取引帳簿が堂々とここに置かれていたりはしないだろう。いや、待てよ。木の葉を隠すには森の中と言うしな。いやいや、でもさすがにここを探すのは。いやいやいや。


「……ん?」


 久志は違和感を覚えた。何だろう、何かおかしい物でもあるのだろうか。書棚をじっくり見つめてその正体を探す。あった。中段の真ん中辺りにファイルと同じA4サイズの、だが明らかに質感の違う緑色が三つ並んでいる。


「気付きましたか」


 並ぶ事務机の向こう側を回ってゆっくり近付いて来た縞緒は、ガラス戸に触れることなく、分厚い緑色の背表紙の本を間近で見つめた。


「散場創始録、上中下巻。この散場大黒奉賛会の創始者が書いた本ですね」


「これに何かあると?」


「机の並びから見るに、一番奥の席は事務の責任者の居場所でしょう。そこから一番目立つ真正面にこの本が置いてある。一冊でも欠けようものなら、すぐにわかるように」


「まさかこの中に帳簿や台帳が挟んでるとか」


「へえ」


 縞緒の目が興味深げに久志を見つめた。


「あなた帳簿を探しているのですか。何の取引を調べたいと?」


「うっ、いや、その」


 しまった、迂闊だった。もし、この女が自分の正体を探るためにここに連れてきたのだとしたら。最初から土蔵部たちと繋がっている可能性だってあるというのに。久志の背中には、再びどっと冷たい汗がにじんだ。それに気付いたのか、縞緒は小さな笑みを浮かべる。


「まあ、別に構いません。今夜のところは退散しましょう」


 そう言って事務室の外へ出ようとする縞緒を、久志は慌てて呼び止めた。


「ちょ、ちょっと。中を確かめないんですか」


「その書棚に触れたら警報が鳴ると思いますけど、いいのならどうぞご自由に」


 縞緒は部屋の照明を消し、振り返りもせず廊下に出て行く。久志はまた後を追うしかなかった。


「何で警報が鳴るってわかるんですか」


 事務室の戸を閉めながらたずねる久志に、縞緒は背を向けたまま立ち止まった。


「この建物の出入口は何カ所ありました」


 質問に質問で返された久志がムッとした顔で「一カ所でしょう」と答えると、縞緒は小さくうなずき、さらにこうたずねる。


「ここには監視カメラがありません。何故だと思いますか」


「何故って、そんなの」


 わかる訳ない、と続けようとした久志の言葉を縞緒が遮る。


「監視する必要がないからです」


 そして半身で振り返ると、冷たい目で見つめた。


「ここには大切な物は一つだけ。そして出入口も一つ。もし誰かが大切な物に触れたとしても、そこで警報が鳴れば全員が出入口に集まればいい。中にいるのは全員顔見知りのせいぜい十二、三人。後は全員で事務室に向かえば終わり。高度で複雑なセキュリティは必要ありません。シンプル・イズ・ベスト。それ故に強固です。突破するのは不可能でしょう、少なくともあなたには」


 何だこのシチュエーション。久志は顔に浮いた冷や汗を拭った。これではまるでホームズに嘲笑されるレストレードではないか。いや、レストレードは自分を評価しすぎか。立哨中の巡査Aがいいところだろう。だが巡査Aには巡査Aなりに意地もある。


「確かに、セキュリティとしては固いでしょう。でも人数の半分以上は高齢者ですよ、いざとなったら力尽くで突破することだって」


「あの重そうな本を手にしてですか」


 縞緒はまるで理解の外だと言わんばかりに目を見開き、丸くしている。


「三冊のうち、どれが『当たり』かもわからないのに? もし仮に一発で当たりを引き当てたとしても、あの重量物を抱えてその細腕で? 力尽くで突破? 論理的な思考ができないのですか?」


 ボロクソだ。何だこの言われよう。そこまで酷い評価を受けるほどのことを自分は言ったのだろうか。落ち込みかけた久志に向かって、縞緒はトドメの一撃を放った。


「だいたい何よりも」


 それはそれは酷薄な笑顔で。


「いかに相手が老人でも、向こうが銃を構えていたらどうするつもりなのでしょう」


 久志は愕然とした。その可能性を考えていなかった間抜けな自分に。言われてみれば当たり前だ、銃や麻薬を密売しているような連中が、自衛のための銃を持っていない訳がない。対する縞緒は呆れたようにまたうなずく。


「なるほど。銃の密売の帳簿が欲しかったのですね、あなた」


「あ、いやっ、それは!」


「声が大きいですよ」


 焦りまくる久志を黙らせると、縞緒は少し考えた末にこう口にした。


「……手を組みませんか、私と」

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