恋人たちの休日

『ねぇ。あなたがただ一言、〝言葉なんて要らない〟、と、そう言ってくれたなら――わたしはダークロマンティシズムに咲けるのに』

キミはそんな言葉を舌先で転がしながら、

片手間かたてまに、古今和歌集こきんわかしゅうなんかに目を落とす。


そのつれない態度に嫌気いやけがさし、

ボクが、お気に入りのこういていると、

キミは高い声でわらいながら、

『すごいニオイね――妊娠にんしんしちゃいそう』

なんて言って、ボクのあたまの痰壺たんつぼを刺激する。


ボクは声に出さず、クチビルだけで、

「まったく」、と呟く。

その過程で、自分の小鼻がヒクつくのが、

よく分かった――たぶんそれに反応したのかな、

キミは首をそらして天井を見上げた。

口許を片手でおおって、自分のてのひらに何度かキスをしながら。


『ねぇ、ふと思いついたのだけど、聞いてもいいかしら? あなたのこれまでの人生で、一番印象的だったことは何? もしかして――わたしとのエッチ?』

キミはボクに顔を向けながら、まるで戯曲ぎきょくを小馬鹿にするように、そんなことをうそぶく。


声を上げるようにあたまの中の血管がふくらむ。だけどボクの意識は、他のことでめられていた。

「キミとのエッチは、それは素敵だよ。だけど、印象でいったらそこまでじゃない。花のかおりは覚えておけないだろ? ぐたびに、思い出す。ボクはこの香りが好きなんだって。だからこそ素敵なんだ。そうだろ?

 で、印象に残っていることといえば、ひとつだけある。それはボクがまだ幼かった頃のことだ。

 ある日、父がひどくぱらって家に帰ってきたんだ。それで、夕食の準備をしている母に後ろから抱きついて、そのからだ愛撫あいぶしはじめたんだ。

 いや、別にこれ自体がってわけじゃない。このときの母の姿が印象的だったんだよ。母は嫌がるそぶりをしながら、ボクのほうに顔を向けた。だけどその表情が、なんだか少し嬉しそうでさ。それを見てボクは子供ながらにこう思った、〝この女もかつては子供だったんだな〟ってね。まあつまり、この観念かんねんも含めて、その顔がやけに頭に残っているんだ」


話を聞き終えてもキミはただ、含み笑いの予兆よちょうを見せるだけで何も言わない。

キミのいじらしさをけがしたくなって、ボクが口火くちびを切ろうとすると、キミはそれを邪魔するように口をすぼめ、ひとつ口笛を鳴らした。

『ねぇ、たまにはわたしが夕食をつくってあげようか?』

キミはそう言って、すでに読み終えたページやぶり、それをしおりに古今和歌集をテーブルに置くと、その場にはりつけのように立ち上がった。

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