第十二話 欲の飢え
「長老様~! 来たよ~!」
「おお、立珂。よく来たね。待っていたよ。伽耶。立珂が来てくれたぞ」
「用意してあるよ! こっちおいで!」
薄珂は立珂と慶都を連れて長老の家に来ていた。文字の読み書きを習うためだ。頼んだら快く引き受けてくれて、聞きつけた孫娘の伽耶が古着を立珂にくれるというので三人で来た。
うきうきしている立珂を抱いて伽耶の元へ行くと、床に壁にもずらりと服が並んでいた。壁に掛けられているのは薄く透き通る桜色の生地で、窓から差し込む陽の光できらきらと光の粒子が輝いた。服のようではあるがどう装着するのか分からない。けれどわずかな風でひらひらと揺れる軽やかさは、薄珂ですら思わず息を呑む美しさだ。そして当然立珂にも。
「すすすすすすすてきぃぃぃ! 薄珂薄珂! あれ見たい! 壁の! 桜色のきらきら!」
立珂は動かない羽で飛び出しそうなほどに興奮した。伽耶は服を床に広げてくれて、立珂は顔がくっつきそうなくらいまじまじと見ている。
「南の生地よ。小さい頃に着てたんだけど里は小さい女の子いないから誰も着ないのよ」
「え~! もったいないよ! こんな素敵なのに!」
「でしょ? でも立珂ちゃんの分解して着る服、あれなら使えるでしょ?」
「う!? これ切っていいの!? 使っていいの!?」
「いいよ。はい、鋏」
伽耶は裁縫道具を取り出し立珂の傍に置いてくれた。宝の山を前にして、立珂はさっそく鋏を入れ始める。
「桜色のきらきらは前に使いたいね! とっても綺麗だからお出かけ用の服だね。襟と背中を濃い赤にして、縁取りも濃い赤で金糸の刺繍する豪華になるよ」
「お祭りの衣装にするのは? 舞台作って踊ったりさ」
「素敵! これならお姫様になれるよ!」
立珂は伽耶と意気投合したようで、お洒落談議は深まって行った。絶え間ない笑顔に薄珂も知らず知らずのうちに笑顔になる。
(よかった。お洒落って分からないんだよな俺)
薄珂はお洒落に全く興味が無かった。目を輝かせる立珂は可愛いがそれだけで、対等にお洒落の議論はできなかった。できることと言えば立珂を褒めることくらいだ。だから立珂と同じ目線で遊んでくれる相手がいるのはとても有難かった。
長老も嬉しそうな笑いをこぼしていたが、ぽんっと薄珂の背を叩いた。
「薄珂は文字の読み書きだったな」
「うん。名前くらいは書けるけど難しいのは全然分からなくて」
「なら本を読みながら勉強しよう。ついでに色々な知識も得られる」
長老は本棚から幾つか本を取り出し立珂達が見える位置に座った。
最初に広げてくれたのは両手で持つほど大きな本で、文字よりも絵が多い。枚数も少ないので厚みもあまりなかった。
「絵本だ。この辺りの伝承を書いたもので、天女が人間の男と恋に落ち仙力で国を作る話」
「……へー。恋なんかしなくても国は作れると思うけど」
「ははは。これは持って帰って立珂と読みなさい。服が可愛いから立珂も楽しいだろう」
「ああ、うん。有難う」
「男の子は武勇伝のような話がよいだろう」
長老はもう一冊の本を薄珂の前に置いた。重厚感ある赤い表紙には金の文字で『極北明恭公吠伝』と書かれているが、とても分厚くて絵は一つも入っていない。
「これは『きょくほくめいきょうきはいでん』と読む。明恭は知ってるか?」
「ちょっとだけ聞いた。軍事国家で、凍死する人がいるって」
「そう。三千人以上が凍死していたが今は無くなった。どうしてだと思う?」
「夏になったから?」
「いいや。明恭は年中極寒。寒さが納まる日などない。ある物を使うようになったんだ」
「……分かんない」
「はは。正解はあれだ」
長老は視線を本から居間へ移した。そこでは立珂がたくさんの服を広げている。端切れや紐類が所せましと広がっていて片付けが大変そうだ。
「あ、服を変えたんだ」
「そうだ。それもある特殊な材料を用いた特別な服だ。何を使ったと思う?」
「すごく分厚い生地?」
「いいや。身体の中から温まる最高級の素材だ」
長老はほんの少しだけ眉を下げて苦笑いをすると、再び立珂に視線を移した。
相変わらず立珂は服ではしゃいでるが、その横で慶都が団扇で仰いでくれている。何をするにも汗をかく立珂のために自ら持ち歩くようになったのだ。
