まだ恋とも言えないささやかな日常を切り取って

国見 紀行

その感情の名前はまだない

 七時五分。

 朝のホームルームが始まる一時間二十五分前。

 学校が開き、運動部の朝練が始まって三十分ほど過ぎたあたり。

 誰もいない教室。

 私だけの時間。

 自分の席に座り、本を開く。

 いつも読んでいる、恋愛小説。

 ふとしたことで知り合ったクラスメイトと、恋に落ちる話だ。

 たくさんの男女が存在する世界から切り取られたかのように、同世代ばかりが集められて勉強をする空間、学校。

 奇跡のようなタイミングで生まれた私たちが、何をきっかけにお互いを意識するようになるかなんて、結構中途半端で些細なことが多い。

 手が触れた。

 目が合った。

 声が心地いい。

 ふとした心遣い。

 笑顔。

 趣味、好み。

 ……同じ名前。

 気になると、ずっと目で追ってしまう。

 今何をしている?

 誰と話をしている?

 食べ物は何が好き? 何が嫌い?

 服の、靴のサイズは?

 どんな曲を聞くの?

 そんな、学生にありがちな恋の話を、自分に重ねながら読む。

 周りには誰もいない。

 私だけがこの小説を読んでいる。

 キャストは、クラスメイト。

 知らないところで誰かが誰かに恋に落ち、思いが叶ったり、届かなかったり。

 私は傍観者だ。

 小説の読者と言う視点から、たくさんのカップルの誕生を見届け、繋がり続けたり別れたりを繰り返す世界を、その平行世界から覗き見る。

 一緒に登校して、ご飯を食べて、勉強して、一緒に帰って…… また翌朝一緒に登校する。

 くだらない毎日が、輝く一日へ変わる。

 見るものすべてが美しく、またその感覚を共有できる素晴らしさに。

 そこから命の尊ささえも感じるほどに。

 私は、その感覚が滑稽で。

 他人が他人を好きになること自体を否定するわけではない。

 異性だから、同性だから、他人だから、いわゆるライクが生まれるのは分かる。

 しかし、ライクを超えた感情が今までの感性を超えたものへと変化させゆく様は、未だに理解できない。

 ……しかし、今日は妙に遅いな。

 黒板の上に設置された、武骨な時計を見る。七時十六分。

 予定の時間にはまだ数分早い。

 だが、焦る必要はない。普通の生徒が登校するまでまだ三十分以上もある。

 私はただその時を待てばいいだけ。

 誰もいないこの静かな教室で……

「お、葉山さん、おはよー。今日も早いじゃん」

 男子が一人、教室に入ってくる。

 少し小さな鞄を片手に肩にかけ、気慣れた学生服をだらしなくひっかけたようなスタイルで。

「……おはよう浜川くん。いつもより早いんじゃない?」

 二分ほど。

 いつもなら七時二十分

「そうかな? 信号がちょうど青ばっかだったからじゃね? ほら、俺遠いから自転車で来てるし」

 知ってる。

「それにしては早すぎじゃない?」

「いやいや、いつも早く来てるのは知ってるじゃん。今から俺の二度寝タイム!」

 かっ飛ばしてくるから、疲れるんだよね。

「そうやって、またホームルームで先生に起こされるまでがパターンなんだから」

 浜中くんは私の席の斜め前にある自分の席に着くと、椅子を静かに引き、鞄を机の反対側にかける。教科書などは机に入れっぱなしなので恐らく弁当箱だけの軽い鞄だ。

「通勤ラッシュに巻き込まれるのがイヤで早く家を出てるんだから、多少の睡眠時間くらいはボーナスでくれてもいいだろ?」

 浜中くんは大きなあくびをしながら椅子に座る。ぐいっと背伸びをすると、そのまま振り上げた腕で枕を作り、流れる動作で眠りについた。

「ねえ、怒られる俺をあわれと思うなら五分前に起こしェ……」

「……はーい」

 あーあ、寝てしまった。

 わざわざ三十分以上もかかる通学路を自転車で通学する浜川くん。

 それを先に来て見守る私。

 以前はこの順番は逆で、静かな教室で本を読む日課を、彼の寝息が邪魔をしていた。

 今は違う。

 理由はわからない。ただ、彼より早く教室に入り、彼が眠る前の僅かな会話が、何故かとても楽しみで仕方がない。

 お互い名字で呼び合う仲。

 触ったこともない。

 ほぼ目も合ったこともない。

 好きな食べ物も知らない。

 声も普通。

 結構自分の都合を押し付けてくる。

