第30話


 この気持ちの悪い黒い塊は、私のせいで生まれた。

 私の醜い感情が、父への思いを核にして生まれた。




「え、か……? と、さんが……ま、ちゃる……」




 塊――――、麻紀の父が無数の腕を伸ばしながら言う。

 八神は腕をはじかなかった。


 父さんが護っちゃる――――。

 それは昔、何度も言われた言葉だ。


 もうずいぶんと昔のことで、父の顔さえもおぼろげになってしまったけれど、本当はもう声も思い出せなくなってしまっていたけれど、その言葉だけはよく覚えている。


 麻紀は父が嫌いだった。


 いつも車庫に籠っていて麻紀の相手をしてくれない。

 構ってもらいに行っても、危ないからと追い返されていた。


 自分よりも車のことが好きなんだと、麻紀は子どもながらにがっかりした。

 それからというもの、麻紀は父に対してよそよそしくなり、中学生という多感な時期になると、顔を合わせるのも嫌になった。


 腕輪を貰ったときには、やっと自分に関心を抱くようになったのかと期待したのだが、その後すぐにまた麻紀と関わらなくなった。

 いい父親ぶりたかったんだと思った麻紀は、また文則と距離を置いた。


 肺の病気が悪化して入院しても面倒だと思うばかりで、病院が遠いことをいいことにあまり見舞いに行かなかった。

 そして文則が息を引き取ってからも、特に何とも思っていなかった。

 ただただ面倒だったのだ。


 気付けば麻紀は泣いていた。

 悲しいのか苦しいのか、怖いのか痛いのか。


 もはや何が何だか分からなくなってしまっていたけれど、ただただ懐かしかった。

 もう聞くことはないと思っていた言葉を、こんな形で聞くとは思っていなかったのだ。


 塊の、文則の細い腕が麻紀の頬に触れる。

 涙を拭おうとしているのだろう。

 他の腕が麻紀の左腕に触れる。


 そしてまた他の腕が腕輪に触れる。

 腕輪が急に冷たくなり、細い腕に触れられたところからだんだんと黒く染まってゆく。


 麻紀はとっさに腕を引いた。


 ぱらぱらと石が落ちていく。

 ぷつん、という音とともに地面に散らばる大小さまざまな丸い石が、あちらこちらに転がっていく様は、本当なら一瞬であるはずのことなのに、ひどくゆっくりとした速度に見える。


 先程まで氷のように冷たかった腕輪は、もうその一粒一粒が麻紀の腕から離れ真っ白な光を放っているように見えた。

 麻紀から離れていく瞬間の目が眩むほどの光は、どうしてだかあたたかく感じた。




「あれは君のお父さんだけれども、全部がそうというわけじゃない」




 いつの間にか麻紀の後ろに立っていた八神が、耳元で囁く。

 さっきといっていることが違うと麻紀は振り返るが、八神は麻紀と目を合わさなかった。


 塊は麻紀に近寄ってこない。

 それどころか地面に散らばった石を避けるように離れている。




「もはや君のお父さんだけではなく、他の人の暗い感情も食らってあそこまで大きくなっている」




 塊が麻紀を呼ぶ。

 細い腕たちを懸命に動かして麻紀を手招いている。




「あれは放っておくと、誰彼構わず害をなすようになるよ」




 麻紀は塊に目を向ける。

 あいかわらず塊は麻紀を呼んで手招いている。




「人に仇成す物の怪は、斬らねばならん」




 今までの八神は男性にしては高い声で話していたのに、この言葉はずいぶんと低い声だった。




「きる……?」




 不穏な言葉に、麻紀は繰り返すことしかできなかった。




「大丈夫、もう死んでるでしょ」




 先程の声色が嘘のように、いつも通りの人を小馬鹿にしたような口調で笑って見せる八神を見て、麻紀はますます不安になった。

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