第5話 グラン・ダルジャン敗戦

 返事が出来ない娘の髪を撫でてやる、これが今生の別れだと念入りに。

 玉座に戻ると一度顔を下へ向け、再度上げる。


「レーダーよ」


「ははっ!」


 階段の下の赤いじゅうたん、その左最前列に並んでいた軍服の老年男性が玉座の前にと居場所を移す。

 段上にはセシリアが居るが、一瞥もくれずに国王へ視線を向ける。


「リーヴァ湾に軍艦を沈め、暫く使用不能にする準備を行え」


「御意に! その前に一隻湾外へ航行するよう手配を致します」


 リーヴァ湾はグラン・ダルジャン王国とマリオット王国の支配下にあり、湾から外へ出るには北西の狭い出入り口を使うしかない。

 王女を逃がす為には海戦をするよりも封鎖のほうが確実と、レーダー大提督もきっちりと理解していた。


「済まぬがレーダーの命、余が貰う」


「この老骨の命で宜しければ、どうぞご存分にお使い下さいませ」


 そうすることで若い指揮官へ責任追及が繰り下がらないならば喜んで差し出すと不敵に笑う。

 いかに人格者が集まる国であろうと、力で打ち砕かれてしまう、それが戦争という現実である。



 庭園の芝生、今日もまた独りでそこに座っている。街が騒がしいのは気づいていた、だからと何をするわけでもなく空を眺めていた。

 緑が色づいて、少し黄色や赤が混じった葉をつけている木々が目立つようになってきた。

 若々しい草木の薫りは、いつしか爽やかな風に乗る花のもので満たされる。だが今は少し違う。


「……こでは……血の匂い」


 風上――東側の空を見る。遠くに白い煙の筋が登っている、焚火をしているようなものではないし、畑を焼いているわけでも無い。

 始まったようですわね、それとも終わったというべきかしら。


 白亜の屋敷を見てもこれといった動きは無い、住人はそのままで主の帰りを待っている。

 遠くから金属が打たれる音が風に乗ってやって来る、戦いの音だ。

 ここにいると巻き込まれましてよ、ほら早くお逃げなさいアボット。


 けれどもぼーっとしたままその場を動かない。逃げると言うことに考えが及ばないのだ、だからと心配するようなことになるとも思えないが。

 いくら戦利品目当ての野蛮人でも、この巨人を相手にして追いはぎをしようとの判断にはならないはずだ。命が惜しくないならば話は別だろうけれど。


「畜生、もう終わりだ!」


 大声で嘆く男が茶色の歩道を走っていく、背にはありったけの財産を入れたであろう鞄があり、目一杯膨らんでいる。

 市民の姿が多く見られ、シュルクワーズ城に押しかけている。

 醜いですこと、これが人間の本性ね。


 城門は硬く閉ざされていて市民の避難を拒んでいる。事情を知っていればそれも仕方ないと諦めることもあるだろうが、主人の不在を知る者は誰一人居ない。

 両手に荷物を抱えた中年女がアボットの姿を見かけて寄って来る。


「ああ、あんたまたここに居たんだね。もう逃げたほうが良いよ、マリオット軍がここになだれ込んでくるのも時間の問題だよ」


 危険な存在と見て集団で排除に掛かるよりは、放置されるだろう存在ではあるが警告をしてくれた。

 そうよ、このおば様の仰る通りですわ。


「西のミュール港に行けば船に乗れるかも知れないから、あんたも行かないかい」


「……船……」


 そんなものに乗って何処へ行けというのか、もし水に落ちでもしたら二度と浮き上がって等これない。

 やり取りをしている間も戦いの喧騒は近づいてきた。動こうとしない相手に痺れを切らして「もういいよ、あたしゃ行くからね。姫様がどこか逃げるってなら船だろうさ」それに紛れ込めれば上々だと足を向ける。


 井戸端会議での見解は概ね正しい、一般人侮りがたしだ。


「姫様……セシリア様……」


 何かを思い出したかのように呟くと、太股位はあろうかという大きさの鉄塊が先端についている戦鎚を手にして立ち上がる。

 芝生をゆっくりと踏みしめて歩む、港がある方角へと。

 この場の誰も興味を持たずに、全身鎧の男を無視して自身の保身に意識を傾ける。

 行くのですわね、あなたがそう望むのならあたくしもやぶさかではありませんわ。


 白い漆喰の壁に、橙色の屋根が立ち並ぶ沿岸道路の街並み。

 国外からの船が最初に見る街の景色を綺麗にしようとの試みで、色調が統一されている。なぜ黄色ではなく橙色かと言われると困るが。


 ミュール港は出島形式で、無人島だった小島を改造して船着き場にしたものだ。

 本土とはテオドール橋――石造りの橋で結ばれている。

 その幅は馬車が二台ギリギリすれ違える程度の狭いもので、橋脚の間は弧状になっていて小舟が通り抜けられるようになっていた。


 緊急時には橋上で検問が行われ、往来を厳しく制限できるのが出島の特徴だ。

 無論病気や危険物の国内への流入を防ぐ最終防衛地点でもある。

 逆に言えば港へ渡る者を差し止める為の防壁とも言える。

 早いですわね、もう戦場になっているようですわ。


 港側にはグラン・ダルジャン王国旗を掲げた海軍兵が陣取っている。そして港側の橋半分を赤地に白十字のマリオット国軍が占拠していた。

 本土側の橋半分は盾と十二の円の旗、グラン・ダルジャン王国軍が占めていて、陸地にはまたマリオット軍が群がっている。


 海軍の小舟が橋の真下にまでやって来て、側面から矢を射かけているが上手くない。

 橋に先行したマリオット軍が足止めの為に防御に徹し、挟み撃ちどころか四方からの攻撃に耐えている。


「何としてでも橋上の敵を抜け!」


 騎馬した男が橋の中央部で大声を上げる、茶色に黄色い線が入った軍服で統一している兵が繰り返し突撃を仕掛けるが、弧を描いた四角い大盾を並べて守る部隊を崩せない。

 橋東側の部隊の中心には馬車が居て、その四方をやはり大きな盾を持った護衛兵が囲んでいた。

 王家の人物が乗っているのは装飾で解る、王城に王冠のついた旗が靡いているということは消去法でセシリアが馬車に乗っていることになった。


 マリオット軍の本隊がセシリアを捕えるのが早いか、橋を占拠している部隊が全滅するのが早いか、脱出劇の天王山に出くわす。

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