離婚危機に、サカナの頭が向かってくる

雨 杜和(あめ とわ)

朝から、飯テロ



 鈴木竜之介すずきりゅうのすけ、46歳、弁護士、わたしの夫。


 むっちゃ神経質だから、仕事仲間なんて影でナンブツ先生と呼んでいる。

 ま、本人は知らないだろうけど……。そこには、幾分の賞賛と大いなる反感が含まれているんだ。


 ああ、もう、ナンブツ先生って他人ならいいよ、妻の立場になってみぃ。

 やつは暢気のんきというより、鈍感さもあわせ持つ神経質。この組み合わせはヤバい。


 ともかく、ねっちりタイプで粘着質、つけくわえとくけどケチ。額に深く刻まれた皺と痩けた頬が性格をあらわしてはいる。さらに本質的なところでは抜けている。


 今日は子ども達がいないんだ。

 日曜日で、祖父母の家に強制退去じゃない、遊びに行かせているから夫婦ふたり。


 どっちがいいんだろうか、じゃかましいガキふたりがいっしょと、夫だけってのと? なんつうか、選択肢が地獄すぎる。どっちも災害級って事実を誰も想像しない。


 そんな崖っぷち39歳、鈴木アイコ。


 わたしは夫にイラついている。

 夫にはナイショだが、数年前から離婚届の用紙を隠し持っている。

 いつ出す。いや、今か。それとも、先か。


 根本的に夫とわたしが合わない。より深く考えれば、女と男は本質的に別種の生き物で、理解しあうことなど不可能という話なのだ。

 主婦が病気になる理由の九割は夫が原因と、ある大学教授が著作に書いていた。『夫源病』というらしい。


 夫が近くにいると苛つく現象は、まさにわたしの症状ピッタリ。


 さて、わたしは公的機関でキャリアカウンセラーとして働いている。



 5月末、風は柔らかく、夏の気配も感じる日。

 平日に溜め込んだ洗濯物をベランダに干したとき、こんな美しい休日に積もりに積もった不満が暴発し、大戦にまで発展するとは、まったく思いもしなかった。


 ボソボソと小さく燃えていた種火が、まさかの大火。


 はじまりは朝食のテーブルにのった焼いた真鯵まあじだ。

 ナンブツ先生の額の皺が深くなっているのに気付いた。


 365日続く、平凡な日常の普通の日のなんでもない朝食の時間にもかかわらず、そして、奴の細かさが今にはじまったわけでもないのに。「この焼き魚だが」という声に、わたしの額にピキッと斜線が走った。


 胸の奥にカスミかかったようなイライラした気分。


 冷蔵庫から漬け物皿を出そうと、腰をかがめた瞬間、無性に訳もなく、その言葉がわたしの胸のどまん中に直球で命中した。


 ピキッ! 


 そう、この『ピキッ』には長い年月に培われた歴史というか、醸造されたというか、つまり一筋縄ではない深い深い味わいのある極上モルトのような怒りが潜んでいる。


「なんでしょうか」


 声に冷たさを、せいいっぱい滲ませた。


「真鯵の頭の向きのことだが」

「なにか問題でも」

「問題があるから動議を出した」


 彼は法科出身であり日常生活に法律用語が頻出する。

 動議という言葉は裁判前に訴訟の申し立てに使う。それを無意識に使って更に刺激するとは、いい根性だ。


『ピキッ』『ピキッ』と二回にわたってわたしの額に斜線が走ったのを、まだ、気付ていない。論理的だが鈍感、まさにナンブツ先生の面目躍如めんもくやくじょ


 20年近くも付き合い、それでもまだ、わたしの気持ちが分からない鈍感男が夫なのだ。


 そういう男と、なぜ結婚したのか。

 永遠の疑問ではあるが、それは間違いなく想像力の欠如だと思う。今さらだが、ほかに言葉がない。

 

 美しく切ない恋愛感情、その最終ゴールである結婚。その瞬間から夢ではない生活がはじまると理解していなかった。


 ウエディングドレスで着飾った19年前、確かにわたしは若く、そして、愚かだった。かのリヒテンベルグ教授も言っているじゃないか。

『恋は人を盲目にさせるが、結婚が視力を戻してくれる』と。


 ともかく、今日は悪いことが重なった。運悪く、どうしようなく、なす術もなくふたりの休日が同じになった。


 これまで暗黙の了解で休日が合うことを避けて来た。

 主にわたしの采配だが。


 休日を一緒にしないという世俗的な駆け引きは、多くの妻が形を変えて行っている、余りに手あかの付いた手段かもしれない。


 ナンブツ先生も、それに乗っかった。無意識の領域での行動だ。


 仕事柄、就労支援などのカウンセリングに係っていると、必然的に離婚問題に至ることがある。女性が第二の就職を切実に願うとき、離婚が前後にある。男たちの多くがいかに妻を理解していないか知ることになる。


 熟年離婚で捨てられる夫たちの共通項は、妻に対する無知だ。男たちは一様に、なぜ、妻が離婚したいか分からないと言う。


 逆に言えば、夫が離婚をほのめかしたとき、その理由に思い当たらない無知な妻はいない。


(つづく)

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