第10話


 麻紀は、無意識にかばんから家の鍵を取り出していたことに気づいて、はっと顔を上げる。

 目の前には見慣れた勝手口があり、もう家に着いたのだと自覚した。


 玄関を上がって床にかばんを投げ、洗面所へ行くと、汗と砂埃まみれの手を洗う。

 水を止めようとして、蛇口に手首が当たった。


 きん、という音がする。


 中校生の頃から肌身離さずつけている天然石の腕輪を、蛇口にぶつけてしまったのだ。

 大丈夫だとは判っていても、欠けていないか一応確認してしまう。案の定、欠けていることはなかった。


 この腕輪を麻紀に送ったのは、今はもう居ない父、文則である。

 文則がまだ元気だった頃、麻紀が中学に上がったときのことである。

 文則は娘に入学祝として一つの贈り物をした。

 丸く削りだされた天然石を繋いで作った腕輪。

 今現在の麻紀の左手首にあるものである。


 その日文則は、いくつかの平たい木箱を抱えて娘の部屋を訪れた。

 本を読んでいた麻紀は、にこにこと楽しそうに床に木箱を広げていく父を見て、静かに本を閉じた。

 麻紀はその木箱たちに見覚えがあった。


 車をいじるのが好きな文則がよくいた車庫。

 幼い頃、そこの一番奥の棚に大事にしまわれていたのを見たことがある。

 機械油まみれの文則は、何が入っているのかと娘に尋ねられ、にこにこと笑って内緒だと言ったのは、ずいぶん前のことである。


 その木箱が今、麻紀の目の前にある。


 麻紀が木箱の中を覗き込むと、そこにはさまざまな大きさのきれいな石が収まっていた。

 箱の中は小さく細かく仕切られ、石が傷つかないように綿が敷かれていた。

 その綿の上に鎮座するいろいろな大きさ、色、形の石が、いくつもの木箱に収められて麻紀を取り囲んでいる。

 麻紀は戸惑って父を見るが、ただにこりと微笑まれただけだった。


 まず一番大きな石の中から一つだけ選ぶように言われた麻紀は、自分の周りを囲む木箱の上を、何度も目を往復させた。

 そして長い時間をかけて、ようやく一つを選んで指をさす。

 それは澄んだ浅瀬の海のような藍玉、いわゆるアクアマリンだ。


 文則は娘が選んだ藍玉を、木箱から丁寧に取り出して黒い盆の上に乗せた。

 その盆は手前に一列段がついており、その段に石を乗せることで転がっていかないようになっている。


 次は大きさも色も形も関係なく、好きなものを好きなだけ選ぶように言われ、麻紀は最初の戸惑いなど忘れて、満足いくまで石たちを眺めて選んでいった。

 その度に黒い盆に並んでいく石たちに、麻紀は胸が躍った。


 もういいか、と父に聞かれると、麻紀は満足げに頷いた。

 すると、文則は娘が選んだ石たちを並べ替えたり大きさを入れ替えたり、途中に美しく加工された大小さまざまな水晶を置いたりと、全体の出来栄えを見ながら整えた。

 そしてどこからか白く細いゴム紐を取り出して、きれいに並べ替えられた石たちを通していった。


 通されて一つになった石たちを、文則は娘の手首に巻いて大きさを確かめた。

 当時の麻紀の手首にちょうどいい大きさになり、文則は満足そうに頷くとそのまま仕上げた。


 そうして麻紀が選んだ石たちは腕輪になった。

 文則は完成した腕輪を、床に敷いた綿の上にそっと置くと、腰から下げていた袋の中から火打石を取り出して何度か打った。


 そのとき散った火花が、綿だけではなく床まで焦がしたのは二人だけの秘密である。

 文則は腕輪をそっと救い上げると、娘の左手首に通した。

 麻紀は、暖かい日の光できらきらと輝く腕輪に表情を綻ばせた。


 それからずっと、文則が死んで十年以上たった今でも、その腕輪は麻紀の左手首にいる。

 今となってはもはや身体の一部となっていて、外しているときはない。

 たまに、さっきのように何かにぶつけたり引っ掛けたりしてしまったとき以外、まったく意識しないほど麻紀に馴染んでいる。


 麻紀にとってこの腕輪は、ただの装飾品ではないのだ。


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