16話 呪い2
衝撃に目をつぶる。しかし痛くない。カナタは目を開けると、視界は、なぜか反転していた。
逆さまに
誰かが脇にいた。
それは太く、たくましい腕だった。一瞬、視界の隅に映ったのは、ふさふさした耳らしい。目が回るほど回転したかと思うと、カナタの身体は元いた地上に落ちて、天地が正しい配置に戻った。
腕を無くした
カナタは突然のことで言葉を失った。
男の手が離れて、カナタは地面に落とされた。
「きゃっ」
「迷い込んだのか? 異国の旅人か」
その言葉は、古代エト語だった。カナタはそれが一瞬、ルイの言葉かと思った。なぜならエト語は
「誰? ルイ君じゃない」
カナタが同じ言語で聞き返すと、男はカナタの顔を初めてみた。
「言葉が分かるのか? 俺たちの」
「おいジル。こいつは傑作だ。信じられるか?」
離れたところから、今度は別の、やや汚い声が耳に届く。エン族の男だ。西方でもっとも多くの民に話されている言葉、エル語を使っていた。
「
側にいる男は、やはり
その男が振り返り、地面から立ち上がったばかりのルイに気づく。
ルイは驚きを隠せない表情で、口をぱくぱくさせた。ルイのそんな顔を初めて見た。
「同胞か?
ジルと呼ばれた男が、ルイの元へ歩み寄ろうとする。
「おいジル。話は後にしろ。でかいのがくるぞ!」
全員の視線が、
口の中に炎が満ちて、あふれ出そうとしていた。
「女は俺が担ぐ。お前らは、どうにかしろ」
次の瞬間、
カナタはまた乱暴に宙を舞っていた。大地が炎に飲み込まれてゆく。瞬く間に周辺は火の海と化した。
カナタたちの着地した場所は、おそらく唯一、安全な場所だった。
カナタを担ぎ、男はその場所へと着地していた。
男は腰に差していた長剣を引き抜くと、ゆっくりと振り上げた。そして一線、綺麗な軌道で
返り血がカナタの頬にはねる。
「待って」
カナタが呼び止めた。
「また強くなった。いずれ俺たちでは、どうしようもなくなる」
それでも火の壁は止まらない。炎があふれ続けている。止められないのだと、カナタは気付いた。
「待って!」
カナタが繰り返す。
「なんだ、さっきから」
「この
「殺せない。不死身だ。ただし、こいつの首を一度はねれば、町を抜け出せる。単純な仕組みだ」
男が剣を振りかぶる。
「早く仕止めないと、仲間が持たない」
「話がしたいの。言葉が通じるわ」
「正気を失っている。会話など出来ない」
「北の言葉を使うの」
カナタは、母の記録にあった北の言葉で、
「
反応を示している。
カナタはもう一度呼びかけた。
「
また反応を見せた。
「まさか。どういう理屈だ」
会話が出来るかも知れない。淡い期待を抱いた。
しかしそれもつかの間、
「だめ!」
カナタの言葉も空しく、火の海はさらに広がる。
隣で男が舌打ちを入れた。続けてカナタを空に放り投げる。身軽になった状態で長剣を両手持ちにして、ありったけ振りかぶり、身を回転させ、その勢いで、剣を振り下ろした。
落下するカナタの元へ、再びジルと呼ばれる男が飛び上がる。片腕を乱暴に掴まれ、まるで旗のような扱いで、宙を舞う。
「待って、きゃあっ!」
ジルと呼ばれた男の足が、焼け焦げになった大地に着いた。海が割れるように、炎の壁が裂けてゆく。やがて火の海は大地へと戻り、あたりは静まり返った。
尻餅をついてしまったカナタは、思い出したように立ち上がり、ルイを呼んだ。
「ルイ君! どこ?」
焼け野原だ。小さな獣たちも姿がない。
「うそ、焼けちゃった」
カナタが愕然としていると、すぐ側にあった瓦礫の山の中から、かすかに声が聞こえた。瓦礫の山のてっぺんにある大きめの石が、ごろごろと転がり地面に落ちた。数歩引いたところで、その岩山を見守っていると、今度は山が割れるように中ががっと開いて、下に埋まっていた男が姿を見せた。
「おー、息が出来る。死にそうだ」
エン族の男が大声で言った。
「おい坊主、無事か? くたばったか?」
腕にはルイを抱えている。
「ルイ君!」
「おいジル。今日はやけに遅いじゃないか。息が続かないかと思ったぞ」
「おまえが死ぬとは思ってない。そっちは?」
「自分で確かめろ。ほら」
エン族の男が軽々とルイを放り投げる。ジルと呼ばれた男がルイの右手首を掴み取ると、ルイの小さな身体は、男の正面でぶらんと宙づりになった。
「無事か? この程度で
ずっと呆けた目をしていたルイだったが、思い出したように、ぱっと両耳を立てた。
「カイだ!」
ルイが言った。
「
「フィンレイか。知っている。俺のいた
「知ってる。父さんから、たくさん話を聞いてる。僕の
