西へ東へ

森山 満穂

   

 サイレンが、どこか遠くで鳴っている。


 薄暗いリビングに荒い呼吸音がひとつ、溶け込みきれずに息づいていた。そこに立ち尽くしていた男が、ふと、一歩身を引く。そして、俯瞰するように周囲を睨め回した。

 壁には弁柄色べんがらいろ蘇枋すおう、それに臙脂えんじ。僅かなグラデーションを描きながら、床に近付くにつれて色彩が鮮やかになっていく。ソファには朱色が波打ち、カーペットには緋色ひいろのドット。オールドローズやガーネットもいいけど、足元に横たわるその人の皺ひとつないシャツにはスカーレットの鮮やかさが似合っている。その色を生み出している鴇色ときいろの心臓を想像すると、からだの内に痛みにも似た感覚が過るのを、男は感じていた。熱がしずかに膨張して、鼓動とともに震えが駆け巡る。影に覆われ俯けた顔が瞬間、鋭利に微笑んだ。最高だ。今までで一番、良い色が描けた。忙しなく視線を動かして、その光景を、色を、焼き付けるように目を凝らす。

 その時、視線を感じて、男はソファの方に目をやった。背もたれの裏側に回り込むと、そこには頭部が破けたくまのぬいぐるみを抱えた少女が大人しく座っていた。表情が削ぎ落とされた顔を一切動かさず、大きな両目でただ男を見つめている。なによりも深い、大きく底知れない闇を呑み込んだ瞳。そこに様々な赤が交錯して、闇のなかに浮かんだり、溶け込んだりする。その様子を見て、男は美しい、と思った。もっと近くで見つめたい、とも。


『おいで』


 通りすぎていく外光を受けて、差し伸べた手のひらに濡れた赤が剥き出す。少女は音もなく、そこに小さな手を伸ばした。黒と赤が混沌とするその瞳孔にゆっくりと男の顔が映り込む。目は見開いたまま瞬きひとつせず、恍惚とした表情を男は浮かべていた。その頬を染める紅色が乾いて変色していく。途端、輪郭があいまいになって、すべてが揺らいで、最後は深紅に埋め尽くされた。



   *




 ひやりと、はだにつめたさが触れた。そうしてトリガーを引かれた意識が、現実に集束する。まず目に飛び込んできた清潔な色は、そこがホテルの一室であろうことを物語っていた。全体的にやわらかな、白やベージュを貴重とした家具が整然と並む部屋。僕はそのひとつの、ベッドの端に腰掛けて、ぼおっと景色を眺めていた。すると視界の端に手袋をした彼女が立っていた。フローリングの床にコロコロを何度も掛け、テーブルを縁に至るまで入念に拭き、備品の位置をこまかく調節している。視界からはけていったかと思うと、洗面所の方から排水口掃除用洗剤を持って戻ってきて、他の道具や手袋とともに鞄の中に仕舞った。そしてまた視界から消えると、ひやりと、つめたい感覚が手のひらを包む。近くで僕の名前を呼ぶ声が聞こえて、視線を落とす。すると、彼女が僕の前にしゃがんで、手を取っていた。幼い頃から変わらない、黒目がちな大きな瞳がじっとこちらを見つめている。

「もう行かなきゃ」

 んだ声とともに、ひやりと、またつめたさが手のひらを覆う。うん、とぼんやりしたまま答えた後、あ、と思う。仰ぎ見られたその眼差しを、しずかに見つめ返す。無表情なものの、虹彩には覚悟をたたえた光が窺える。だがその奥に、僅かながらに哀しみの色が膜を張っているのがわかった。ああ、またやってしまった。口紅が塗られたかたちのいい唇は、引き結んではいるが、端がかすかに震えている。からだを巡る血流の速さに、体温の高さに、強く確信を得る。僕はまたーー。脳裏に鮮やかな赤が広がっていこうする。途端、視界の上半分が急に塞がれた。頭部に違和感を覚えて、キャップを目深に被らされたのだとすぐにわかった。そのまま髪の毛を慣れた手つきで内側に入れ込まれる。時折耳に触れる指はやはりつめたくて、弄ばれる度、すこし冷静な思考回路が戻ってくるような気がした。事を終えた後、放心している僕を、彼女はこうしていつも甲斐甲斐しく世話してくれる。だけど僕はーー。

