第91話 二人の夜③

 翌朝。エイヴリルはどさっ、と何かが落ちた音で目を覚ました。カーテンの隙間からは朝日が差し込んでいて、夜が明けたのだとわかる。


(眩しい……朝ですね。今の音はなんでしょうか?)


 起き上がって伸びをしてみると、大きなベッドの上にエイヴリルは一人きりだった。


(あら? ディラン様がいらっしゃらない……)


 ディランが寝ていたはずの場所を触れば、まだしっかり温かい。


「つまりディラン様はまだベッドを出られたばかりだと」

「……そうだ」

「!?」


 ベッドの脇から声がしたので覗いてみると、そこにはディランがいた。どうやら、目覚めた時の『ドサッ』という音はディランがベッドから落ちた音のようである。


「??? ディラン様、お怪我は。どなたか人をお呼びしますのでお待ちくださいませ」

「……必要ない」


 ほんの少し頬を染めたディランは立ち上がり頭を緩く振った。そうして、こめかみを押さえたまま聞いてくる。


「俺は昨夜ここで寝たのか? 信じられないな……申し訳ない」

「いえいえ、このベッドはとても大きいですから大丈夫なのです。ほら、このとおり」


 ごろんごろんと横に転がってみせる。感覚では10回ほどは転がれた気がするがどうだっただろうか。それを見たディランは遠い目をしていた。


「まるで子どもだな」

「……あ。お恥ずかしい限りです」

「だが、私はエイヴリルを子どもだとは思っていない。隣で朝までぐっすり寝たなんて信じられないな」

「…………」


(ディラン様の言葉が『俺』から『私』に戻りました。つまり、混乱してこんなふうに仰っているわけではないと)


 なるほど今度は意味がわかった。婚約者のくせに違和感なく同じベッドで朝まで眠ってしまったことが本当に申し訳ないし、弁解しようがなかった。


(ですが、いま私がするべきことがわかりました)


 ドキドキして眠れないとかそういう類のことを思いつかなかった図太い自分を反省しつつ、エイヴリルは申し出る。


「ディラン様はとてもお疲れなのですね。離れに潜入することももうないでしょうし、今日からは私も領主としてのお仕事をお手伝いさせてください」


「何がどうなったら、今この会話からその申し出に繋がるんだ。それにまだ到着したばかりだし、きみがこの屋敷になじむ前に無理をさせたくない」

「いいえ、無理なんて。お邪魔になるようでしたら、別室で資料の整理やクリスさんのお手伝いだけでも」


 必死に食い下がれば、ディランは数秒置いてから諦めたように笑った。


「……と言いたいところだが、正直なところエイヴリルが手伝ってくれるのならこの上なく心強い。いくつか見てほしい件があるんだが、頼めるか」

「もちろんです。しっかり務めますわ」


 承諾を得たばかりか期待されてしまった。これは頑張りましょう、と気合をいれつつエイヴリルは思い出す。


「私、離れで皆さまの洗濯物をお世話しながら不思議に思ったのです。どうして前公爵様はこんなにたくさんの女性を囲っていらっしゃるのかと」

「ああ。あれは病のようなものだ。まともな価値観で測れる相手ではない。誰か特定の人間だけを長く大切にできない愚かな人間だと思うしかない」


(たしかにその通りなのですが)


「私にはディラン様がいます。ディラン様も、私だけを想ってくださっているのはとても伝わります。……一人の人に出会えたのは、本当に幸せなことですね」

「……なるほど。それを昨日の夜聞きたかった気がするが?」

「??? 申し訳ございません?」


 幸せについて語ったのに、盛大にため息をつかれてしまった。ぱちぱち瞬いていると、クリスが部屋に入ってきた。


「……失礼いたします。おはようございます、ディラン様、エイヴリル様。よくお休みになれましたか」

「おはようございます、クリスさん」


 挨拶を返すと、クリスはニコニコ笑いながら一瞬で部屋の様子を確認したようだった。


 昨夜と同じシャツにスラックス姿のディランと、ネグリジェとはいい難い木綿の寝巻に身を包んだエイヴリル、ベッドの真ん中には猫のぬいぐるみ。


「なるほど。何があったか……というか、何もなかったのは承知いたしました。お二人ともぐっすりだったようで、何よりです」




 その日、エイヴリルはディランの書斎で手伝いをして過ごした。エイヴリルが見たのは資産の動きや収支を記した帳簿である。


 実家・アリンガム伯爵家でも同じような業務をこなしていたため、とてもスムーズだったが、前公爵から愛人たちへの贈り物があまりにも多いのにはまいった。


(ですが……少し違和感があります。これは、今回の任務やランチェスター公爵家の経営に関わることではないから問題はないのでしょうけれど)


 自分の記憶力がいいことは知っている。昨日、離れで見たあれこれを思い出しながら、エイヴリルは首を傾げたのだった。

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