呪いの家は壊れない
冬野ゆな
第1話 呪いの家
「ぐ、ぐぉぉっ。うぶっ」
暗い廊下に声が響き、男はばたばたと足を動かした。
男は天井から宙ぶらりんになっていた。何度足を伸ばそうとしても、床に届かない。もがけばもがくほど喉が締め上げられていく。
「た、助け……」
喉にかけられた指を外そうともがく。爪はむなしく自分の首をひっかいた。もはやうめき声しか出せない。脂汗と苦痛で顔をしかめながら、それでも相手の正体を見ようとした。自分の首を絞めている犯人の正体を。男の眼前に、黒い髪の毛が垂れ下がってきた。その向こう側に、女の顔があった。その瞳はぴくりとも動かない。一度も瞬きをせずに男を見つめていた。死霊の目だった。女は天井に爬虫類のように張り付いたまま、男の首を締め上げていた。
悲鳴は悲鳴にならなかった。台所からのわずかな光が、もがき苦しむ姿の影を壁に映す。やがて小さく痙攣するように動くだけになり、がくりと力が抜けた。その首を、天井に張り付いた女が引きちぎらんばかりに捕らえていた。
指先が、無造作に男の首を放す。男だったものは四肢を投げ出して廊下に横たわった。どことも知れぬ場所へ視線を向けていた。
天井からだらりと垂れ下がった青白い腕は、髪の毛とともにぶらんと揺れた。
女は人間ではなかった。
警察が踏み込んだのは、二週間後のことだった。
「近所の家から異臭がする」という陰鬱な通報を受けて、二人の警官が向かったのだ。沢田という表札と住所を確かめて、二人は声をかけた。
「沢田さん、いらっしゃいますか。沢田さーん」
鍵をこじ開けて中に入ると、むっとしたにおいが鼻をついた。警官の一人が嫌な顔をした。玄関から続く廊下の中央に、人が倒れている。男が床に横たわっていた。二人が予想した通りになった。
家の周囲には非常線が張られ、あっという間に警察が覆い隠した。首に残った指の痣から事件性があると判断され、警察は捜査に乗り出した。
数日もすると一通りの調査が進み、警部のもとに二人の刑事がやってきた。
「おう、吉川。佐々木。どうだった」
「まずは司法解剖の結果です」
吉川と呼ばれた刑事が書類を見せる。
「やっぱり絞殺か」
「いえ。それが、死因は心臓麻痺だそうで」
「なんだって?」
警部は書類に手を伸ばした。
死体を見た誰もが、死因は頸部圧迫による窒息だと思っていた。つまり絞殺だ。指の痕や、被害者が喉をひっかいた痕跡から見ても間違いなかった。大体の死因は特定できる状態にあったのに、心臓麻痺だとは。
「それじゃあ、絞殺されている途中に心臓麻痺で死んだってのか」
「それと、もうひとつ不思議なことがありまして」
吉川は、被害者の写真を数枚見せる。
「この首の痕ですが、実際に指を当ててみると、かなり上の方についてるんです。首を上に持ち上げるみたいにして絞めてるんですね。これじゃあ、被害者よりかなりの長身でないとこうはなりません」
「犯人はよほどの大男だったっていうのか?」
「あるいは、被害者は座った状態のところで後ろから襲撃されたのかもしれませんね。それを廊下に引きずっていったとか。首の痕は引きずった時のものだったのかも」
「ふうむ」
警部は首をひねる。
「DNA鑑定はどうなった。犯人らしきものは出たか?」
「ダメです。爪の先も全部調べたんですけど、出なかったそうで」
「そうか……。被害者についてはどうだった」
今度は佐々木と呼ばれていた刑事が頷く。
「被害者は沢田修、三十七歳の男性。半年前に妻と離婚して引っ越してきたみたいです。理由は沢田の浮気ですね。以前住んでいたマンションは引き払っていて、妻のほうは実家に戻っています。子供は無し。病歴も、これといったものはありません」
「妻のほうは」
「すっかり冷めてました。どうやら浮気は三度目だったみたいで。沢田のほうが復縁をしつこく迫ったんで、弁護士に相談してたようです。連絡とった時も、弁護士が警察に連絡してくれたと思ったようですよ」
「ふうん。一応、浮気相手も洗ったほうがいいかな。しかし、慰謝料も払っただろうに家を買ったのか」
「いえ、どうもあの家は賃貸みたいですよ。多額の慰謝料ですっからかんになったんで、とにかく安い家ってことで借りたみたいです。あんなでかい家で、三万ちょっとでした」
「へえ」
「事故物件だったんですよ。前の持ち主が急死したとかで、遠方の家族が貸し出してました」
佐々木は参ったというように頭を掻いた。どうやらそこでもかなり愚痴られたのだろう。
