2章 少年の瞳に意志が宿る、そのとき
11話 老いぼれ
狭い通りの両脇に露店が並び、朝の道行く人々で町はひしめいている。蜂蜜酒の入った小瓶を陳列する屋台の向かいに、薪と鉱石を並べる店があり、二つの店に挟まれる形で、ひっそりとわき道が伸びていた。
頭巾を被り顔を伏せ、通りを歩くカナタの目に留まったのは、わき道の先で人間の子供たちが三人ほど集まり、なにかをしている様子だった。観察するところ、どうやら樽の中にラットを押込み、体罰を与えているらしい。頭から樽を被せ、はみ出した両足を一人の少年が馬乗りになり抑え込んでいる。別の二人の子供らが樽を踏んだり蹴ったりしていた。
状況を察したカナタは、わき道へと入ると即座に彼らに声をかけた。
「ねえ君たち。そのラットは靴を履いているわ。主人が居るの。放してあげて」
一人の少年がこちらを見る。
「ネズミがパンをかじったんだ。俺たちの」
「お腹が空いていたのよ」
「俺たちだって同じだ」
別の少年が言った。少年たちの様子を伺うと、三人ともみすぼらしい服を着て、貧相な体つきをしていた。
「パンならここにあるけど」
カナタが裾から一切れのパンの入った袋を取り出す。
少年たちの眼がそちらに注がれた。
「くれるの?」
「ええ、そのラットを解放したらね」
少年たちは互いに目配せをすると、カナタの手からパンをかすめ取り、仲良さそうに通りの方へと走り去って行った。
「姫様」
耳慣れた声が届く。
「おお、やはりその声。姫様ですな」
振り返った先にいたのは、見知ったラット族だった。
「ロズワルド」
「おお、懐かしい。大きくなられましたな」
「なぜここに?」
カナタは驚きとともに、鼻を押さえた。樽から這い出したラットの身から、強烈な悪臭が放たれている。
ロズワルドの足下に一匹のネズミが寄ってくる。その顎もとを優しくさすりながら、ロズワルドがつぶやいた。
「いや良かった。危うく同胞が罠にはめられ、駆除されるところでした」
ネズミはロズワルドの元を離れ、道の向こう側へと姿を消した。去り際に一度だけ振り返り、頭を下げたように見えた。
「ねえロズワルド。あなたここでなにしているの?」
カナタが問う。振り向いたロズワルドが、カナタの胸ほどの高さから、こちらを見上げる形で返事をした。
「なにをしているですと? 姫様。あなたを追いかけてきたに決まっとるでしょう」
「あなた隠居したはずよ」
「いやはや、実に三年ぶりに走りましたぞ。なんせ姫様がお屋敷から姿を消したと聞きましてな。騎士の儀の前日に逃げ出すなぞ、とんだおてんば者ですな」
ロズワルドの身なりは屋敷にいた頃と比べ、随分と変わっていた。正装の上着を羽織っていない。上体は裸のまま、膝丈ほどにまくり上げられたリネン生地のズボンを履いている。薄皮の靴はラット族に特有の走りやすい型だ。
鼻先から頬にかけ伸びていたふさふさの毛は、色が抜け落ち白くなり、長く伸びてはいたが、量は減っていた。
「お元気そうで安心しました。大事なかったですかな」
かつての従者が一礼する。カナタはうなずいて答えた。
「大丈夫よ。私はほらこの通り。あなたは見ないうちに、老け込んだのね」
「ははは。屋敷を離れ五年は経ちますかな。姫様は大きくなられた」
「こんな南の町まで追いかけてきたの?」
「ですとも。この町から東へ山三つほど越えたところがわしの故郷じゃ。わしはその故郷でのんびり余生を過ごし取った。そしたら、どうじゃ。ネズミたちがあなたの情報を運んできおった。姫が逃げたとな」
ラットの一族とネズミたちは、大陸上の出来事を驚くほど早く伝達する。
ロズワルドは母レイラに仕えていた伝書係でもあった。
「あなたが一度、港町へ立ち寄ったことも聞いとる」
「お見通しなのね」
カナタは、少し言いづらそうに答えた。
ロズワルドが思い出したようにきびすを返し、樽の近くに転がる剣を拾い上げる。鞘から伸びる二本の革紐を肩の後ろに回して、裸体の背中に剣を背負い込む。ヘソの辺りで紐をキツく結んだ。