ルイの声が震え出し、頬からは大粒の涙が溢れていた。
「よく生きていたな。この広い大地で俺らが出会うなんて、そうあることじゃない」
男がルイの身体を地面に下ろすと、ルイは急いで
「祝杯をあげよう。互いの旅の話を肴にな」
ルイが男の腕の中でうなずく。
「だがいまは、それどころじゃない。あの
男がルイを引き離し、みなに向けて言った。
「ぐずぐずしている暇はない。ここを少し走れば仲間がいる。行くぞ」
カナタたちは、ふたりの男に案内されて走った。
しばらく先へ進むと、向こう側から十頭くらいの馬に乗った一団が現れた。馬上にいるのは、みな屈強そうな戦士たちだ。追いかけてくる魔物を槍や弓で迎え撃ちながら、固い陣形を崩さない。
背中の空いている馬が二頭、こちらに歩み寄ってきた。
「馬に乗れるか」
ジルと呼ばれる男が尋ねた。
「慣れてる」
とカナタは答えた。
「んじゃあ、お嬢ちゃんはジル、おまえが乗せろ。おい少年。俺の馬に乗せてやる。有り難いだろ」
エン族の男が馬にまたがり、ルイがその後ろに乗った。
カナタは
一団は再び小さな獣を蹴散らしながら、街の外へ向けて馬を走らせた。
「ねえ、ギレイ。この子たちは?」
一団の中でただひとり女がいた。ブロンド髪の美女だ。
エン族の男が正面を見据えながら答える。
「拾った。それ以上の話はしていない」
「そう。でもこのボクは、
ブロンド髪の女性が、こちらに向かって、大声で呼びかける。ジルが答えた。
「まだなにも話せていない。それに、俺たち
「ボクは随分、幼いわ」
ルイの顔をのぞき込み、女性が言った。その言葉はエル語から自然とエト語になっていた。
「君の名前は?」
「ルイ。ルイ・フィンレイ」
「そう。あのお兄さんはジル・シモンっていうの。仲間と会えて嬉しい?」
ルイは戸惑った様子ながらも、うなずいて答えた。
「嬉しい。夢みたいだ」
カナタはルイの言葉を聞いて、どこかほっとした。ずっとなにかが欠けたような寂しさのこもった声だったルイが、初めて本当に嬉しそうな声で、その言葉を口にしていた。
獣たちが追いかけて来なくなり、一団の馬が足を早めた。
「さあ呪いを抜けるぞ。野郎ども!」
エン族の男、ギレイが合図を送る。一団はそれに呼応しておおっ、と声を上げた。
薄暗かった街の中に光が射し込み、一団の乗った馬たちは次々に光の中へと飛び込んでゆく。薄い膜のようなものを通り抜けたかと思うと、空気は浄化され、気づけば見晴らしのよい草原を駆けていた。
カナタは振り返った。しかしその先には、先ほどまで留まっていた街の姿はない。黒いもやのようなものが、遠ざかって行くのを感じた。
「お嬢ちゃん。呪いは初めて?」
ブロンド髪の女が、今度はカナタの馬の隣にやってくる。カナタはうなずいた。
「ええ。話では聞いていたわ。でも入ったのは初めて」
カナタは西の言葉に併せて、エル語で返事をした。
「あなたとあの坊やは、旅のともなの?」
「そんなところ」
「子供たちだけで大変だったでしょ。それにしても、あの街で何をしていたの?」
「気づいたら眠っていたみたい。山を越えて、安全な街だと思って目指していたのに――」
「水を飲んじゃったってわけね。無理もないわ」
「お姉さんたちは、あの街のこと知っているの?」
「ええ、もちろん。この場所は、いまから三百年前に呪いがかかったの。どうしてか分かる?」
カナタがうなずく。
「鬼の角が落ちたから」
「そうよ。それ以来、呪いは街の中でずっと繰り返されている。あの
「話を聞きたかったわ。あの子、少しだけ私の言葉が通じていたのに」
ブロンド髪の女が「うそ」と小さくつぶやいた。
「話が出来ると?」
「たぶん出来るわ。あの
黙って聞いていたブロンド髪の女が、おもむろに口を開いた。
「あなた夢を見たのね? あの街で」
「見たわ」
カナタがうなずく。
するとブロンド髪の女は、次の言葉を投げかけるわけでもなく、ただこちらの目を、じっと観察してくる。
「きれいな瞳ね。赤い瞳」
カナタはまじまじと見つめられて、思わず目をそらした。目の前の女性は、安っぽい麻のドレスを破いて身体に巻き付けているが、農民の出身でないことは雰囲気で分かった。美しく、気品のある女性だった。
「私の名前はティナ・リェンシェン。王家の血を引く女よ。と言っても没落した一族の娘だけどね。街に着いたら仲良くしましょ」
ティナは去り際にウインクをすると、カナタたちの乗る馬から離れて行った。
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