第52話 結婚式の準備をはじめます②
「繊細な刺繍、でしょうか……!」
確かに、ディランが口にした類のドレスはエイヴリルの好みだった。一瞬、心が弾んだもののすぐに思い直す。
(繊細な刺繍のドレスは、職人の方が丁寧に時間をかけて仕上げるものだわ)
贈り物慣れしていないエイヴリルはどうしても予算を気にしてしまう。憧れはするものの次の言葉が出ない。けれど、ディランはエイヴリルの反応に満足したようだった。すぐに店員を呼び寄せる。
「刺繍だけだとさすがにもったいないな。ドレスに縫い付ける宝石の見本を貰えるか」
「かしこまりました、今すぐに」
(……!?!? 宝石付きのドレスなんて……いくらランチェスター公爵家が大富豪とはいえ、私には贅沢すぎるのでは……!?!?)
浮かれていたエイヴリルは一瞬で蒼くなった。ディランは派手なデザインよりも上品なものをと言ったが、宝石付きは明らかに派手寄りではないのか。コリンナがたまに穿いていた膝が見えそうな丈のドレスに合いそうな気もする。
(何よりも、ドレスに負けてしまいますね、私では)
両手で頬をぺちぺちと叩いたところで、少し悪戯っぽい笑顔を浮かべたディランが顔を寄せてきた。
「そういえば、さっきから他の店員が私たちのことを気にしているな」
「……?」
言葉の通り、エイヴリルは耳を澄ましてみる。すると、広い個室の端で微笑みながらこちらを見つめている二人の店員の話し声が聞こえた。
「……あの方がランチェスター公爵家の公爵夫人になられるエイヴリル様か。お噂とは違って……予想外に初々しいお二人だ」
「本当だな。悪女という噂だったが、素敵な方じゃないか」
(……!)
そうだった、エイヴリルは悪女だった。「予算が気になるのでやめましょう」なんて口が裂けても言ってはいけない。それどころか初々しいという言葉を返上してもらわないといけない。
(わかったわ。まず、ドレスに関しては贈り物ですもの。ありがたくいただくことにします……!)
問題は、初々しさの返上である。……となれば。こそこそと殿方と密会をする義妹の姿を思い浮かべたエイヴリルは、ディランに向き直る。
「ディラン様。今日は随分と他人行儀なのですね。そんなに離れてお座りになって」
「……ああ。そういえば、今日はまだ一度もあれをしていないんじゃないか?」
「……あれ」
「そう、あれだ」
一緒に店員の小声を聞いていたディランもエイヴリルの小芝居に付き合ってくれるようである。
しかしあれとは一体何なのか。朝の挨拶、朝の食事、朝の散歩にエントランス前のモップがけ。今日のエイヴリルにいつもと比べて欠けているところなど一つもない。
(あれと言いますと……初々しくない悪女といえば……至近距離のお付き合いですよね……)
精一杯考えを巡らせたエイヴリルがたどり着いた、それっぽい答えといえば。
「そうですわね、キスがまだです」
「!?!?」
こちらに悪戯っぽい笑みを向けていたはずのディランが一瞬で固まってしまった。
同時に、これは小芝居だと思い込んでいたエイヴリルも一瞬で固まる。どうやら盛大に間違ったらしい。
(これは大変です。ディラン様が固まってしまいました)
そしてディランは紳士である。こんなところで、というかエイヴリルの同意なしにそのようなことをするはずがない。もちろん、傍目から見れば大っぴらに強請っているに違いないのだが、エイヴリルとディランの関係は契約結婚だ。
エイヴリルも一応はそこまで考えて言ったのだったが、この反応を見ては居た堪れない気持ちになる。
(本当に……申し訳ない間違いを)
床におでこを擦り付けて詫びたい気持ちになっているエイヴリルの肩に、ディランの手がのせられた。接客用のソファに隣り合って座っていたところを、抱き寄せるように肩に手がのっている。
一体どうしたのだろう、とエイヴリルが視線を上げる前にディランの顔が近づいて、おでこの近くに何かが触れた。
(……!?!?)
「今日はこれで我慢してくれるか」
「……!」
(……キ、キスを! おでこに、キスを!!!)
今日のエイヴリルの髪型は前髪を丁寧に内巻きにして下ろしてある。だからディランの唇が直接触れることはないのだが、それでも前髪の近くには触れたし、何よりも顔が近い。
目を白黒させて呆気に取られているエイヴリルに、ディランは遠い目をした。
「“悪女・エイヴリルは高価な品をねだってくるのだろう?”という意味だったが、まさかここでキスを求められるとはな……」
「そ、そちらもですわもちろん!!!」
「それならちょうど良い。遠慮せずに選んでくれ」
「!?!?」
半ばパニック状態のエイヴリルが同意すると、店員がラインストーンが載ったトレーを手に持ち、戻ってきたところだった。
(これは間違いなくきちんとした宝石です……!)
……今さら、選べないとは言えなかった。
多少のトラブルはあったものの、エイヴリルが結婚式できるドレスは無事にオーダーされた。こんなに贅沢なドレスは自分には似合わないと思いつつ選んだものの、ディランが自分のために選んでくれたのだと思うと心が温かくなる。
(これは、これまで以上に心のこもった大切なプレゼントです。契約結婚の期限が来たら置いていかないといけないものかもしれませんが……。仕立て上がったら、目に焼き付けて大切にしましょう)
店員たちの不自然に穏やかで優しい視線に見送られながら個室を後にしたエイヴリルは、はたとさっきの出来事を思い出して前髪をさする。
(それにしても、まさかディラン様がここまでなさるなんてびっくりしました……! これって店員さんからしたら、悪女というよりはただ仲が良い婚約者もしくは夫婦なのでは!?)
今さらながら気がついたものの、いつも突っ込んでくれるはずのクリスはドレス選びの前に追い出されていなかった。残念である。
◇
後日、個室の入り口付近で見守っていたクリスに「二人とも何やってんですか」と呆れられ、ディランが頭を抱えたことをエイヴリルは知らない。
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