「いやはや、旅の挨拶はこのくらいにして、ささ、参りますかの」
と促した。
「わしが来たからには大船に乗った気でいてくだされ。騎士が不在のいま、必ずやあなたをお守りしましょう」
「ロズワルド。あの、尋ねにくいことなんだけど、やっぱり付いて来るの?」
「ですとも。ついて行かない道理がない」
「あなた私のこと、叔父様に報告する気でしょ」
ロズワルドが大仰に首を振った。
「いえいえいえ、そんなこと、しようはずがありません」
「嘘よ。じゃあどうして探しにきたの?」
「だから先ほども申したように、わしを旅のお供に加えてもらおうと思ってですな」
「先ほども申してないわ。初耳よ。なにが目的なの?」
カナタが警戒心を露わにした。
お屋敷を抜け出したことが知れ渡ったのなら、いま頃、多くの者が自らを血眼になって捜索しているはずだ。叔父のことだ、すぐにアルカナハトの王都に協力を仰いだに違いない。国兵らが至るところで目を光らせていても不思議ではなかった。
「純粋な本心です」
ロズワルドが訴える。
「わしが仕えていたのはレイラ様と、その娘であるカナタ様、あなたなのです。隠居した身ではありますが、かつての主君が旅に出たのなら、お供するのが従者の役目。それ以外に目的などありませぬ」
ロズワルドがおぼつかない足取りで前に歩み寄る。そしてカナタの手を握った。その手は、骨と皮だけで出来ているように思えるほどか細く、皺の数も昔と比べて随分と増えていた。
「こんな老いた身体で旅をするなんて無茶よ」
カナタが手を振り払う。
「そんなこと言うてくれるな。わしもまだやれる。カナタ様をお守りします」
「大人しく故郷へ帰ってちょうだい。ロズワルド、あなたは守られる側の種族よ。力も弱い。さっきも人間の子供相手に痛めつけられていたじゃない。私が助けなかったら、どうするつもりだったの?」
「なに、あれくらいどうってこと。子供らに踏まれるなぞ慣れっこじゃい」
「それに、あなた臭いわ。一緒に歩きたくない」
カナタが鼻を押さえて一歩、距離を取る。
「ははは。この口の悪さ。母君に似ておる」
「ひどい臭い」
「そりゃドブ川を渡ってきたんです。獣道をかき分け一目散にこの町へ降りてきたら、悪臭だって放つというもの」
頬に付着している泥を、指で拭う。
「わしも昔はやんちゃしたもんです。何万という里を越えてきた。老いたとはいえ、まだまだ現役ですぞ。わしの剣技はな、かつて赤いドラゴンに傷を負わせたほどよ」
ロズワルドが背中の剣を引き抜いた。剣先が震えている。重そうな剣を下方から上方へと振り上げて一太刀。ロズワルドの身体が剣に引っ張られ、剣の軌道はロズワルドの頭上を通過し、背中に回り込み、仰け反るような姿勢で背後の床に突き刺さった。ロズワルドの背骨がぼきりと音を立てた。
「んおおぅ。腰が」
ロズワルドが転倒する。
「ほら、だから言ったじゃない」
カナタが駆け寄る。
「大人しく帰るの。そんな身体で着いてくるなんて無茶よ」
「いや駄目です。わしが行かねば誰が姫様を守るんじゃ」
「心配いらないわ。あのね、心強い味方ができたの」
「味方ですと? どこの馬の骨だ。カナタ様をたぶらかしおって」
「馬の骨じゃないわ。あなたは自分の背中の骨を心配して。味方っていうのはね、
「なんと」
ロズワルドが目を見開く。
「あの孤高の一族か」
「そんなに驚かなくても。名前はルイ君っていうの。私よりちょっと小さいけど、頼りになるわ。だからロズワルド、残念だけどあなたの出番はないの」
ロズワルドが腰を庇いながら身を起こした。
「どれ、わしがその狼を見てやろうかの。姫様が認めた男とな。だがしかし、わしの眼はごまかせんぞ。この大陸であらゆる種族あらゆる階級の者を見てきた。わしの眼に嘘は通用せん」
「なにを言ってるの?」
カナタの眉間にしわが寄る。身体が老いただけでなく、頭までぼけたに違いない。話がかみ合わない。
