中島千尋(4)
千尋が仮想拓海に復讐を果たしてから一週間後。あの日以来、千尋は狂ったように、「ここから出せ!」と叫びながらドアを叩き続けるか、抜け殻のようにぐったりしているかを繰り返していた。
「一番のバカは私だったって落ちか……」
千尋は布団にもたれかかり呟いた。
自分の復讐が何の意味もないと思い知らされた。いくらここで男を騙しても、一番復讐したい現実の拓海には手が届かない。
千尋はここでの復讐に対してどうしようもない虚しさを感じてしまった。もうここで男を騙したとしても、以前のような恍惚感や達成感は得られないだろう。
千尋は心の支えだった復讐心を失ってしまった。復讐と言う目的が有ったからこそ、ここでも生きていけたのに。
「死んでしまえたら良いのに……」
この一週間、千尋は何度となく左手首の傷を眺めている。以前の未遂の経験から、自分に死ぬ勇気が無いことを千尋はよく分かっていた。食事も一日は絶食したが、それ以降はお腹が空くと運ばれてきたご飯を食べた。自分の意思で餓死する事も出来ない。
目的も無く死ぬことも出来ない、これから生きていく意味を考えると恐怖だった。
布団の上で横になっていた千尋は、急に起き上がり、またドアを激しく叩きを始めた。
「お願い! ここから出して! もう駄目なの!」
初めの頃の「出せ」が「出して」に変わっていた。繰り返す毎に、叩く時間は短く抜け殻の時間は長くなっていった。
千尋はドアを叩く手を止め、力なくパソコンの前に座り込んだ。しばらく画面の消えたパソコンを眺めていたが、ゆっくりとした動作で電源をオンにした。
この一週間でパソコンを立ち上げるのは初めてだ。
何か目的があった訳ではない。何かしたいと言う欲求があった訳でもない。ここで出来る事はそれしかなかったのだ。
OSが立ち上がると、千尋は無意識の内に「真実の世界」をタッチしていた。無用になった「太田優」を削除し、アカウント作成手順に入る。画面に名前入力画面が現れた。
「……何をする気なの?」
千尋はハッと我に返り自問自答した。
私はまた受けの良い女性キャラを作り、男を騙そうと言うのか。
千尋は丸めた布団の上に仰向けにもたれ掛かった。そしてそのまましばらく天井を見つめていた。
本当にバカな事を続けていたと思う。ここの男達には何の罪もなかったのに酷い事をしてしまった。
千尋の頭に敦也の顔が浮かんだ。
男達の中で唯一過去を話してくれた人。私と同じように外の世界で辛い過去を持っていたのに。ショックから立ち直ってくれているかな……。
千尋は体の痛みで目が覚めた。変な態勢のまま眠ってしまったらしい。体を起こし、スリープ状態のパソコンをタッチした。
キャラの名前は「中島千尋」と入力し、姿形は自分に似せて作成した。
千尋が新しいキャラを自分に似せたのに、明確な理由は無い。自然とそうしてしまったのだが、千尋はそれを不思議に思う事も理由を考える事もしなかった。そして、ここにきて初めてヘッドギア型のコントローラーを被り、ゲームの中に入っていった。
「真実の世界」に入った千尋は、ショッピングや娯楽施設に行ったりしたが、気が乗らず楽しめなかった。何をしても空しく、気を紛らわす事すら出来ない。
今の気持ちを吐き出したかったが、それをする友達すらいない。千尋は無意識の内に、出会い系のカテゴリーを開いていた。
千尋は公園に入り、中をうろうろ歩き回る。誰かと話したいのに自分から話し掛ける勇気が出なかった。今まで嘘で固めてきた自分を、受け入れて貰える気がしないのだ。
この一週間で心身共に弱っているのだろう。あれ程獲物を求めてイベント広場で精力的に動いていた千尋が嘘のようだった。
千尋は仕方なくベンチに腰を下ろした。
『お嬢さん一人で寂しそうだね? 俺と話でもしない?』
画面がリアルモードになり、少しチャラいアラサーぐらいの男が話し掛けてきた。
『俺は卓郎。よろしくな』
『ナンパなら勘弁して。そんな気分じゃないの』
千尋は誰かと話がしたかったが、軽い印象を受ける卓郎は御免だった。
『ナンパは勘弁って、ここは出会いカテだぜ。ナンパしなくて何をするんだよ』
卓郎は許可も取らずに、千尋の横に腰を下ろす。
『それに女の子が悲しそうな顔しているのに放って置けないだろ。悩みがあるのか? 話してみろよ、スッキリするぜ』
千尋はキャラの顔を寂しそうな顔にしていた。笑顔にする気にはなれなかったのだ。
『これは表情を切り替えるのを忘れていただけ。あんた気を回しすぎだよ』
『嘘を吐くのが下手だね』
『嘘が下手? よく言うぜ。俺はおっさんなんだぜ。お前騙されているのに気づいてないじゃねえか』
千尋は卓郎を動揺させたくて咄嗟に嘘を吐いた。
『だから嘘が下手なんだよ。俺はキャラを見れば分かるの』
『何が分かるって言うんだ』
『そのキャラ自分に似せて作っただろ。今までで初めてか?』
『なっ?!』
千尋は卓郎に見事言い当てられて驚いてしまった。
なぜこの男は分かったのだろうか?
