唐沢卓郎(8)

「ちょっと熱くなって……」


 千尋との会話が終わり、卓郎は少し照れくさそうに言った。


「唐沢さんらしいですね」


 そう言って美紀は笑った。


 卓郎は千尋とのやり取りを美紀に説明した。


「そんな事情があったんですね」

「千尋はこんな所で幸せを見つける事なんて出来無いって言ってたよ……」


 美紀は卓郎が元気無く話すのが気になった。


 岸部所長が来てからこう言う話し方が多くなった気がする。口には出さないが落ち込んでいるんだろう。


「みんな同じような気持ちなんでしょうね……」


 美紀も俯きがちに、寂しそうに呟いた。


「よし、やるぞ!」

「えっ?」


 卓郎が急に声を上げたので美紀は驚いた。


「何をやるんですか?」

「何かはまだ分からん。でもみんなが幸せになりたいって気持ちを持てるような、何かをやるんだ!」


 そう言った卓郎の顔は吹っ切れたような笑顔だった。


「そうですね、やりましょう!」


 美紀も嬉しくて笑顔になった。



 卓郎と今後の相談をして、美紀が管理事務所の建屋を出た時には、もう辺りは暗くなっていた。


 十月に入ってもまだ暖かく、日が落ちても長袖シャツに薄手のカーディガンだけで十分過ごせる。


 結局今日は何をするか具体的には決まらなかった。だが美紀には卓郎が前向きな気持ちになっていた事だけで十分嬉しかった。


 美紀は門を出てバス停に向かう。車通勤の卓郎が送ろうと誘ってくれたが断っていた。本当はこちらからお願いしてでも乗せて欲しいと思っていたが。


「あっ!」


 バス停を目の前にして美紀は驚いて立ち止まった。大木がバスを待っているのだ。


 大木は普段、車通勤なのでバス停にいるはずがない。卓郎の車を美紀が断っているのも、大木が原因なのだ。卓郎に送って貰ったら、タイミングによって大木から送るのを誘われた時に断る事が出来ないからだ。


 ずっと立ち止まっている訳にもいかず、美紀はバス停に向って歩き出した。


「おっ、お疲れさん」


 大木が美紀に気付き、笑顔で話し掛ける。


「お疲れ様です。大木さんは車通勤じゃなかったんですか?」

「故障したんだよ、でもラッキーだったな。藤本と帰れるなんて」


 私はアンラッキーだよ、と美紀は心の中で呟いた。


 程なくバスが到着した。


 先に来ていた大木が乗るのを待っていると、「先にどうぞ、レディーファーストだ」と譲られてしまった。先に大木が乗ればバスをやり過ごすつもりだった、美紀の計画は潰れてしまった。


「ありがとうございます」


 観念してバスに乗り込んだ。田舎を走る路線バスは、この時間では他に乗客がおらず、貸し切り状態だった。


 二人掛けの座席でなく四人程度が座れる長座席に腰掛けた。大木は乗ってくると美紀の横に腰掛けた。


「他にお客もいないんだし、ゆっくり座れる席に座ったらどうですか?」

「おいおい、知らない仲じゃないのに別々に座るのはおかしいだろ」

「変な言い方しないで下さい! この前はっきりお断りしましたよね!」


 余りに大木がずうずうしいので、美紀は腹が立ってきた。


「この前って食事に誘った事か? 都合悪かったんだろ? また誘うよ」

「違います! 用事が有っても無くても行きませんから、二度と誘わないでください」


 とうとう声を荒げてしまった。傍から見れば痴話喧嘩に見えるかも知れないと思うと、美紀はげんなりした。


「どうしてそんなに警戒するんだ? 食事ぐらい良いだろ」

「……」


 相手にするのも馬鹿らしく、美紀は無視で返した。


「唐沢だな?」

「えっ?」


 大木の怒りの籠った声に、美紀は驚いた。


「あんな偽善者で格好つけた奴のどこが良いんだ」

「唐沢さんは偽善者なんかじゃありません」


 完全に怒った美紀は、「次降ります」のボタンを押した。タイミング良くすぐにバスが停留所に到着した。


「もう私に近づかないでください!」


 美紀はそう言い放ってバスを降りた。


 バスに取り残された大木は耳まで赤くして鬼のような形相をしている。


「唐沢め! 必ずお前を潰してやる!」


 大木は怒りが頂点に達し、全身がぎりぎりと音を立てるようにわなないていた。



 所長室の応接セットで、入所者管理課の田所課長が真剣な表情で書類を読んでいる。


「これはどう言う事なんでしょうか?」


 田所は厚生労働省の大臣名義で届いた書類を読み終わり、窓際にいる岸部の背中に尋ねた。


「表向きは少子化対策の実験と書いているが、大方どこかの権力者の関係する人間が施設に入所していたんだろうね。うちは適当に若いカップルを出せって言うんだから数合わせのダミーだよ」


 岸部はソファに座る田所には興味がないように、外を眺めている。


「あの……どう致しましょうか。私どもの課では人選しようにも誰と誰がカップルかなんて把握しておらず……」

「だろうね。期待はしていないよ」


 岸部が感情の籠らない声で応える。


「あ、あの……唐沢君なら出来ると思いますが」

「あの男か……」


 岸部は振り返り、面倒くさそうにそう言うと、テーブルの封筒を拾い上げた。


「まあ、まだ時間はある。どうするか考えておくよ」

「は、はい、ありがとうございます」


 田所は礼を言うとそそくさと部屋を出て行った。


「クズがまた外に出たところで、クズには変わりない」


 何の表情も浮かべず岸部は呟いた。

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