「カナタ様。あなたは世間を知らん」
ロズワルドが真面目な声音で言った。
「もう二十年前になる。西の大戦が悲壮を極め、誰が勝者かも分からんまま争いはうやむやに終わった。その後、大きな戦争もなく、この国も仮初めの平和を享受しておる。あなたはその間に生まれ、安全な屋敷の中で育った。よいですかな、世間には狡猾な者が山ほどおります。あなたが歩けば危険は向こうから寄ってくる。処世術がなければ、ころっと騙されるのが目に見えとる」
「そんなことないわよ」
カナタは声を少し荒げた。
「姫様はどうも母君に似て、見る目がなかったからの。わしの目の外で旅をさせるなぞ心配でならんわ」
「大きなお世話。老いぼれに守ってもらうほど困ってないわ」
「はは、言うの。わしの剣技を見たら、きっと驚くぞ」
ロズワルドがまた剣を握り、再び構えた。
「わしの剣技はな、かつて赤いドラゴンに傷を負わせたほどよ」
「駄目、ロズワルド。それはさっき見たわ」
カナタが慌ててロズワルドの手を抑える。
「そうだったかの」
と首をかしげるロズワルド。
やはり老いがだいぶ進んでいる。連れて行くなど無理があった。
「ねえ、ロズワルド。この剣、見たことあるわ」
「お気付きかな。そうじゃ、あなたの父君が残した剣ですぞ。名をエヴァンと言う」
叔父の部屋で見た記憶のある柄の模様。それは魔女を追い払うために作られた剣だった。
「わしが隠居する際、無理を言ってレオからもらったものじゃ」
「叔父様から? ちょっと見せてもらっていいかしら」
「戦士の剣を見たいと? ほほう、普通はおいそれと見せたりはせぬ。しかし
カナタはロズワルドの手から剣を受け取ると、柄の模様をまじまじと見つめる素振りを見せた。しかし実のところ興味が持てなかったため、すぐさま道の脇に並ぶ大きめの樽の中に、それを放り込んだ。
「なにをするっ!」
怒りの声を上げるロズワルド。
「とんでもない。なに考えとる」
と愕然としつつも、樽の元へと駆け寄り、慌てて剣の入っている樽の中へと身を投じた。小さな身体がすっぽりと樽の中に納まる。カナタは流れるような身のこなしで樽に蓋を被せた。隣にあった大きめの石を抱えて、その上にどんと置く。
「こら! 姫様、冗談は止めなされ」
「ロズワルド、ごめんね。でもやっぱりあなたを連れて行くことは出来ない」
「あたたた、また腰が……」
「あなたにもしお願いできるなら、私の屋敷の召使いたちに伝えてちょうだい。私は元気だって。そうだ、ニーアって女の子が居るの。私の部屋のお世話係り。彼女にならルイ君のこと話してもいいわ。でも叔父に私の居場所を教えたら、許さないから」
「なにを勝手な。まずここから出せい」
ロズワルドが樽の中で喚く。カナタは樽からゆっくりと距離を取った。
町の人々の喧噪に紛れ、誰かがカナタを呼ぶ声がする。通りの方へ目をやると、見知った姿の少年が、こちらに視線を送っていた。
「ルイ君」
カナタはそのまま走り出した。
合流したところで、ルイが低い声で言った。
「こんなところにいたんだ。なにしてたの」
「ネズミを助けてた」
「へえ。なんでもいいけど」
「ルイ君はどう? ちゃんと欲しいものは見つかった?」
「一応は」
短く返答がある。ルイが懐から取り出したのは、革の鞘に収まっている
「あの、カナタに謝らないと」
「どうして?」
「もらったお金、全部使っちゃった。ごめん。ただ山を越えるならこれは必要だと思うんだ」
「構わないわ。必要な物は揃えて置かないと。私もその意見に賛成よ」
「せっかくいい靴を売ったのに」
「あの靴、飽きてたところなの。いまの靴は足の裏がちょっと痛いけど、履ければなんでもいいわ。もしかして、食料も買えなかったの?」
「それは買ったよ」
ルイが腰に下げている巾着を持ち上げた。
「ああ、良かった。それなら、なんとかなりそう。他に売る物はないから、これで私たち文無しコンビね」
無性におかしくなって、笑みがこぼれた。
