第82話 大旦那様の好みが意外すぎます
エイヴリルはがしっと手を掴まれ、誤解を解く間もなく引っ張られていく。
「あなた、没落した貴族のお嬢さんなんですってね。大変だったわね、今回のことは」
「!?」
(明らかに人違いに思えるけれど、私も実家がわりと最近没落しましたね……!)
その本人との思わぬ共通点に目を瞬くと、洗濯メイドはすらすらと続ける。
「大丈夫。ここの別棟で働く人間は口が悪い人もいるけど、皆何でも教えてくれるから。箱入り娘らしく白魚のような手をしていても問題ない……ってええっ? 意外とそうでもない!?」
「あの、私お洗濯は少し得意でして」
掴んだエイヴリルの手の感触は彼女の予想とはちょっと違ったらしい。そのうえ、答えまでずれていたらしく勢いが弱まった。
「……ふーんそうなの? でも今日みたいな遅刻はいただけないわね。奉公先では第一印象が大事。気をつけなさいよ!」
「はい申し訳ありません!」
「あら素直ね。今日来る新人は貴族のお嬢さんって聞いてたし、時間になっても来ないし、ひどいもんだと思ったけど意外と使えるかも」
(あっ……ついお返事をしてしまいました)
しまったと思ったがもう遅かったかもしれない。
しかし何となく状況は掴めた。今日、ランチェスター公爵邸の別棟には新しい使用人がやってくることになっていたのだろう。その彼女は最近没落した貴族のお嬢さんで、箱入り娘だった。
だがその彼女は待てど暮らせど来ず、逃げたと思われていたところに偶然現れたのが若干くたびれ気味のドレスを着たエイヴリルだったようだ。
(偶然、状況などが全部一致してしまったようです。お気に入りの過ごしやすい服を、などと言わずグレイスのいうことを聞いていればよかったです……)
エイヴリルが自分の振る舞いを後悔する一方で、なぜか洗濯メイドはエイヴリルのことを気に入った様子だった。
「私はジェセニア。別棟で洗濯メイド長を務めているの。あんたのことは私の下につけてあげる。この手、気に入ったわ」
「いえ私は」
さすがに人違いは訂正しないといけない。けれど、ジェセニアは思い込みが激しいタイプのようだった。
「知ってるわ、あんたはクラリッサでしょう」
「いえ違います、私はエイヴリルと申しまして、」
「ああ、それは洗礼名ね? 信心深い家柄だって聞いたことがあるわ。家名がなくなったことを気に病んでいるのね。大丈夫、ここはとってもいい仕事先だから! 大旦那様のお手つきになれば中でだって暮らせるわ」
「……!?」
(お、大旦那様のお手つき、でしょうか……?)
いろいろな勘違いと誤解をなんとかしたいところだったが、まさかの話に訂正を忘れてたじろいでしまう。
「まあ、私はすきものジジイには興味がないけど。いい暮らしをしたい子は上手くやってるわよ? 自分の部屋をもらえるし、お給金の何倍ものお小遣いをもらえるの」
「…………」
あまりの次元の違いに、頭がクラクラしてきた。しかしジェセニアがけろりとしているところを見ると、妾たちが暮らすこの別棟では日常的な会話なのだろう。
動揺し何も答えられないでいると、ジェセニアはエイヴリルの顔を覗き込んで目を丸くした。
「あら。あんた、かわいい顔してるわね。さすがお嬢様育ちって感じ。大旦那様に気に入られて裕福な暮らしをしたかったら見込みがあるわよ」
「!? いえあの私は」
「あー、嫌なのね。それなら気をつけなさい。あの方は清廉でお淑やかな女性がお好きみたいだから」
「!?!? はい!」
とりあえず返事をしてみたものの、ここでの滞在にはすでに不安しかなかった。久しぶりの領地入りで忙しいはずのディランが、わざわざ時間を作ってこの別棟に同行してくれようとしているのも納得しかない。
(大旦那様――ディラン様のお父様は悪女とは対極のところにいる女性がお好みなのですね。意外すぎますし、なんというか……この別棟は私の手には負えない場所な気がします……)
そんなこんなで、遠い目をしたエイヴリルの前には、いつの間にか洗濯用の大きな洗い桶が置かれていた。
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