 笑顔より見る寝顔。

 趣味も知らない。

 なのに。

「……不思議」

 自然とこちらも笑顔がこぼれる。

 あの寝顔は、別に私だけが知ってるわけでは無い。

 彼が朝早くここで寝ているのも、結構知れ渡っている。

 私もそれを知ってから、数日は朝の読書をやめた時期もあった。

 だけど、何故か来てしまう。

 早朝、誰もいない時間。

 浜川くんが来るまでの僅かな時間も、浜川くんが来た後の言葉にできない不思議な空間も好きになってしまった。

 教室の外にはだれかいるかもしれない。

 けど、この教室のこの時間には私と浜川くんしかいない。

 世界から切り取られた、私たちだけの世界。

 まるで、小説のキャストのような、非日常の空間に。

 私は、彼の寝息をBGMに再び読書に戻る。

 この空間に入ると、自然と小説の解像度が上がる。

 主人公たちの心情がすっと心に入り込みやすくなり、情景がすぐ隣に浮かぶほどに鮮明になる。

 あと二十分足らず。

 この幸せな空間が続く時間。

 無限に続かないことは分かっているし、続いてはいけない。

 限りがあるから私は求める。

 だって、私は小説の登場人物ではないから。

 いつかは終わる。学生は、卒業して社会人になる。

 それまでの、切り取られた生活。

 恋もそう。ほんの一時だけの、ささやかな夢。大人になるための学習期間。

 続かないものは、さっと諦める。

 遠くから眺めるだけでちょうどいい。

「……なあ」

 目が合う。

 あれ、いつの間に本から浜川くんに視線が移ったっけ?

「本、好き?」

「え、えっと…… 結構好き」

「俺も」

 ……そうなんだ。

「いつも夜遅くまで読んでさ。それで朝起きるの辛いんだよ。で、早く出てソッコーで教室で寝る」

 意外だ。彼は本など毛ほども興味が無いと思っていた。

「浜川くんも本読むんだ」

 彼はがばっと体を起こし、こちらに上半身を向ける。

「ファンタジーばっかなんだけどさ、漫画と違ってこう、物語の世界を一から自分が描く、みたいな感覚が好きでさ!」

 弾けるような笑顔。

「ちょっとわかるかも。でも、私が読んでるのは恋愛だから」

「人の心の描写が細かいと、登場人物と世界が混ざり合う感覚、ないか?」

 ぞわっとする。

 心当たりがあるからだ。

 小説のキャストを、その横から覗き見る感覚。

 それはつまり、私自身が登場人物しょうせつのじゅうにんになったときだ。

「……ある」

「そういう小説って、少ないらしいぜ。俺も結構当たり外れあったし」

 浜川くんはいくつか小説のタイトルらしい言葉を並べる。まるでゲームのタイトルのような言葉をいくつか口にするが、もちろんそれは私にはわからない。

 ただ、彼がとても楽しそうにそれを話しているということだけは、明確に分かった。

「何か、ピンとくる小説タイトルあった?」

「ごめん、私が読むのは基本恋愛小説ばっかりだし」

 その時初めて、浜川くんがばつの悪そうな笑顔を見せた。

「ごめん。だよな、女子はファンタジーにあまり興味ないよな」

 その言葉に、私は少しムッとした。

「読んだことが無いだけ。映画とかで見たりするし、たまたま今まで触れずにいただけかもしれないわ」

 一瞬の沈黙。

「じゃあさ」

 浜川くんは鞄を漁る。そして、読み古した一冊の文庫本をこちらに差し出した。

「これ、読んでみてよ。感想聞かせて」

 どういうことだろうか。

 思考が追い付かない。

 どうして、今話していたばかりの話題の本がここに?

 どうして私に貸す話に?

 どうして?

 訳が分からず、しかし拒否するだけの理由もなく。

 私はおっかなびっくりその本を受け取った。

「あ、ありがとう」

 受け取り、タイトルを読む。……『小さな魔女と竜の王子』、か。

「ふぁあ、まだ先生来るまで時間あるし。俺もう少し寝るわ」

 どことなくわざとらしい所作で自分の机に戻る。

 ……まさかね。

 この、二人だけの空間を満喫したいと思っていたのは、どうやら私だけではなかったらしい。

 おそらく私もなるのだろう。

 私という主人公を描く、恋愛小説の登場人物に。

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