ピキ、ピキピキからのグォ〜〜ン



 グォ〜〜ン……。


 わが家は明法寺という寺に隣接して建っている。


 そこから、鐘の音が怯えたように響いてくるのはよくあることで。

 観光目的で寺を訪れた誰かがイタズラに鐘を打つ。おそらく、人目を忍んで恐る恐る打ったようだ、その躊躇ちゅうちょが音に表れている。普段なら笑える鐘の音が、そう、われらが戦いのゴングになった。


 わたしは冷静に冷蔵庫から出そうとしていた漬け物を、もとに戻した。


 さて、魚の向きである。


 頭が右側にテーブルの上に斜めに置かれた焼き魚の皿だ。

 夫は料理にこうるさい。こだわりも半端ない。なら、自分でやれと思うが、仕事以外で動くことは損だと粘着質的にこだわっている。


 こだわり以前にね、まず、性質が変。


 つまり、向きだがと言葉は止めたが、要するに、朝食のテーブルに乗った焼き魚の頭の向きが、左側に正確にテーブルの横線に合って置かれてないことを、簡潔に不服を述べ、その上に漬け物を冷蔵庫から出そうとしているわたしに、戻って位置をなおせと要求したのだ。


 これ、あり?

 世の主婦に問う!

 世界にも問うよ!


『M e too!』案件として訴えてもいいよね。なんなら、魚の頭の向きってので看板つくって、公道に立ちたい。SNSに写真のせたい。


 もう一個、付け加えておくとね。

 それは洗濯物のパンツが前の開いている側を表に四角にたたむというルールと同じで、つまり、信じられないほど細かい上にバカげている。


 これまで我慢してきた。

 ずっと要求に従ってきた。なぜなら面倒だからだ。その我慢のツケが、今この瞬間に爆発したのだ。


「なにか?」


 声を押さえた。


「魚の向きだが、右側にないんだが……」


 わたしの不穏さに、いささか驚いたのか、ナンブツ先生は少し戸惑っていた。しかし、彼にとって正論は正論である。自分の要求を素直に表現したようだ。


「え〜〜っとですね。焼き魚というものは、斜め三十五の角度で切れ目を包丁で入れて、ほどよい焦げ加減に焼き、それを表側に頭部を左側に皿に盛りつける。その際、ご飯茶碗の右側に整然と置かれるのが正しい。大根おろしが添えてあれば、尚、望ましい」


 最後に大根おろしについては譲歩まで入れた。

 右側に頭部があったついでに、大根おろしがないと思ったのだろう。が、伏せたのだ。アッパレな配慮だと、さぞかしナンブツ先生は満足したにちがいない。


 そして、彼は自ら皿の向きを変えようとした。

 そんな勝手なこと、させてなるか!


「待った」

「え?」

「まだ、話が終わっていません」

「いや、僕は終わったが」

「論拠は?」

「へ?」

「あなたは焼き魚について論旨を述べた。しかし、それが正しいという論拠を言ってない。単なる主張事実にすぎないではないか?」


 はゔぁ!

 

 恐れ入ったか!


 子育て期間中に必死に頑張って法律関連の勉強をしたんだ。侮るでない。なにゆえにカウンセラーという地位を得たと思う。


 因にナンブツ先生は学生時代に弁護士試験の一発合格。


 それは良しとして、ともかく、同じ土俵で戦ってやる。

 何度でも言おう。


 ここまでには長い歳月があった。心に収めて来た不満、敢えて言うなら、殺意を感じるほどの怒り。活火山の下で脈々と流れているマグマが、今、その出口を探して、外へ飛び出そうしている。その穴が、まさに魚の頭で火を噴く箇所を見つけてしまったということだ。


 世の男どもよ。

 気をつけたがいい。日ごろは聞き分けの良い妻、恋人、部下の女たちが近くにいたとしたら、その心中をそっと覗いてみよ。


 マグマは常に煮えたぎっている。


「主張事実? なにを言っている」

「魚の頭が左側を向かなくてはならない。その主張の根拠を聞いているのです」

「それは、昔からの慣習で」

「つまり、原告は単なる慣習、主観に基づいた狭い認識のもとで、わたしに訴えたという訳ですね」

「僕の、狭い認識?」

「そうです」

「では、君は、魚の頭は右でいいと」

「そうです」

「なにを根拠に」


 わたしは息を吐いて、再び深く吸い込んだ。そして、奴に爆弾を投げつけた。


「実家は右でした」

「その証拠は?」

「証拠?」

「そう、証拠がない。魚の頭は左におくのは、普通の一般常識だと思うが」


 わたしは無言で身を翻し、奮然ふんぜんと二階にあがった。

 いや、逃げた訳ではない。

 更なる戦いの場へと向かったのだ。


 階段を登るわたしの足音、それはいつもより高い音がしたにちがいない。

 ちょっとした威嚇というか、ドシドシという音にこめてみた。なんなら異世界の勇者くらい気持ちだった。


 奴は皿を手に持ったまま茫然としている。


 男というものは、時として、ものすごく無邪気なことがある。おそらく、無言で立ち去ったわたしの姿を敗北と受け取ったのだろう。少しほっとした表情を浮かべていた。


 甘い、甘いな、ナンブツ。


 怒り狂いながら、わたしは二階で押し入れをひっくり返し、古いアルバムを探し出した。

 証拠だと。

 ふん、実父が写真魔であることを甘くみている。

 ある。ぜったいに写真はある。


 わたしは探した。


 目当ての写真を発見したときは、思わず、「ざまあ」と言葉にした。

 キッチンへ降り立ち、テーブルにアルバムを叩き付け、「ここ」と、指差した。


 それは実家で家族が集まる写真である。

 幼いわたしが箸を右手に無邪気な顔で笑っている。その頭髪の先、写真の奥に魚が写っている。雑然と置かれた皿の上、魚の頭は右側にあった。


 おほほほほほ!


 証拠と論拠を見つけた。


「うむ」と、ナンブツ先生は唸った。


 実家は普通のサラリーマン。学者家族のナンブツ先生の実家とはちがう。


「ウム」


 もう一度言って、彼は口のなかでモゴモゴと呟いた。


「君の実家は」と、彼は言葉をとめ、息を大きく吸い込んだ。

「一般世間とは、少なからずズレがある」


 このとき、わたしは最終決戦を覚悟した。

 離婚も辞せず。


「あなたは証拠を疑うと。つまり、実家が右という事実に対して、紛れもない証拠を提示したことに対して、疑いを持つという論拠のない証言をするのですか」

「しかし」

「しかしも、何もない!」


 ナンブツ先生は手に持った皿をテーブルに返した。その時、魚の頭が右のままであることを、わたしたちは同時に確認して、うなずいた。

 まだ、事件は片付いていないのだ。現場をうやむやにはできない。


 彼は椅子に座り直して居ずまいを正した。仕事上で戦闘態勢に入る彼の、よく知られた動作である。


 やる気になったか、ナンブツ!


(つづく)

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