16話 呪い2

 衝撃に目をつぶる。しかし痛くない。カナタは目を開けると、視界は、なぜか反転していた。

 逆さまに火熊グリズリーを見上げる。大地が、天になった。地面にルイが転がっている。


 誰かが脇にいた。


 それは太く、たくましい腕だった。一瞬、視界の隅に映ったのは、ふさふさした耳らしい。目が回るほど回転したかと思うと、カナタの身体は元いた地上に落ちて、天地が正しい配置に戻った。


 腕を無くした火熊グリズリーが天を仰ぎ、うおぉぉぉぉん、と吠えている。

 火熊グリズリーの正面に、兜を被った大男が立っていた。兜の下から延びる三つ編みにされた一本の長い髪、その髪が風でなびく。長さは膝裏あたりまであった。大男は鎧を身につけ、剣先が太くなってゆく大型の剣を右手に握りしめている。火熊グリズリーの腕をそれで叩き切ったのだ。男の立派ながたいを見れば、彼が戦士であることは察しがついた。肌の色は茶色く、腰に巻かれている橙色の綺麗な布と独特の刺繍は、エン族と呼ばれる亜人のものだった。


 火熊グリズリーと対峙しているエン族の男と、カナタを抱えているふさふさ耳の男。

 カナタは突然のことで言葉を失った。

 男の手が離れて、カナタは地面に落とされた。


「きゃっ」

「迷い込んだのか? 異国の旅人か」


 その言葉は、古代エト語だった。カナタはそれが一瞬、ルイの言葉かと思った。なぜならエト語は狼族ウェアウルフの言語だから。しかしその声は、ルイの声よりいくらも低く、男らしかった。


「誰? ルイ君じゃない」


 カナタが同じ言語で聞き返すと、男はカナタの顔を初めてみた。


「言葉が分かるのか? 俺たちの」

「おいジル。こいつは傑作だ。信じられるか?」


 離れたところから、今度は別の、やや汚い声が耳に届く。エン族の男だ。西方でもっとも多くの民に話されている言葉、エル語を使っていた。


狼族ウェアウルフが二匹もいるぞ」


 側にいる男は、やはり狼族ウェアウルフだった。端正な顔立ちをした美青年だ。耳に赤い塗料を塗っている。既婚者の証だった。


 その男が振り返り、地面から立ち上がったばかりのルイに気づく。

 ルイは驚きを隠せない表情で、口をぱくぱくさせた。ルイのそんな顔を初めて見た。


「同胞か? おさの名を言えるか?」


 ジルと呼ばれた男が、ルイの元へ歩み寄ろうとする。


「おいジル。話は後にしろ。でかいのがくるぞ!」


 全員の視線が、火熊グリズリーの元へ引き戻される。腕を無くした獣は、三足歩行でこちらを威嚇している。開かれた大きな口から、黒い煙が立ち上る。火熊グリズリーは火を噴く。それは北方の厳しい冬の中、暖をとるための手段であり、獲物を焼き殺すための武器でもある。


 口の中に炎が満ちて、あふれ出そうとしていた。


「女は俺が担ぐ。お前らは、どうにかしろ」


 狼族ウェアウルフの男が仲間の戦士とルイに向かって言った。


 次の瞬間、火熊グリズリーがありったけの咆哮とともに、火を吐き出した。その量は異常だった。まるで火の悪魔が三日かけて世界の半分を焼き尽くしたとされる伝説を再現したかのような、でたらめな火力。聖典ではそれを火の壁ファイアウォールと呼んだ。


 カナタはまた乱暴に宙を舞っていた。大地が炎に飲み込まれてゆく。瞬く間に周辺は火の海と化した。


 カナタたちの着地した場所は、おそらく唯一、安全な場所だった。

 火熊グリズリーの肩の上だ。

 カナタを担ぎ、男はその場所へと着地していた。火熊グリズリーの口からは依然、炎がなみなみと注がれ続けている。止まらない。


 男は腰に差していた長剣を引き抜くと、ゆっくりと振り上げた。そして一線、綺麗な軌道で火熊グリズリーの両目を切った。

 返り血がカナタの頬にはねる。


「待って」


 カナタが呼び止めた。


「また強くなった。いずれ俺たちでは、どうしようもなくなる」


 火熊グリズリーは、炎を吐き出し続けながらも、失っていない方の片手を振り上げ、ふたりをつかみ取ろうとしてくる。だが狼族ウェアウルフのジルが再度、剣を一太刀し、もう片方の腕も切り飛ばす。両手を失った火熊グリズリーは、前方を支えきれずに前のめりに倒れた。


