最終話
仕方がないからお礼でも言ってやろうと麻紀は顔を上げたが、そこに八神の姿はなかった。
驚いて周りをきょろきょろと見回しても誰も居ない。
狐に化かされたような気持になって、麻紀はため息を吐いた。
こうしていても始まらないと、帰ろうとした麻紀の視界に放置された買い物袋が飛び込んだ。
どうやらこの騒動の中、ずっとそのままだったようだ。
拾って中身を確かめると、すっかりぬるくなった炭酸飲料とお菓子の袋がちゃんと収まっていた。
しかし封を切ったお菓子は買い物袋の中に散乱してしまっていた。
やれやれと肩を竦めた麻紀は歩き出す。
その手にはしっかりと巾着が握られていた。
二カ月後、麻紀は通院のために病院にきていた。
体調はどうかと聞かれてありのままを話した。
つい数日前に突然社長からメールが送られてきた。
その内容は、
「傷病手当の書類にハンコ押すけど?」
たったそれだけである。
つまりは麻紀自身が自分で傷病手当の書類を用意して、ハンコをもらうために会社に掛け合わなくてはならないということ。
このメールで良くなりかけていた体調が一気に悪化し、食事もまともに出来なくなっていた。
そのことを伝えると労働基準監督署に行くよう勧められ、今年いっぱい休職する旨の診断書を渡された。
帰る前、受付に傷病手当の書類を書いてもらうように掛け合い、会計を済ませて病院を出る。
できればこのまま労働基準監督署に行った方がいいのは分かりきっているのだが、病院での人の多さに気分が悪くなった麻紀は、そのまま家に帰ることにした。
家について自室のベッドにごろんと横になった麻紀は、天井を見上げる。
何事もすぐには変わらない。
そして恐らくあの会社の対応の悪さは絶対に変わることはない。
病院でも言われたが、こちらは悪くないのだから、飲み込まれたら終わり。
堂々としていればいいのだ。
解ってはいるけれども、常にあの環境に身を置いていた麻紀の身体は、如実に反応してしまう。
「思うようにならないな……」
ふと本棚の一角に目を向ける。
そこには麻紀が気に入っている小物が収められていて、その中にあの巾着も入れられている。
麻紀は巾着をじっと見つめると、大きく深呼吸した。
ここ最近、麻紀が習得した気分を切り替えるための習慣だ。
眼をとじてゆっくりと三つ数えると、麻紀は身体を起こして読みかけの文庫本を手に取った。
今はとにかく時間がある。
麻紀はまた趣味の読書を再開したのだ。
そろそろ書くことにも手を出そうと考えているのか、机の上には真新しいノートと筆箱が置かれている。
ここ数日は体調が悪いが、気分が向いた日には、こういった新しいことを始めるための買い出しに出掛けている。
あいかわらず会社の前を通らなければどこにも行けないが、気分を一新してバッサリと髪を切ったので、例え園田や社長夫人が会社の前を歩く麻紀を見かけたところで、気付くことはないだろう。
夜になって少し体調が回復した麻紀は、コンビニに向かうことにした。
今まで自分にご褒美、なんてしたことがなかったが、こうやって何かがほしいと思ったら高いものでもない限り買うようにしている。
そうやって自分の機嫌を自分でとってやると気分がいい。
病院でもいい心がけだと言われたし、多少太ってきた気もしないでもないが、続けるつもりだ。
コンビニでお気に入りの飲み物を買って帰る途中、踏切に差し掛かる。
今日は電車が通る気配はなかったのでのんびりと歩く。
厚着はしているつもりだが、吹く風は冷たいため麻紀は肩を竦める。
ふと前から人が歩いて来る。
着物を着た人だ。
寒いのに着物だなんて、と気になったが、すれ違う間際に視線を落とす。
やはり人は苦手だった。
「いい顔だね、鶴岡さん」
すれ違う時に聞こえた声は八神だった。
麻紀はぱっとすぐに振り向いたが、あの時のように八神の姿は見えなかった。
結局お礼は言えずじまいだったので、今度こそ言えると思ったが無駄だったようだ。
しばらく暗闇に目を凝らして見ても何も見えず、踏切の音がし始めたことで麻紀は諦める。
どうやら麻紀はいい顔ができるようになったらしい。
今の麻紀の左手首には何もない。
代わりに左手の小指に小さな指輪をしている。
左手の小指に指輪をするのはチャンスを引き寄せ、願いを叶えるという意味があるらしい。
麻紀はこれから書くものを何らかの賞に応募しようと思っている。
そこで入賞できたら嬉しいな、くらいにしか考えていないが、何もしないでただだらだらと過ごすのは麻紀の性に合わない。
玉砕覚悟で挑戦してみるのも面白い。
どうせこれから頭の悪い会社とやり取りしないといけないんだから、ストレスは上手に発散させないとね。
麻紀はもう一度振り返って人影を探す。
しかしやはり何も見えなかった。
冷たい風が吹く。
麻紀はコンビニで買った温かい飲み物を一口飲むと、足早に帰っていった。
「物なんてなくったって、君のお父さんは護ってくれてるよ」
上から声が聞こえたような気がして、麻紀は真っ黒な空を見上げる。
そこには大きな鳥がくるくると回っている。
その鳥は青く輝く、きれいな鳥だった。
麻紀はこれから何かいいことが起こるような気がして、顔を綻ばせた。
※この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
藍玉の付喪神 化野 佳和 @yato_writer
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