 体が離れ、彼女は僕の周りを念入りに見渡し確認してから、よし、と小さく口にする。

「行こう」

 引っ張られた二の腕だけが上がって、肘から下はぶらんと宙に垂れ下がる。立ち上がらない僕を見て、彼女はまた僕の前にしゃがみ込んだ。

「まだつらい?」

 額にひやりと手のひらが触れる。微熱のようなだるさが少しばかり和らいで、心地がいい。けれど、その健気さに胸が痛む。手を外され、顔を覗かれたけれど、面と向かって目を合わせることは憚られ、思わず視線を反らした。包まれた手には、つめたさがちっとも満ちていかない。彼女が冷え性なわけではなく、僕の体温が異常に高いのだ。を、してしまったから。彼女のためにもうしないと決めたのに。身勝手な衝動に駆られて僕はいつも、彼女を裏切り続けている。

「ごめん」

 落とした言葉に、ぴくりと、彼女の指先がかすかに反応する。一度力が弛緩したのも束の間、またぎゅっと強く手を握られる。つめたさが、ゆるやかに手に馴染む。

「大丈夫。私は、ずっとそばにいる」

 だいじょうぶ、縋るような力で手を握りながら、彼女はその言葉を繰り返しつぶやいた。だいじょうぶ、その響きは僕に言っているよりも、自分に言い聞かせているように聞こえた。もう、いい。僕の歪な衝動を、君は許さなくていい。そう思うのに、言葉は口からまろび出ない。この手を、振りほどけない。

「行こう」

 彼女が立ち上がり、僕の手を引く。今度は素直に従って立ち上がると、ぐらりと目眩がした。歪んだ世界が少しだけ生み出て、またすぐに戻る。僕の座っていたところに彼女は丁寧にコロコロを掛けて、もう一度手袋をはめてシーツの皺を整える。その後ろで、僕はもう一度室内を顧みた。部屋は、僕たちが入った時となんら変わらない清潔さを保っている。まるで最初から誰もいなかったみたいに。痕跡ひとつ残さないで。



 受付に鍵を戻して、彼女はてきぱきとチェックアウトの手続きをしている。僕はその半歩後ろで目深に帽子を被り直しながら、ぼんやりとロビーの様子を眺めていた。客の入りが多い時間だからか妙に混雑していて、順番を待つ客たちは新聞を読んだり、携帯電話をいじったりとそれぞれ思い思いに時間を潰しているようだった。忙しなく流動する人の中で、誰かのスマートフォンから微かにニュース番組の音声が聞こえる。

「昨夜未明、新宿東町のビルで男性が刃物で刺されて死亡しているのが発見されました。現場は床や壁に至るまで血塗れで……」

 そこに一人、ふくよかな体にスーツを纏った男性が、ソファに腰掛けてパソコンをいじっていた。膨れた指を動かすと、手の甲に浮かんだ血管がうねりを上げて波打つ。白いシャツの首筋から肉がはみ出している。そこここに、あの色の気配を感じる。あの人は、きっといい色が出そうだ。火種が、内側でそっと灯る。収まりかけていた熱が、燃え広がって脈を伝う。あの色が、喉から手が出るほど欲しくなる。渇きを覚え始めたその瞬間、つ、とつめたさが手のひらに触れた。彼女の手が、吸いつくように自然と僕の手を握っている。振り向くと、こちらを真っ直ぐに見つめる彼女に釘付けになる。大きな両目の虹彩に、強い茜色の光が宿っていた。暴力的な鮮やかさなのに、じっと見ているとやわらかに温かみが浮かび上がってくる。なにもかもを優しく包み込んでくれるようでも、灼き尽くすようでもある、赤。その色はもう、僕の手の中にある。衝動が、体の中枢でゆたりと満たされていく。彼女は手を固く握ったまま、エントランスへ向かって歩き出した。一歩踏み出す度、僕の中で溶けかけた理性は確実に形を取り戻していく。

 いつまで続けられるだろう。心の中でつぶやきながら、繋がれた手のつめたさを思う。僕は異常だ。でも彼女はまだ、正しさを保っている。完全に熱に犯してしまう前にこの手を離せば、きっとまだ戻れる。だけど。しずかにその手を握り返す。

 もう少し、この手を離さないでいてほしい。


 サイレンの音は、まだ遠くで鳴っている。

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