 それでも火の壁は止まらない。炎があふれ続けている。止められないのだと、カナタは気付いた。


「待って!」


 カナタが繰り返す。


「なんだ、さっきから」

「この火熊グリズリーを殺すの?」

「殺せない。不死身だ。ただし、こいつの首を一度はねれば、町を抜け出せる。単純な仕組みだ」


 男が剣を振りかぶる。


「早く仕止めないと、仲間が持たない」

「話がしたいの。言葉が通じるわ」

「正気を失っている。会話など出来ない」

「北の言葉を使うの」


 カナタは、母の記録にあった北の言葉で、火熊グリズリーに話しかけた。


何を探しているの?ヴィダーシャ・アルスィラモン・メルペツァリャ・ウカ


 火熊グリズリーの耳がわずかに、こちらを向いた。

 反応を示している。

 カナタはもう一度呼びかけた。


あなたの力になりたいメルテッシ・フーウレビア・ニルティシィ・ラ


 また反応を見せた。


「まさか。どういう理屈だ」


 狼族ウェアウルフも目を見開いて、動きを止める。

 会話が出来るかも知れない。淡い期待を抱いた。


 しかしそれもつかの間、火熊グリズリーの反応は、悲しいものだった。カナタの意に反して、さらに凶暴な唸り声を上げ、口からより多くの炎を吐き出したのだ。


「だめ!」


 カナタの言葉も空しく、火の海はさらに広がる。


 隣で男が舌打ちを入れた。続けてカナタを空に放り投げる。身軽になった状態で長剣を両手持ちにして、ありったけ振りかぶり、身を回転させ、その勢いで、剣を振り下ろした。


 火熊グリズリーの頭が見事に飛んだ。それと同時に、火が止まった。

 火熊グリズリーの身体が、崩れ落ちてゆく。


 落下するカナタの元へ、再びジルと呼ばれる男が飛び上がる。片腕を乱暴に掴まれ、まるで旗のような扱いで、宙を舞う。


「待って、きゃあっ!」


 ジルと呼ばれた男の足が、焼け焦げになった大地に着いた。海が割れるように、炎の壁が裂けてゆく。やがて火の海は大地へと戻り、あたりは静まり返った。


 尻餅をついてしまったカナタは、思い出したように立ち上がり、ルイを呼んだ。


「ルイ君! どこ?」


 焼け野原だ。小さな獣たちも姿がない。


「うそ、焼けちゃった」


 カナタが愕然としていると、すぐ側にあった瓦礫の山の中から、かすかに声が聞こえた。瓦礫の山のてっぺんにある大きめの石が、ごろごろと転がり地面に落ちた。数歩引いたところで、その岩山を見守っていると、今度は山が割れるように中ががっと開いて、下に埋まっていた男が姿を見せた。


「おー、息が出来る。死にそうだ」


 エン族の男が大声で言った。


「おい坊主、無事か? くたばったか?」


 腕にはルイを抱えている。


「ルイ君!」

「おいジル。今日はやけに遅いじゃないか。息が続かないかと思ったぞ」

「おまえが死ぬとは思ってない。そっちは?」

「自分で確かめろ。ほら」


 エン族の男が軽々とルイを放り投げる。ジルと呼ばれた男がルイの右手首を掴み取ると、ルイの小さな身体は、男の正面でぶらんと宙づりになった。


「無事か? この程度で狼族ウェアウルフは死なないはずだ」


 ずっと呆けた目をしていたルイだったが、思い出したように、ぱっと両耳を立てた。


「カイだ!」


 ルイが言った。


おさの名はカイ。カイ・フィンレイ。僕の父だ」

「フィンレイか。知っている。俺のいた集落グルバおさはモーラだ。遠くない血の繋がりがある」

「知ってる。父さんから、たくさん話を聞いてる。僕の集落グルバは……」


 ルイの声が震え出し、頬からは大粒の涙が溢れていた。


「よく生きていたな。この広い大地で俺らが出会うなんて、そうあることじゃない」


 男がルイの身体を地面に下ろすと、ルイは急いで狼族ウェアウルフの男の胸元へと飛び込んだ。親にしがみつく泣き虫な子供のようだった。


「祝杯をあげよう。互いの旅の話を肴にな」


 ルイが男の腕の中でうなずく。


「だがいまは、それどころじゃない。あの火熊グリズリーがよみがえる前に、この場を離れよう」


 男がルイを引き離し、みなに向けて言った。


「ぐずぐずしている暇はない。ここを少し走れば仲間がいる。行くぞ」


 カナタたちは、ふたりの男に案内されて走った。


 しばらく先へ進むと、向こう側から十頭くらいの馬に乗った一団が現れた。馬上にいるのは、みな屈強そうな戦士たちだ。追いかけてくる魔物を槍や弓で迎え撃ちながら、固い陣形を崩さない。