きっと、ひとりだったら心細かったに違いない。一緒に旅をしてくれる仲間がいることが、こんなにも心強いのだ。
「どれくらい、その中にあるの?」
カナタがちょっと小声になり、巾着を指さした。
ルイが巾着の口を開いて中を見せてくれる。木の実と、小さく千切られた乾燥パンが、そこそこ詰まっていた。
「少し多めに調達したんだ。水筒もあるよ」
ルイが腰をひねると、ベルトに括り付ける形で、革製の水筒がぶら下がっていた。
国境沿いの山々を越えるには丸四日はかかる。夜はあまり移動が出来ないことから、日中絶えず歩き続けての計算だ。町にいる商人たちから情報を聞いても同様の答えが得られた。
「カナタは持ってないの? 何を買ったの?」
ルイに質問され、カナタは思わず視線を逸らしてしまった。言いにくいことがあった。実は、ちょっとした失敗を犯してしまったのだ。
「パンを二個買ったの」
「うん。他は?」
「それだけ。なくなっちゃった」
「え、どうして?」
ルイが大きな目をぱちぱちさせながら尋ねてくる。
非常に申し訳ない気持ちで、いっぱいになった。
「カナタが持っていたお金なら、もっと買えるよ」
「そう思う。ルイ君のその袋の中を見て、気付いちゃった」
パン二つがそんなに高いわけなかった。カナタは相場を知らなかった。つまりカモにされたのだ。
「その買ったパンはどうしたの?」
「一つは食べた。残りは子供たちにあげちゃった」
ルイが閉口する。呆れを通り越して、別の生物を見るような目でこちらを見つめてくる。理解が及ばないと言いたげに。
「足りるかな?」
「僕の食料を当てにされても、ちょっと厳しいよ。でも森なら食料は現地で調達できるだろうから、四日くらいなら何とかするよ」
ルイのその言葉で、カナタは心底、安心した。
「ありがとうルイ君。さすが世界を旅している一族。心強くて泣きそう」
「あまり誉められても嬉しくないよ」
複雑そうな顔になるルイ。
「ところでさ、一ついい? じゃあ、その本は?」
腰に下げている本を見つけ、ルイが指差した。
「それは買ったの?」
「違うわ。これは安物だからって優しい商人から譲ってもらったの。ほら、雨に濡れてもう読めなくなってる」
木の表紙を開くと、所々が破れている紙の表面に、黒インクの文字がひどく滲み出ていた。カナタが屋敷から持ち出した羊皮紙の本とは違って、町にある本は文字が読めないと価値はないと商人が話していた。豪華な装飾も施されていない。カナタが持ってきた本はトルテナの港町で捕まった時に奪われてしまった。
「これじゃ読めないよ」
とルイがつぶやいた。
「いいのよ。私は本ならいいの。なにも書いてなくても、大丈夫」
「ふーん。僕にはなにが読めるのか、さっぱりだ」
「ねぇ、ルイ君。その袋わたしが持つわ」
ルイの腰にぶら下がっている巾着袋を受け取る。
「わたしが荷物を持つから、ルイくんはその剣で戦う役。あと、お金の管理はルイ君が以後、全部やって」
「別に構わないけど。国境を越えるまでだよ。僕が同行するのは」
カナタは返事をせず、無言で眉をひそめた。
「国境を越えた先にイェシアっていう小さめの町があるんだって。そこが目的地でいいよね」
食料の詰まっている巾着の中から、一枚の地図を取り出し、ルイが説明を加える。
「ルイ君は行ったことあるの?」
「ないよ。ただ、あまりいい話を聞かない。イール王国は昔から紛争が耐えないんだ」
「史学なら私も習ったわ。エン族っていう先住民が居る国でしょ。ところでルイ君、足はもう大丈夫なの?」
カナタが思い出したようにルイの足を見た。
「これくらいすぐ治るよ」
ルイの足から腫れが引いていた。恐ろしい回復力だ。川から這い上がったときは、あんなに腫れ上がっていたのに。
「じゃあ揃える物は揃えたことだし、早く出発しましょう」
ふたりは間もなく南の町オービを後にした。
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