第72話 久しぶりのチェスです
エイヴリルが席につきチェス盤を見つめている間に、ウォーレスとキャシーの楽しげな会話はまだ続いていく。
「かの有名な悪女の顔が見られるなんて言ったら、この界隈では大騒ぎだぞ」
「やだ。もしかして、酷い顔をしている可能性もあるのかしら? 仮面と髪型で大体のことは誤魔化せるものね」
ちらりと値踏みするような視線を向けられて、エイヴリルは顔を引き攣らせ瞬いた。
(コリンナは私の名前を使って一体どんな遊び方をしてきたのでしょうか……!?)
エイヴリルの想像力はとうに限界を迎えている。とりあえずにっこりと笑って見守っているうちに、どんどんギャラリーが増えていく。
「悪女の顔が見られるって?」
「あーあの、一晩遊んだら虜になって散々貢がされるという女か。昔、ひどい話を聞いたな。友人の知人が家宝扱いの宝石を貢いでしまって、目が覚めて取り戻しに行ったけど帰ってこなかったらしい」
「家宝を贈ってすぐに金に換えられたってことか? いっそ清々しいな」
「いやそれが、帰ってこなかったのは家宝じゃなくてその取り戻しに行った知人なんだよ。再会したら一瞬で絆されて復縁したとかなんとか」
「まじかよ……一体どんな悪女なんだよそれ……」
(ほっ……本当ですか……?)
お願いだからこっちを見ないでほしい。
コリンナのあり得ないエピソードに本気でドン引きし、何かおそろしいものを見るような視線を送ってくる集団に、エイヴリルはさりげなくゆっくりと背を向けた。
(コリンナの外での評判をはじめて具体的に聞いた気がします。なるほど、これはあちこちで恨まれていても仕方がありません……)
気まずそうにぱちぱちと瞬いたエイヴリルの仕草を緊張と勘違いしたらしいキャシーが、赤く塗られた唇を近づけてくる。
「ねえ、あなた。こんなところで顔を晒すのはかわいそうだからハンデを予定よりも多くあげるわ。もっと駒を抜いといてあげる」
(! そうでした! 私はウォーレスさんとキャシーさんに騒がれないように、チェスでひと試合するのだったわ。確実に勝って、素顔を晒すことがないようにしないといけません)
今自分が置かれた状況を思い出したエイヴリルは、申し出る。
「ありがとうございます……では、その駒を私に選ばせていただいてもよろしいでしょうか?」
「えっ……いいけど」
にっこり微笑んで見せると、キャシーは心底不思議そうにぽかんと首を傾げたのだった。
◇
一方その頃、ディランは別室で目的の人物に接近していた。一人、周囲の会話に耳をそばだてながら、いつも通りポーカーフェイスを貫いてグラスを口に運ぶ。
「近々、ペッキア領のインフラ整備に関する入札が行われるそうだな」
「ああ。相場に5割上乗せでどうだ」
「……5割か」
「もちろんそれだけじゃない。別の見返りもある。むしろそっちが本命だろう?」
背後では何やら怪しげな会話が交わされているが、特にディランは顔色を変えることはない。
(……この部屋が当たりでよかった。これで誰かに話しかけることなく情報が集められる)
今日ディランがこの仮面舞踏会を訪れたのは、アッシュフィールド家が斡旋しているとされる不正な入札を探ってほしいという依頼をローレンスから受けたためである。
本来はエイヴリルとともに招待客に混ざって情報を集めるつもりだったが、悪女・コリンナの元カレの登場により叶わなくなってしまった。
しかし、別室でこの会話をしている人間に出会えたのだから幸運である。
二人の男は怪しげな会話を続けながら、部屋を出ていく。ディランは視線ですら追わず、その気配だけを見送った。
(髭の男がアッシュフィールド家の当主――このパーティーの主宰か。しかし、あの相手――黒い仮面を着け、赤みがかったブロンドをひとつに結んだ若い男、は誰だ。チャイルズ家か、エッガー家か。それとも……。背格好から目星はついても、該当する家が多すぎて決め手がないな)
記憶を探ると見覚えがある気はする。しかしどこで会ったのか。せめて仮面がなければもっと絞れたものを、と思いつつディランはグラスを飲み干す。
(仮面があるからこそ探れたのはこちらも同じだ。必要な情報は得られたし……ローレンスへの報告はここまでだな)
早くエイヴリルのもとに戻りたくていつもより気もそぞろになっているのは認めるところだった。とにかく大広間へ戻ろう、と部屋を出ようとしたところで廊下がざわざわしていることに気がついた。
(何だ……?)
その部屋は、廊下のつきあたり、奥の角から二番目の部屋である。エイヴリルのことが心配だが、今日はここへ仕事で来ていることを思うと確認しないわけにはいかない。
ディランはその部屋へと足を踏み入れた。
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