警部は少しだけ苦笑する。
「よし。吉川、佐々木。もう一度あの家に行って、何か痕跡がないか調べてみてくれ」
「わかりました」
二人は返事をすると、きっかり十分後に準備を済ませて車に乗り込んだ。
沢田邸は住宅地の真ん中にあった。
庭の木は好き勝手に広がり、陰鬱な森が出来ている。前の住人の時から手入れされていないのだろう。
家の中も昼間だというのに薄暗い。吉川は入ってすぐの右手に見えた階段から、上を覗き込む。短い廊下が壁に囲まれているので、一階以上に光が無かった。まるで肝試しにでも来た気分になる。
二階は埃っぽいにおいがして、吉川は思わず咳き込んだ。
「ずいぶん埃が積もってるな」
「二階は使ってなかったようですよ。前に来た時も、靴下が真っ白になっちゃって。人が入った形跡はありませんでした」
「念のためにもう一度調べてみるか」
「そうですね。何もないと思いますけど。あ、そうだ。もし良かったら写真もお願いできますか。鑑識からの写真が、なんかいつもより少なくて。もう少し詳しい現場の写真が欲しいって、警部が」
「そういえばそうだったな。わかった、撮ってくるよ。佐々木は先に一階を頼む」
「わかりました」
佐々木は一階に降りていった。吉川はスマホを取り出し、右手側の扉を開けた。無人の洋室があった。隣家の壁に邪魔されて、あまり光が入らない。どこもかしこも陰鬱な家だ。中に入り、写真を撮る。押し入れを開けると、かびくさいにおいがした。天井の板にも手を伸ばしたが、きっちりとはまっている。
やっぱり何も無いか。
部屋を出ると、ずるっと何かを引きずる音がした。周囲を見回す。なんだ。佐々木が何か動かしたか。すぐ近くでしたような気がするが、音の出所はわからない。
気を取り直して、左側の扉を開けた。ここも似たようなものだった。
正面の部屋にも何も無かった。中に入ってスマホを構えると、ずるっと音がした。すぐ後ろからだった。思わず振り返るが、そこには誰もいない。なんだ。どこからの音だ。音は部屋の中からしたような気がした。もしかしたら、押し入れに荷物があるのか。
入り口から目をそらすように押し入れに手を伸ばす。だが、中はやはり空っぽだった。下の段にも何も無い。閉めようとすると、天井が視界に入った。天井の蓋が開いている。暗い闇があった。胸ポケットからペンライトを取り出し、天井を照らす。
特に何も無いな、とペンライトを外しかけた瞬間、人の目のようなものがのぞき込んでいるのが見えた。慌てて明かりを向ける。やはり誰もいなかった。目の錯覚だったのか。殺人現場は何度か見たことがあるが、これほどぞっとした事はない。いったい何が起きているのか。
「……誰かいるのかっ」
小さく叫ぶように聞くが、そこに人はいない。
頭を押し入れの中に入れ、天井をのぞき込む。底知れない闇の中へ。ずるずると、何かが這い回るような音がする。吉川は怪訝な表情で、更に闇の奥を覗いた。
その瞬間、天井から顔を掴まれた。
「うっ! ううううっ」
呻いて、手を掴んで引き剥がそうとする。死人のように冷たい手だった。人間とは思えない力で、天井裏に引き込もうとする。
「お、おぐっ、ががあっ」
もがくたびに床から足が離れていく。吉川はなんとか佐々木を呼ぼうとしたが、声が出ない。闇の中から、明かりも無いのに女の顔が近づいてきた。いや、吉川が近づいている。至近距離で見た女の顔は、逆さまだった。天井に張り付く女。女には白目が無く、真っ黒な目をしていた。
「あ、あっ……あああああ」
吉川はもがいて、もがいて、無茶苦茶に暴れ回った。そのせいだろうか。なんとか頭が抜けたあと、転がり落ちるように一階へと降りていった。
「吉川さん。どうしました。吉川さん?」
「あああああ」
吉川の目は視線が定まっておらず、佐々木は二階に何かいたのかとしきりに尋ねた。それほどまでに吉川は平常心を失っていた。佐々木が慌てて応援を呼び、二階を調べあげたが、何も発見されなかった。この時の現場写真に、何枚も奇妙な青白い女が写っていたのは警察の中だけで握り潰された。
吉川はそれから精神を病み、二ヶ月ほど休職した後に警察を辞めた。
実家に戻った後も塞ぎ込み、風の噂で一年もしない頃に自殺したと佐々木は聞いた。
犯人も見つからぬまま、五年の月日が経った。
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