軽い印象と警戒感は消えてはいなかったが、千尋は卓郎に興味を持った。
『……分かった、降参。全部あんたの言う通りだ。観念したよ』
『だろ? じゃあ、話を聞く前にまずは名前だ』
『見りゃ分かるでしょ』
『でも名乗れ』
千尋は少し腹が立ったが、卓郎への興味が勝った。この不思議な男に悩みを打ち明ければ、何かが変わりそうな気がしたのだ。
『千尋……』
『千尋か、良い名前だな』
『どうでも良いよ、そんな事』
心に余裕の無い千尋は、イラついて卓郎に当たる。
『それより、どうしてこのキャラが自分に似せて作ったと分かったの?』
『匂いだな』
『えっ?』
千尋は思わず、自分の袖を鼻に当て匂いを嗅いだ。
『ここでの暮らしが長いからな。悩んでいる奴は雰囲気で分かるんだよ』
『女性に匂うって失礼じゃない』
『怒るなよ。悩んでいるのは本当だろ? どうしてそんな悲しそうな顔をしているのか、話を聞こうか千尋ちゃん』
失礼な人だと思ったが、千尋は誰かに苦しい胸の内を打ち明けたかった。
千尋は卓郎に全てを打ち明けた。拓海との出会いから風俗に身を堕とした事。借金でここに入らなければいけなかった事。ここに入ってから復讐と称し男を騙していった事。拓海に良く似たキャラの男に復讐して無駄だと気付いた事。そして今生きる目的を失い不安と恐怖に怯えている事を。
『へー良かったな。これで立ち直れるじゃん』
のん気に笑う卓郎を見て、千尋は打ち明けた事を後悔した。
やはり失礼なだけの男だった。自分の姿を言い当てられて、不思議な雰囲気に騙されたが、こいつはそんな立派な男じゃない。
『何が良かっただ! 私は真剣に悩んでいるのに』
『これで千尋は拓海への依存から抜けられるよ』
『拓海への依存? 有る訳ない。私はアイツを殺してやりたいと思っているんだ。依存なんてしていない!』
『だからそれが依存だって言うの』
千尋は激高していたが、卓郎は冷静に返した。
『千尋の中は拓海で一杯だったんだよ。最初はあこがれ、次に愛情、最後に憎しみだ』
卓郎の顔は最初と同じ、笑顔のままだったが、声のトーンは落ち着いていて、千尋の心に響いた。
『もう拓海の事を考えても無駄だと分かっただろ? なら、もうこれで終わり。拓海は忘れて、千尋はここで自分の幸せを見つけるんだ』
『自分の幸せ……』
『そう、男を不幸にして復讐するのではなく、自分の幸せを見つけるんだ』
そう言えばあの日以来、拓海の事を考える事が少なくなった。今の私は拓海への憎しみより、今後の不安の方が大きい。
千尋は卓郎の言葉に、改めて今の自分を見つめ直した。
『でもこんな所で幸せなんて見つける事は出来ないよ。それにさんざん人を騙してきたのに幸せになる資格もないし』
『幸せになるのに資格なんかいるかよ』
卓郎はきっぱりとそう言い切った。
『悪かった事は反省すればいい。そして目の前に、誰かに傷つけられた人がいれば癒してやればいい。今お前に出来るのはそれだけだ』
『それで良いの?』
『それで良いんだ』
『私でも幸せになれるの?』
『なろうと思えばなれるよ』
千尋は卓郎にそう言われると、不思議とそんな気がしてきた。
『幸せになって長生きしようぜ。それがここに閉じ込めた奴らへの本当の復讐だ』
千尋は卓郎の言葉で少し気が軽くなった気がした。
友人登録はしたが、卓郎はすぐに帰っていった。
『まずは、自分であがきながら、幸せになる方法を探してみろよ。悩みがあれば聞くからさ』
別れ際に卓郎はそう言い残した。
『依存か……』
卓郎は拓海への依存から抜けられると言っていたが、そんな簡単な物だろうかと千尋は思う。もし、今目の前に拓海がいると想像するだけでまた激しい怒りが湧いてくるからだ。厄介なのは、その怒りの片隅にまだ拓海を求める心が少し残っている事だ。
『……卓郎さん……私はきっと、まだ拓海の事が好きなんだよ……』
千尋は卓郎の消えた方向に向かって呟いた。
『きっと憎いから男に復讐していたんじゃない……寂しいから……悲しいから八つ当たりしていたんだ……』
擬似拓海に復讐して、その行為の無意味さに気が付いた事で、千尋は冷静に自分を見られるようになっていた。
もうどんなに愛しても、どんなに憎んでも、拓海に会う事は出来ない。代役では空しいと気付いた以上、断ち切らなきゃいけない。
皮肉にも千尋を閉じ込めているこの小さな部屋が、閉じ込めているからこそ拓海への依存を断ち切り、心を開放するきっかけを与えていた。
「……拓海を忘れて幸せに……」
それで良いんだろうか? それが出来るんだろうか? いや、しなきゃいけないんだ。自分自身の為に。
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