第26話
麻紀の病名は適応障害ということになっている。
会社に報告する際にうつ病だと告げると、極端な話その場で解雇されることがあるらしい。
しかし嘘はつけないので、括弧書きとしてうつ病と印字してあった。
また来月、と看護師さんに言われて麻紀は反射的に頷いた。
今日この時から会話は録音した方がいいと言われて、麻紀は会計が終わるまでの間に携帯に録音アプリを入れた。
会計を済ませて車に戻ると、そのままの勢いで社長に連絡する。
今日から休職する旨を伝え、診断書はどうしたらいいかを尋ねると、
「わかった。診断書はいらん」
と言われた。
呆気に取られて返事ができないでいると、傷病手当について説明された。
一通りの報告をし、説明を受けたところで麻紀は電話を切った。
録音しといてよかった。
麻紀は心底そう思った。
診断書がいらないとはどういうことなのか。
それは麻紀の病名に心当たりがあるということだろうか。
だとするならその態度はいかがなものか。
ひとまず安心はしたものの、ふつふつとした怒りが込み上げてきた。
取りあえず明日から出勤しなくてもよくなったので、麻紀は先生の言う通りにおいしいものを食べることにした。
病院から帰った麻紀は家の中を見回す。
いつも過ごしているはずの自分の家は、改めてみると新鮮だった。
まるでアパートに引っ越してきた初日のような気分だ。
しかし実際には、玄関から台所、浴室、二階の自室。
そこには一本の道ができていた。
廊下や階段の隅に埃が溜まり、かつて両親が使っていた部屋や仏間の、ドアノブや襖の引手がうっすらとくすんでいる。
麻紀はまず、仕事用に使っていたかばんの中身を引っ繰り返した。
それから休みの時に使っているかばんに詰め替えると、空になったかばんを物置として使っている部屋に乱暴に投げ込む。
それから掛けていた仕事着を全部引っ掴んでそのまま洗濯機へ、しわにならないように、ボタンが引っ掛からないようにネットへ入れて、という手間を一切省いて洗濯を始めた。
自室へ行くと、乱雑に積み重ねられている、仕事で渡された資料を全部手元へ引き寄せ、隣にゴミ箱とクリアファイルを持ってくると、一枚ずつ拾い上げながら吟味していく。
冊子はクリアファイルへ、社長手書きの指示書は別のクリアファイルへ。
社長夫人からの手紙も社長からの指示書と一緒に。
数年に一回あるかないかの行事の段取りが書かれた紙はぐしゃぐしゃにしてゴミ箱へ。
こうしてかなりすっきりした資料は、二つのクリアファイルに分けられて、本棚の一番下の目の付きにくい隅へ投げ込まれた。
部屋を見回した麻紀は、腰に手を当てて鼻を鳴らした。
口元は軽く笑っていて満足気だ。
部屋の時計を見るとお昼を回っていたので、一階へ下りて冷蔵庫を覗いた。
幸い中にはお茶と調味料、それから卵と少しの豚肉があったのでそれで済ませることにした。
いつもとは違う心持ちに、食が進んだ。
昨日、炊いたまま保温になっていたご飯をすべて平らげ、おかずもきれいに食べた。
食後にお皿を洗っていても気分が悪くなることはなく、お腹も痛くならなかった。
仕事に行かなくてよくなったということが、ここまで麻紀の身体の調子を変えるものだとは、麻紀自身も思っていなかった。
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