それが、彼女の望んだこと

武蔵-弁慶

第1話

ボルルルル、ボルルルルと古臭いエンジンの音がバスの車内に響く。年季の入った赤色のシートには、同じ2つの濃紺のセーラー服が並んで座っている。薄い夕陽が照らす車内には、他の乗客の姿はない。

「ねぇ、美里」

「何、依子」

赤色のマフラーのを巻いた依子は、白色のマフラーを巻いた美里の肩に頭を乗せつつ、話しかけた。美里の肩で、依子の長い黒髪が流れ、コンディショナーの甘い香りを漂わせる。

「卒業、してもさ」

「うん」

「卒業しても、友達でいてくれる?」

「……当たり前じゃん」

ピンと背筋を伸ばし、前を向いて答える美里をチラリと見やり、依子はくふふと声を抑えて笑った。

「なに。依子。卒業式目前にして、不安になっちゃったの?」

「んー。まぁ、ね」

依子は美里越しにバスの窓の外を見る。真っ裸の木立が、依子の目にはいやに寒々しく映る。

「この三年を、木に例えるならば、これから先はあの木だね」

赤信号で止まったのをいいことに、依子は窓の外を指した。美里は、その指先を目で追った。

「あれ?」

「そう」

ボルルルルとエンジンが出力を上げる音とともに、窓の景色は後方へと流れていく。

「葉っぱを友達だとしたら、青々としている時は、みんな一緒にいる時。みんな友達で、1人ぼっちはいない」

美里は依子の言葉を静かに聞いている。

依子は脳裏にその木を思い浮かべるように、目を閉じて言葉を続けた。小さな美里の呼吸の音が、やけに大きく聞こえる気がした。

「でも、紅葉して寒くなっていくと、葉は落ちる。……みんな、それぞれの進路へと向かっていく。就職、進学……。どちらにせよ、ずっと一緒なんてことはあり得ない」

ハラハラ落ちる色づいた葉。それは、決して同じ場所に留まることはない。全てちりぢりに散っていく。

「最後には、全部落ちて、ゼロになって。そしてまた葉をつける……。去年の葉っぱのことなんて知らなかったみたいに」

忘れ去ってしまったみたいに。

「……依子?」

「……忘れたくないなぁ。忘れ、られたくないなぁ」

依子は、グリグリと美里の肩に頭を擦り付けた。サリサリと髪とセーラー服の擦れる音と同時に依子の耳に入ってきたのは「ふふっ」という、堪えたような美里の笑い声だった。

依子がパッと美里の顔を覗き込むと、美里は口に手を当て、笑っていた。

「……美里」

むすっとした様子で依子は名前を呼んだ。

「いやいや。ふふっ、なに、依子。私に忘れられたくないってこと?」

悪戯っぽく言う美里に、依子は

「うっ、なっ! ……むー。だから、何?」

とむくれたように答えることしかできなかった。

「んー。依子、可愛いねぇ」

「っ、バカにしてる!?」

あやす様に頭を撫でる美里に、依子はクワッと牙を剥いた。

「んーん。バカにはしてないよ。ただ、可愛いなぁって」

「……絶対バカにしてる」

「してないって。依子さぁ、私が、依子のこと忘れられると思ってるの?」

「それは……。でも、分かんないじゃん」

美里、県外行っちゃうし。

依子は唇を尖らせ、自らの髪の端を弄り始めた。

美里は、ますます面白そうに笑みを深めた。

「忘れない。忘れないし、忘れられない。依子だって、私のこと忘れないでしょ?」

「そりゃ、当然」

「私も一緒」

それにさぁ、と美里は言葉を続けた。

「みんな、忘れる訳じゃないよ。忘れるんじゃなくて、糧にするの」

「糧?」

「そう。さっきの木の話だけど、葉っぱは、去年の葉っぱを糧にするの。新しい葉っぱの一員になるため、新しい葉っぱと出会うため。人もだよ。新しい人と出会うために、以前の出会いを糧にする。忘れるんじゃなくて、自分の中の栄養にする。んー、一体になるって感じじゃないかな?」

いったい。

依子はそう繰り返した。

「依子との思い出とかさ、全部、全部、今の私になってる。忘れたんじゃなくて、私の一部になってるってこと」

「そっか……」

得心した様に依子は言った。

「だから、依子も、私を忘れないってこと」

そう言ったのち、美里はおちゃらけた調子で「てかさぁ」と言葉を続けた。

「依子、私が依子のこと忘れるって思ってたってこと? ひーどーいー」

ツンツンと美里は依子のほっぺたを突いた。

依子は何も言えず、されるがままになっていた。


男性のアナウンスが、終点を告げた。ぷしゅーという音と共にバスが止まり、依子と美里はバスを降りた。車内とは異なり、冷たい空気がスカートから覗く足や顔を撫で、2人はぶるりと身を震わせた。

