第99話 テレーザとクラリッサの行方
一方の母屋では、書斎で今日の反省会が繰り広げられていた。真ん中でうなだれているのは、この家の主人・ディランだった。
「まさか、テレーザ・パンネッラを取り逃すとは」
あの後、テレーザの部屋を調べると、クローゼットの奥に小さな隠しスペースが見つかった。棚の奥にもう一つ棚があるような単純な作りのそのスペースには、わずかな麻薬と仲介人のリストが置かれていた。
麻薬もリストも、その気になれば万一の際に数秒で処分できる量だった。部屋を見せてほしいと言ったときにテレーザが「ほんの少しお時間を」と頼んできたのはそのためなのだろう。
見つかることを前提として、いざというときは窓から投げ捨てでもしてごまかすつもりだったことは簡単に想像できたが、まさか本人が窓から飛び降りるとは誰も思わなかった。
逃げたテレーザはそのまま広い庭を突っ切って走り、塀をよじ登って敷地の外に出た。ランチェスター公爵邸は辺境の地にあるとはいえ、本邸の周辺はきちんと街になっていて辻馬車なども拾いやすい。
追いかけた従僕がやっと塀まで辿り着き、結局塀を乗り越えられずに門まで回って外に出たときにはテレーザの姿は跡形もなかった。
主人を慰めるようにクリスが口をひらく。
「テレーザがあのような行動に出るとは想像できませんでしたし、さらにあんなに足が速いなんて誰が知っていたでしょうか。経緯を知ればローレンス殿下もわかってくださるかと」
「確かに、経緯を思えばどうにもならなかった部分はある。ローレンス殿下もエイヴリルが離れに潜入していなければ証拠を掴めなかったと思うだろう。……しかし、実際に彼女は逃げている。これだけが事実だ」
「ディラン様……」
「とにかく、この街にはテレーザを指名手配した。明日には周辺の地域まで捜索の手を広げる。私も出る」
「…………」
一方のエイヴリルは二人の会話を神妙な顔で聞いていた。
(ローレンス殿下がディラン様にこの件を依頼したのは、ランチェスター公爵家に関わる問題だとしてもきちんとした判断ができると信頼していたからこそです。テレーザ様が逃げおおせてしまったのは、不幸な条件が重なってしまったことが原因ではありますが……ご自分にも厳格でいらっしゃるディラン様は、それを理由として開き直るようなことはできないのでしょう)
そうして、切り出した。
「私もディラン様の意見には賛成ですが、ローレンス殿下が潜ませたもう一つの意図も汲むべきではと思います。ローレンス殿下はランチェスター公爵家の『愛人たちが暮らす離れ』の解体の手助けをしてくださったのですよね」
「……エイヴリルは気がついていたのか」
「はい。麻薬取引への関与を疑われたことを口実にすれば、手っ取り早いですものね」
ローレンスはディランのことを弟のように大切にしている。ディランのトラウマのもととなった『すきものの老いぼれクソじじい』の離れをなくすために心を砕いているのはエイヴリルから見ても明らかだった。
王都のタウンハウスの書斎には、家庭教師など淑女への求人や新たな奉公先、修道院についてまとめた資料があった。ディランが直接手を下さなくても、前公爵の年齢を考えればいつかは愛人用の離れが必要なくなるのは目に見えている。
ディランは水面下でずっとその準備を進めていたのだろう。
「……準備はできています。テレーザ様の捕獲はローレンス殿下に助けていただいて、ディラン様はこれまでずっと心を砕いてきた『前公爵様の離れ』をなくす方向に動かれては、と」
「確かにそうなのかもしれないな」
「それに、私は本当のクラリッサさんがどこへ行ってしまったのかがとても気になるのです」
そう告げれば、ディランは頷いて書斎の机の引き出しの中から一枚の書類を取り出した。経歴書にように見えるそれを、ディランは読み上げる。
「クラリッサ・リミントン。没落したリミントン子爵家の三番目の娘で、頼みこまれて離れの使用人として雇うことに決めたそうだ。ついでに、リミントン家には数ヶ月分の給金を前払いしているらしい」
「ディラン様も気にかけられていたのですね」
「ああ。だが、雇うことにした張本人の前公爵は、クラリッサが到着する日すら知らなかったようだ。愛人として囲うつもりではなかったのだろう」
「なるほど……」
(ですが、ここでの使用人の皆様のお話を聞いていると……前公爵さまへの噂から、クラリッサさんが身の危険を感じていてもおかしくありません)
離宮の洗濯メイドとして潜入していたエイヴリルは、何度も『大旦那様のお気に入り』になって愛人に昇格すればさらに楽な暮らしができる、と聞かされていた。
実際に、離れで暮らす愛人のうちの数人はそういう経緯で今の地位を手にしたというのだから、本当のことなのだろう。
黙り込んでしまったエイヴリルだったが、ディランも同じことを考えているようだ。
「好色家の老いぼれ公爵の目に留まってしまうかもしれない場所で働くのは、彼女にとっても恐ろしいことだと思う。だから、彼女が到着せず代わりにエイヴリルがクラリッサだと勘違いされていることを知っても特に訂正はしなかった。――本人が自分から消えたのであればな」
「ええ」
(本当にそうだったらいいのですが……)
リミントン子爵家に関しては、散財や事業の失敗など悪い噂を聞いたことがない。つまりそれなりに堅実な家柄のはずだ。
そんな家で育った令嬢が、事前に給金を受け取っておきながら約束を反故にしたりするだろうか。
なんとなく、胸騒ぎがした。
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