唐沢卓郎(17)
その日の朝、千尋が「真実の世界」にログインすると、施設の公式アカウントからメールが届いていた。
「なんだろう」
今日は敦也君とデートの予定があるので、手早く読んでしまおうと、千尋はメールを開いた。
メールを読んで千尋は驚いた。中島千尋様で始まるメールの文章はとても信じられる内容では無かったから。
(中島千尋様
あなたは、最低生活保障施設関連法第6条の9項による、選考の結果、梶田敦也様と二人で特別退所の対象に選ばれました。梶田様とご相談の上、一週間後までに受諾するか否かの判断をお決めください。
受諾の場合は生活支援プログラムの説明と訓練を数ヶ月実施し、政府が指定する居住地で生活していただきます。
尚、中島様か梶田様かのどちらかが拒否される場合、もしくは期限内に返答が頂けない場合は、退所権利が他のペアへと移ります。
このメールは中島様と梶田様に送信されています。返答はどちらでも構いませんので、このメールアドレスまでお知らせください。
入所者管理課)
この施設は一度入ったら二度と出られないと言われているが、抜け道がある事を千尋は知っていた。その例外の法があるから千尋も騙す手口を思いついたのだが、実際には適用された事はない。人権問題の建前で作られた法律なので誰も適用されるとは思ってもいなかった。
この法が適用される事自体が信じられないのに、付き合って間もない二人が対象になるとか、千尋はいたずらとしか思えなかった。
千尋はもう一度メールを読み返してみた。
内容は信じられないが、確かに公式アカウントに間違いはない。少子化対策で若いカップルを出所させる運動が、人権派の市民団体を中心に盛り上がっていたが、通ったのだろうか?
千尋はメールが本物として、リアルに考えてみた。
以前あった私の借金は、入所時に清算されている。出所するに当たって政府のサポートも受けられるようだ。リスクは少ない。
後は敦也君の考え方次第だ。自分が里香であった時に、敦也君は出所する事を望んでいた。千尋である私が里香と同じように想ってもらえているなら、出所に問題はないだろう。
そう考えだすと、千尋は嬉しくなってきた。
二人揃って出所出来るなんて夢のようだ。外に出て二人で幸せになろう。
千尋は、早く敦也と相談したくて、約束の時間までが待ち遠しく感じた。
中島千尋と生田里香は同一人物だ。
敦也は昨日来た謎の男から言われた言葉が忘れられず、夜も寝付けずにずっと考えていた。
恐らく男は入所者ではなく、所の職員だろう。入所者で俺が里香に騙された事を知っている者はいないからだ。男が初期値の姿だったのも普段「真実の世界」に登録していないからだろう。
男が職員だったとして、問題は本当に千尋と里香が同一人物かどうかだ。
嘘だと思う。
根拠は男が外の人間だからだ。外の人間は入所者を見下している。何らかの方法で俺の情報を知り、立ち直って千尋と付き合いだしたのが気に入らないのだ。
何より卓郎さんが千尋を「良い娘」と保証してくれたのだ。俺にとってはそれが一番信用出来る。
朝になって、ようやく考えがまとまった敦也は、安心して少しの眠りに就いた。
約束の時間の三十分前に、千尋は待ち合わせ場所の喫茶店に着いた。少しでも早く、敦也と相談したかったのだ。
千尋が待っていると、十分前に敦也が現れた。
『あれ? 約束の時間間違えていた?』
『いや、まだ十分前だよ。敦也君に会いたかったから、私が早く来ただけ』
『ありがとう』
笑顔で敦也が席に着く。
いざ、敦也を前にすると、千尋は話を切り出せなかった。自分は退所権利を受けるつもりだったが、敦也が否定する場合もある。そう思うと勇気が出なかった。
『今日はどこに行こうか』
敦也がいつもと変わらぬ感じで訊ねる。
『えっ?』
敦也君はわざと退所の話を逸らしているのだろうか?