そしてその姿を見てふと天藍の言葉を思い出した。
(そういや明恭は有翼人に詳しいんだっけ。もしかして)
なんとなく想像がついて、薄珂は恐る恐る答えた。
「……有翼人の羽根?」
「正解だ。有翼人の羽根は綿や動物の毛よりはるかに暖かいそうだ。羽根家財と防寒具のおかげで平均寿命が五十歳前後から八十歳にまで伸びた」
「そんなに!?」
「これを成したのが現明恭皇の
「へえ。じゃあ公吠様は軍事国家を止めたいんだ」
「うん? そうだが、何故そう思う? 武力は衰えていないんだぞ」
「だって政治力で乗り切るって軍事国家であることを否定したようなものだよ。けど公吠様はそれを本にした。武力一本でいくべきじゃないと考えたんだよ」
「だが止めたいとは限らんぞ。改善して続けるかもしれん」
「続けないよ。というか続けてない。だってこの本続きあるもん」
薄珂は長老が本を取り出ってきた本棚を見た。そこには『新極北明恭公吠伝』という続編の三巻まで並んでいるが、表紙の色は白で文字は銀色に変わっている。
「全然違う本みたいだよね。きっと武勇伝から政治の話に変わったんだよ」
薄珂は思ったことをぺらぺらと話したが、長老は目を見開いて驚愕を顕わにしている。
「あれ? 違う?」
「……正解だ。それをこの一瞬で考えたのか?」
「考えたっていうか蛍宮がそうだし。悪政を終わらせ平和にしたって」
「なるほど」
長老はゆっくりと口角を吊り上げ、本棚から『新極北明恭公吠伝』の三巻全てを取り出し積み上げた。合計四冊、全て読むにはとても一日では足りない。
「明日から昼過ぎにおいで。文字と歴史を教えよう。立珂も一日じゃ遊びつくせないだろう」
「有難う! じゃあ明日から来るね!」
ようやく師を得て薄珂はぱあっと笑顔になった。しかしそれと同時に居間から悲鳴とも思える立珂の大きな声が上がった。
何かあったのかと、薄珂は本を放り捨てて居間へと駆け込んだ。すると立珂は満面の笑みを浮かべ、両手で紫色の何かを抱きしめていた。それは服ではなく植物のようだった。
「びっくりした。それ何だ?」
「いいかおりなの! ふわ~んって!」
立珂が持っているのは細長い植物で、紫色の小さな花がたくさん付いている。立珂は紫の束にぼふっと顔を突っ込んでその香りを嗅いだ。
くんくんと嗅ぐ姿は愛らしくて、伽耶は愛でながら立珂を撫でている。
「気に入ったみたいだね。これは
「有難う。立珂、もらったぞ」
「わあい! 有難う! くんくん!」
それからしばらく立珂は薫衣草を抱きしめていたが、心地良い香りのおかげか少ししたら昼寝を始めた。
起こすのは忍びないので立珂の目が覚めるまで長老に本を読んでもらった。夕方になるとようやく立珂は目を覚まし、明日もまた来ると約束して帰宅した。
家に帰り夜も更け寝台に入ると、立珂は薫衣草の束を抱きしめたままだった。
「立珂。それあっちに置いておこう」
「やだ。持って寝る。くんくんしながら寝る」
「よっぽど気に入ったんだな。じゃあ何かに包むか。布団汚れちゃうからな」
薄珂は端切れを引っ張り出し薫衣草を包んだ。立珂は嬉しそうにそれを抱きしめるとようやく横になったが、それでもずっとくんくん嗅いでいる。
「首から下げる袋作るか? 匂い袋にすればいつも持ってられるだろ」
「作る! 作る作る! 服に合う色がいいな。共布もいいかも!」
「共布ってなんだ? 一緒に使う布か?」
「同じ生地! 服と同じ生地で作ればおそろいになるでしょ!」
「ああ、なるほど。立珂はどんどん頭良くなるな。凄い」
「んふふふ。薄珂のも作るね」
「お揃いだな」
「お揃いだよ!」
立珂はぐりぐりと薄珂に頬ずりをした。二人の身体の間から薫衣草の香りが溢れている。
大好きな服と薫衣草、新たなお洒落に思いを馳せて立珂は幸せそうに眠った。
(咲いてるとこ見に行ってみるか)
立珂はぷうぷうと穏やかな寝息を立てている。それは今までと変わらないけれど、立珂の未来への選択肢はどんどん増えているようだった。
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