「さぁむいね」

「ね」

依子は、はぁ、と息を吐く。それは一瞬で白く濁り、虚空へと消えた。空は赤からすみれ色へと変わり、宵の始まりを示している。ちらちらと電灯が点き始めた。

「ねー、依子」

「何、美里」

パタパタと2人分の、ローファーがアスファルトを蹴る音と、依子と美里の声だけが冷たい空気を震わせる。

「私が、依子のこと忘れるって気にしてたでしょ」

「その話する?」

「しちゃいますねえ。それが」

「しちゃいますねえって……。で、それが?」

依子は少し嫌そうに言った。少し恥ずかしかったのだ。

「私も依子のこと忘れないし、依子も私を忘れない様なことしてあげよっかなーって」

「何、それ」

Y字路のカーブミラー前で、依子と美里は足を止めた。Y字路の片方の先には依子の家があり、もう片方の先に美里の家がある。

「依子、ちょっと」

こっちにおいでという様に手を振る美里に、依子は近づいた。

「ちょっとかがんで」

依子は美里に言われた様に、少し腰を落とした。同じくらいで並んでいた、電灯の伸ばす影法師のうちの片方が低くなった。そして、

「忘れられないおまじない」

ちゅ。小さなリップ音と共に、依子の額に落とされる柔らかな感触。

反射的に依子は額を両手で抑えた。

「あははっ! びっくりした? 忘れられないでしょ!」

「え、み、美里っ!?」

「じゃーねー! また明日! 依子!」

「ちょっ……。えぇっ!?」

パタパタとローファーが駆け、白いマフラーが飜る。パッと伸ばした依子の手は、何を掴むでもなく空気を握った。

依子の手が届かなくなった彼女は、くるりと依子を振り返り、弾ける様な笑顔を見せた。そして、また前を向き、足音が遠のいていった。

「えぇ……」

1人カーブミラー前に残された依子は、困惑の声をあげた。しかし、その表情は決して困ったものではなかった。

「バッカじゃないの」

楽しそうに、嬉しそうに、依子はそう呟き、にやける口元をマフラーで口元を隠した。

依子の赤く色づく頬が、冬の寒さのせいなのか、はたまた他の要因がためか。その理由を知る人は誰もいない。


Y字路を駆けた美里は、はぁはぁと肩で息をした。冷たい空気が熱々に火照った肺をひやしていく。

「満足されましたか?」

男とも、女ともつかない声が美里の背中にかけられた。街灯と街灯の光の隙間。薄暗いその空間からひょっこりと浮き出た様な、黒いスーツがいた。手足は長く、ウェーブのかかった黒髪も長い。病的なほど色が白く、整ったその顔は精巧な人形の様にも見える。

「アレでいいんですか? どうせ最後ですし、いっそのことパッと言っちゃってもいいんじゃないですか?」

「っ、はぁ……。いいや。ふぅ……。アレでいいの」

美里は呼吸を整えて、歩き始めた。その隣にスーツが並んで歩く。

「ふぅむ……? アレでご満足、と?」

「うん。いいの」

美里はご満悦といった様子で答えた。それは首を捻った。

「ですが、アレで伝わったとは思えませんよ。えぇ、私個人の感想ですがね。あれじゃ、おふざけにしかなりません。ちょっといきすぎではありますが」

「えー。だからいいんだよ」

美里が言葉を発する度に、白い息がフワリと浮かぶ。しかし、スーツ姿からは温度が無いかのように、一切白い息が吐き出されない。

「おふざけで、それでいいの」


だって、友達だもん。


美里はニッコリとスーツ姿に微笑んで言った。

「友達でいるって、約束したしさ」

それは泣きそうでも、悲しそうでもなんでも無い。清々しい笑みだった。

「……人というのは、難しいですね」

「そうかな? 結構単純だよ」

街灯が伸ばす影は1つだけ。美里の影ただ1つのみ。

「やりたいことやったから、もう思い残すことは何も無いかなー」

「そうでございますか」

「んじゃ、よっろしくぅ!」

美里は右手を差し出した。腕時計の針がチクタクと時間を刻む。

「では、お連れいたします」

冷たい手が、美里の手を握った。

カチリと時計の針が止まる。それと同時に、美里は己の体が急速に冷たくなり、そして軽くなっていくように感じた。美里は目を閉じた。のうりにうのは、依子との日々。あの日の依子との出来事。


依子。私は依子の思う友達でいれたかな? だとすれば、嬉しいなぁ。


最後に瞼の裏に浮かんだのは、先程の依子の表情。目を丸くして驚き、次いでサッとの赤く頬が色づいた。

くっそう、唇にしときゃよかった。最後だし。

そんなことを考えて、美里の意識は白に染まった。


「青々とした葉っぱの時は、みんな一緒、1人ぼっちはいない……ですか」

スーツ姿は、そう言いつつ落ち葉を1枚拾って指で弄ぶ。表情をなくした美里の体は、しゃんしゃんと家へと道を進む。

少しして、キキーッとトラックがブレーキを踏む音と、ドンっと何かを跳ねる音がして、人々がざわつく音が道に広がった。

「美里さん。あなたはどうなのでしょう。みんなとは違うモノサシを持った美里さん。あなたは、1人ぼっちじゃないと、そう言えますか?」

スーツ姿のその問いに、答えるものはいなかった。しかし、スーツ姿は知らなかった。赤く染まりゆくマフラーを巻いた美里が、嬉しそうに笑っていたことを。丸で、違っても1人ぼっちじゃないと言わんばかりに、笑っていたことを。

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それが、彼女の望んだこと 武蔵-弁慶 @musashibo-benkei

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