唐沢卓郎(12)
卓郎は考え事をしているような、難しい顔でパソコン部屋に戻って来た。美紀は卓郎が自分の幸せについて考えているのかと期待した。
「何か考え事ですか?」
パソコンの前で何かするでも無く、無言で座っている卓郎に美紀は恐る恐る声を掛けた。
「えっ? あ、ああ……」
卓郎は声を掛けられて正気に戻ったのか、美紀に岸部所長からの提案を話した。
卓郎が難しい顔で考え込んでいた理由を聞いて、美紀はがっかりしたような、ほっとしたような複雑な気持になった。
美紀にとって、あの問い掛けは自分の気持ちを告白するぐらいの想いがあった。好きでもない男にあんな事聞いたりしない。何も無かったかのように他の事を考えられるのは辛かった。だが逆に、それ程他人の為に一生懸命になれる卓郎だからこそ、自分は好きになったのだと美紀は思う。結局、好きである限りは、今の卓郎の性格を受け入れるしかないのだ。
「また急な話ですね」
「ああ……」
「どうするんですか?」
「正直悩んでる」
卓郎は本当にどうするべきか決めかねている。美紀も判断が二人の将来に与える影響が大き過ぎて、迂闊に意見を言えなかった。
「二人にとって、もう二度と無いチャンスだろう。だが、外に出てもし上手く行かなかったら二人はまた戻ってくるかも知れない」
そう言って卓郎がため息を吐いたその時、「真実の世界」内のメールが入った。敦也からだ。
(今日、千尋さんに、正式に告白してOKを貰いました! 卓郎さんのお陰です! また前を向いて歩きだせます)
短い文章だが、敦也の喜びが伝わってくる。
祐介……お前もこんな気持ちになれていたら、死なずに済んだのかな……。
「よし、決めた」
「えっ?」
卓郎が急に立ち上がったので、美紀は驚いた。
「二人を外に出すぞ。悪い未来を恐れて俺達がチャンスを潰しちゃ駄目だ。俺は二人を信じる」
「は、はい……」
卓郎は美紀の肩を掴んで熱く語る。
「所長に言ってくる」
呆気に取られる美紀を置いて、卓郎はパソコン部屋を出て行った。
「考えると言った割には早かったね」
所長室にやって来た卓郎を見て、岸部は笑う。
「敦也達は、あなたの言うようなクズじゃない。きっと外に出て幸せになれます。俺は信じます」
「分かった、早速手続きしよう。私も期待しているよ。彼らならきっと外に出ても上手く暮らして行けるだろうね」
岸部は満面の笑みを浮かべてそう言った。その作った笑顔が逆に本心で無い事を表していた。
「失礼します」
岸部に対して言いたい事は山ほどあったが、感情を抑え切れそうにないので、卓郎は所長室から引き上げた。それ程、岸部の笑顔は卓郎を苛立たせた。
「若いねえ、唐沢君。ここを出て上手く暮らせるような人間は、そもそもここに堕ちてこないんだよ」
岸部は卓郎が出て行ったドアに向かって呟いた。
その日の夜、田舎町の駅前にあるファミリーレストランで、大木は探偵事務所の所員とテーブルで向き合っていた。
美紀から相手にされず、なんとか卓郎を貶めてやりたいと考えていた大木の最後の頼みは、過去の行いに付け入る隙を見つける事だった。
「何か奴の過去に汚点はありましたか?」
「任せてください。面白いネタがありましたよ」
所員が差し出したA四サイズの封筒を手に取り、大木は中身を確認した。
「おお……」
ページをめくる毎に大木の目が輝いてくる。
なるほど、これが原因で奴はあの敦也と言う入所者に肩入れしているのか。これを藤本が知ればきっと愛想を尽かす筈。いや、これをばら撒けば所内にも居場所がなくなるぞ。
大木は想像するだけで、体が震える程の喜びが込み上げてきた。
次の日、大木がデスクで仕事をしていると、林課長に呼ばれた。林のデスクに向かうと、大木は一枚の書類を渡された。
「こ、これは……」
「し、声が大きい。余りおおっぴらに出来ない事なんだよ。絶対に他言は無用だからね」
渡された書類は、二人の入所者に退所許可を知らせるメールを送る指示書だった。入所者の名前は梶田敦也と中島千尋。卓郎が肩入れしている二人だった。
「どうしてこの二人を……」
「そんなの私が知る訳ないじゃないか。君も深く考える必要は無い。書かれている内容を公式アカウントで二人にメールを送ってくれれば良いだけだから。それから、送り次第その書類はシュレッダーに掛けるように」
大木は書類を手に自分のデスクに戻った。
なぜこの二人が退所出来る事になったのか?
本来ならそんな事を大木が気にする必要などない。事務的に処理すれば良いだけなのだ。だが、大木は考えた。何か上手く利用出来そうだと感じたのだ。
退所の理由などどうでも良い。問題はなぜこの二人が選ばれたかだ。
この二人が選ばれたのは偶然とは考えられない。もし、入所者の中で特別な事情を持った二人を選ぶとして、その選択を出来るのはリサーチ班以外いない。今回は明らかに唐沢の推薦だった筈だ。
大木は周りの様子を窺い、自分に注意を向ける人間がいないのを確認して、敦也と千尋の過去ログを探った。
驚いた事に、千尋は一度騙した相手の敦也とまた付き合い始めていた。しかも、千尋は敦也に騙していた過去を打ち明けた様子はない。
唐沢はどこまで知っているのか? 少なくとも、この二人をカップルとして外に出し、幸せな生活を送らそうとしているのだろう。
偽善者め。それで自分の罪滅ぼしが出来ると思っているのか。
と、その時、大木はあるアイデアを閃いた。
そのアイデアを実行する為には、二つの条件がある。
一つは、敦也が「真実の世界」にログインしている事。大木が調べるとタイミング良く、マイルームにいる。
もう一つは、大木自身が「真実の世界」に入らないといけない。だが、大木は「真実の世界」のアカウントを持つ事は禁じられている。一つだけ方法はあったが、リスクがある。開発時に使った試験用のアカウントを使うのだが、使用中はリサーチ班のパソコンに表示が出る仕様となっていた。
大木はパソコン部屋の様子を窺う。今はまだ二人とも部屋の中にいるようだった。
大木はチャンスを待った。いつまでも敦也がマイルームにいるとは限らない。他の入所者と会っていても面倒になる。
しばらく待っていると、卓郎が部屋から出てきた。理由も時間も分からないが、ためらっている時間はない。
大木は試験用のアカウントでログインした。
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