ノア

波伐

第1話 アリヤは走っていた

 人類は空にいる。私たちは旧人類、古い世代の人間である。


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 千年後には、地上は全て海におおわれることでしょう。我々人類が生き延びるためには、いわばノアの方舟が必要なのです。……現在、テスターを募集中! 応募者は、現在計画されている方舟(仮名)への搭乗権利を得られる可能性が高くなります。ご応募はお早めに。


 ―――ずっと先の、未来のために。明日への翼を創造する、アスカ株式会社の提供でお送りしました。CMの後は、ニュースです。


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 アリヤは走っていた。日差しがやけに暑い。汗の玉が耳の後ろから滑り落ちていく。肩まで伸びた髪を振り乱して、立ち入り禁止の公園、その用具入れの中を覗き込んだ。

「あった! ほんとにあった!」

 クラスメイトの噂を盗み聞きして、その情報と勘で探して、見つけてしまった。地下へ降りられる穴を。

 本来、地上に住む人間は地下へは降りられない。アリヤが授業で習ったのは、地下では機械がたくさん動いていて、野菜や果物を作っているということ。地下に食べ物があるのなら、地下でも暮らせるはずだとアリヤは信じていた。

 アリヤは逃げたかった。いつも突発的に逃げたがって、しかしそれは一時的で良かった。少しの間逃げて、アリヤ自身の気が済めばそれで良かった。何も本気で今の生活から逃げる気は無かったのだ。

 古賀こがアリヤ。十五歳。古賀家の一人娘。古賀家はBクラスの、いわば健康優良民だった。学校へ通うことが可能で、職業もおおよそは好きに決められる。ただし、二十四歳までに候補の男性のうち一人を選んで子供を産み、その子が次の子孫を産むまで育てなければならない。

 アリヤは三歳の時、地上で暮らすためのいくつかの決まりを役所の人間から聞かされた。当時のアリヤは不安になり母親を見上げた。母親は小さな声で「頷くか、ハイと言えばいいの」と囁いた。アリヤが「ハイッ!」と元気よく返事をすると、役所の人は笑みを浮かべて「ありがとうございます。では古賀アリヤさんの搭乗を許可します。ようこそノアへ。ここは人類のための地上の楽園。ここで貴方は幸福な未来を歩むことが出来ます」と、決まった文句を口にした。それからは両親と共に書類関係の手続きをし、アリヤは地上で生きる許可を得たのだった。

 ノアは、多くの国、多くの企業が提携して作り上げた、ノアの方舟そのものだった。

 まだ人類が海に対して肯定的だった時代のとある日、有識者たちは決断した。いずれ陸地は失われ、全て海に呑まれてしまう、その前に人類は空へ行かなければならないと。宇宙へ出るには時間がかかりすぎる。人類全員を乗せられる宇宙船など作れるわけがない。当時の技術では到底無理だった。であるならば、何も地球から出る必要はない。空に住めばいい。海から逃れられさえすれば。そして、陸地が失われるまで残り三百年と差し迫っていた頃に、“ノア”は完成した。そうして人類は一つ上のステージへと上がることになる。空に浮かぶ新たな地上を作り上げ、移住したのだ。

 しかし問題があった。ノアでは農作が上手くいかなかったのだ。太陽に近く、空気も薄い空中では、作物が満足に育たない。人類全体を賄うにはあまりにお粗末だった。そこで人類は、陸地で作った作物を地上へ持ち上げることにした。陸地では機械が適切に作物を作っている。何故なら人類は全て、新たな地上、ノアに搭乗しているからだ。

 陸地は本来ならとっくに失われているはずだが、移り住んで六百年経った現在(三七四一年)も、三一〇〇年の観測時とあまり変わっていない。時折、天気のいい日は下に陸地の姿を垣間見ることが出来る。アリヤは、突発的に逃げ出したくなった時、いつも陸地を見下ろしていた。人々が地下と呼ぶそこは、どんな世界なのか、アリヤは興味があった。いつも夢見ていた。人がみ嫌う海も、アリヤにとっては夢想の産物でしかない。

「本当に、地下に行けるのかな」

 アリヤは自分に話しかける。「地下に行って、帰ってこられなくなったらどうする?」「でも、ここにいて、私はどうしたいんだろう」

 アリヤは自分の未来に不安があった。ノアに、地上にいれば誰しも幸福な未来が約束されているはずなのに。授業で習ったような、大昔の飢餓きがや災害などからも無縁の暮らしだ。しかし本当に、飢えで苦しんで死んだり、地面が揺れたくらいで死ぬことがあるのだろうか。アリヤは、大昔の伝説染みた話の全てを信用出来なくなっていた。大人は正しいのか、世界は正しいのか、ノアは正しいのか。自分は、自分の意思で生きているのか。まるで自分だけが世界の真理に気付いたような心持ちで、アリヤはいつも一人空想にふけっていた。本当は、地下の世界の方が素晴らしい楽園なのかもしれないと。

 底の見えない穴を前に、アリヤは深呼吸をした。

「や、やっぱやめよう。うん。もし帰れなくなったらお母さん心配するし」

 そう決めたら心が楽になった。アリヤは首筋を袖で拭って、足を引いた。途端、

「誰だ! ここは立ち入り禁止だぞ!」

「やばっ!」

 後ろから怒鳴られ、アリヤは焦って逆方向へ逃げようと足を踏み出した。そこに地は無い。

「あっ、う、うそ!?」

 がくんと体が下がる。一瞬藻掻もがいた手はどこにも届かず、アリヤの小さな体は、小さな穴の中へと落ちた。

「あああああ! あああ! あああ嫌だあああ! 誰かああ!」

 真っ暗な穴の中を右へ左へ滑りながら、アリヤは叫ぶ。壁に指を引っかけようとするも、つるつるしていて、摩擦で指が痛くなっただけだった。

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