千尋は不安になった。確かにまだ、今日のデート内容は決めていないが、それは大した問題ではない。千尋は敦也が退所の話をはぐらかしているのかもと考えた。
敦也君が退所を望んでいないのなら、このまま相談せずに退所を断ろうか。
そんな考えが千尋の頭によぎった。だが、二人で話し合わずに断るなんて後悔しそうだとも思った。
『もしかして、敦也君は退所したくないのかな?』
『えっ?』
堪え切れずに、千尋は敦也に訊ねた。
敦也の希望を優先するつもりではいたが、お互いはっきりと意思の確認はしておきたかった。
『……退所ってどう言う事?』
敦也が不思議そうな声で訊ねる。
『昨日、公式アカウントから来たメールで私達が特別退所の対象として選ばれたって言う……』
千尋にそう言われて、敦也は慌てて受信メールを確認した。だが大木の策略で、敦也にはメールが届いていない。
『今、確認したけど、来ていないよ』
何の感情も感じられない、冷たい声だった。
『えっ? そんな筈は……私に届いたメールには二人に送ったって……相談して返信して欲しいって……』
千尋は寒くもないのに震えが止まらなかった。頭の中が混乱して、今起こっている事を上手く説明出来ない。
『もしかして、君は里香なのか?』
また敦也が、感情が感じられない冷たい声で聞く。
なぜ、敦也君がその事を?
千尋はさらにパニックになる。
『い、いや、ちが……』
違うと言いかけて、千尋の言葉が止まる。
違わないのだ。私は里香なのだ。でも、里香の時とは違う。
『どうしたの? 否定しないの?』
そう聞かれても、千尋は返事が出来ない。
『否定しないんだね。また俺を騙そうと思ったの?』
『あの時とは違うの! 今度は本当なの、騙しているんじゃないの!』
『あの時ね……やっぱり里香なんじゃないか。そんなに俺は騙し易そうか? そんなに馬鹿に見えるのか?』
『違う! 違うの!』
段々と敦也の言葉に棘が生えてくる。千尋はもう気が狂いそうだった。
『うおーーー!!』
敦也が突然はち切れたように叫ぶ。
『お願い、落ち着いて。ちゃんと話すから、落ち着いて聞いて』
千尋が涙声で懸命に話す。
『お前バカか! これが落ち着いていられるか! 何回俺を騙せば気が済むんだ!』
『お願い! お願い……』
怒り狂う敦也の罵倒は止まらない。
『仮想世界で良かったな! 目の前に居たら殺してるよ!』
『ごめ……ごめんなさい……』
千尋はもう、ひたすら謝り続けるしか出来なかった。
『お前はクズだ! ここにも居る価値のないクズだ!』
『ご、ごめん……』
『だまれ! もう沢山だ! 二度と俺の前に現れるな! 別の名前でもだ!』
敦也は千尋の言葉を拒むようにログアウトして消えた。
『ごめんなさい……許して……』
一人取り残された千尋は、敦也の消えた目の前の席を見ながら、流れる涙を拭う事無く謝り続けた。
私の罪は消えていなかった……。今日の事は全て私の罪だ。罪を償わないと……。
「私はここですら居る価値がない……」
千尋はヘッドギアを外し、涙をスウェットの袖で拭うと、決心したように敦也にメールを打ち始めた。
長い文章を打ち終わり、文章を読み返す。これを送るともう後戻り出来ない。
目を閉じ送信ボタンを押した。
ふーっとため息を吐き布団に倒れこむ。酷く疲れているが、もうすぐ全て関係なくなる。
文房具箱の中から、はさみを取り出す。
「ごめんね……。もう二度と会わないから……。でも二回目は本当に騙したんじゃないんだよ……。本当に好きだった。あなたと一緒に幸せになりたかったんだよ……」
はさみの刃を手首に当てる。
切れ味が悪くて痛そうだ。
だが何度と無く切り傷を入れた手首はこんな鈍い刃でも簡単に血が噴き出してくる。
千尋は布団に横たわり目を閉じた。
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