 背中の空いている馬が二頭、こちらに歩み寄ってきた。


「馬に乗れるか」


 ジルと呼ばれる男が尋ねた。


「慣れてる」


 とカナタは答えた。


「んじゃあ、お嬢ちゃんはジル、おまえが乗せろ。おい少年。俺の馬に乗せてやる。有り難いだろ」


 エン族の男が馬にまたがり、ルイがその後ろに乗った。

 カナタは狼族ウェアウルフの男の馬にまたがった。男の背中から腕を回す。


 一団は再び小さな獣を蹴散らしながら、街の外へ向けて馬を走らせた。


「ねえ、ギレイ。この子たちは?」


 一団の中でただひとり女がいた。ブロンド髪の美女だ。

 エン族の男が正面を見据えながら答える。


「拾った。それ以上の話はしていない」

「そう。でもこのボクは、狼族ウェアウルフじゃない。珍しい。ジルあなた、良かったじゃない。お仲間に会えるなんて」


 ブロンド髪の女性が、こちらに向かって、大声で呼びかける。ジルが答えた。


「まだなにも話せていない。それに、俺たち狼族ウェアウルフの再会はおまえが思っているほど単純ではない」

「ボクは随分、幼いわ」


 ルイの顔をのぞき込み、女性が言った。その言葉はエル語から自然とエト語になっていた。


「君の名前は?」

「ルイ。ルイ・フィンレイ」

「そう。あのお兄さんはジル・シモンっていうの。仲間と会えて嬉しい?」


 ルイは戸惑った様子ながらも、うなずいて答えた。


「嬉しい。夢みたいだ」


 カナタはルイの言葉を聞いて、どこかほっとした。ずっとなにかが欠けたような寂しさのこもった声だったルイが、初めて本当に嬉しそうな声で、その言葉を口にしていた。


 獣たちが追いかけて来なくなり、一団の馬が足を早めた。


「さあ呪いを抜けるぞ。野郎ども!」


 エン族の男、ギレイが合図を送る。一団はそれに呼応しておおっ、と声を上げた。

 薄暗かった街の中に光が射し込み、一団の乗った馬たちは次々に光の中へと飛び込んでゆく。薄い膜のようなものを通り抜けたかと思うと、空気は浄化され、気づけば見晴らしのよい草原を駆けていた。


 カナタは振り返った。しかしその先には、先ほどまで留まっていた街の姿はない。黒いもやのようなものが、遠ざかって行くのを感じた。


「お嬢ちゃん。呪いは初めて?」


 ブロンド髪の女が、今度はカナタの馬の隣にやってくる。カナタはうなずいた。


「ええ。話では聞いていたわ。でも入ったのは初めて」


 カナタは西の言葉に併せて、エル語で返事をした。


「あなたとあの坊やは、旅のともなの?」

「そんなところ」

「子供たちだけで大変だったでしょ。それにしても、あの街で何をしていたの?」

「気づいたら眠っていたみたい。山を越えて、安全な街だと思って目指していたのに――」

「水を飲んじゃったってわけね。無理もないわ」

「お姉さんたちは、あの街のこと知っているの?」

「ええ、もちろん。この場所は、いまから三百年前に呪いがかかったの。どうしてか分かる?」


 カナタがうなずく。


「鬼の角が落ちたから」

「そうよ。それ以来、呪いは街の中でずっと繰り返されている。あの火熊グリズリーも永遠の悲しみを味わっているの」

「話を聞きたかったわ。あの子、少しだけ私の言葉が通じていたのに」


 ブロンド髪の女が「うそ」と小さくつぶやいた。


「話が出来ると?」

「たぶん出来るわ。あの火熊グリズリーには飼い主がいたの。それって、利口じゃないと出来ない。火熊グリズリーは私たちが思っている以上に、言葉を理解するわ」


 黙って聞いていたブロンド髪の女が、おもむろに口を開いた。


「あなた夢を見たのね? あの街で」

「見たわ」


 カナタがうなずく。

 するとブロンド髪の女は、次の言葉を投げかけるわけでもなく、ただこちらの目を、じっと観察してくる。


「きれいな瞳ね。赤い瞳」


 カナタはまじまじと見つめられて、思わず目をそらした。目の前の女性は、安っぽい麻のドレスを破いて身体に巻き付けているが、農民の出身でないことは雰囲気で分かった。美しく、気品のある女性だった。


「私の名前はティナ・リェンシェン。王家の血を引く女よ。と言っても没落した一族の娘だけどね。街に着いたら仲良くしましょ」


 ティナは去り際にウインクをすると、カナタたちの乗る馬から離れて行った。

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