『マトリョーナの家』(ソルジェニーツィン)の場合

「おやまあ驚いたこと!」

女性の声が唐突に、

大統領執務室に響き渡る。


驚いたのは、

一人きりで仕事をしていた筈の

大統領のほうだ。


見れば、いつのまにか、

粗末な身なりをした老婆が一人、

執務室の中をキョロキョロと見回している。

「いったい私は、間違えて

どこに入ってしまったんだろうねえ?」


「えーっと、そこのお婆さん?」

大統領はできるだけ冷静に声をかける。

「どこから入ってきたのかね?

ここは絶対立ち入り禁止・・・」


「ああ!痛い、痛い!」

突然、老婆は腰をさすりつつそう叫んだ。


「え?どうしたの?」


「腰痛が・・・こりゃひどい・・・

ああ、どうか助けておくれ」


「まいったな、、、」

やむなく大統領は立ち上がり、

椅子を持ってきてやると、

老婆に手を貸し、

そこにゆっくりと座らせてやる。


「ああ。だいぶラクになったよ、

ありがとう」


「それはよかった。

そのまま待っていてくださいね。

いま警備のモノを呼んで

最寄りの病院に、

ほっぽり出してもらうから」


「病院?!お医者に診せるのかい?!」

突然のお婆さんの叫び声に、

大統領は飛び上がった。


「お医者だけは、頼む、

やめてくれないかねえ?」

「え、どうして?」

「医者なんかに診てもらったら、

近所に何を言われるか、

わかったもんじゃないよ。

『なによ、医者にかかるなんて、

お貴族様きどりかよ』と村中に言われちまう」

「あんたどこの出身なんだ?!」

「これでもコルホーズで働いていた頃は、

若い者なんぞには負けずに

しゃかりきに熊手を振るっていたんだがね」

「コルホーズ、、、?」

「今じゃ、すっかり年老いて。

友達といえばネコとネズミとゴキブリと、

それから、あんたくらいだ」

「なんか失礼な婆さんだな」

「ともかく、ありがとうよ。

馬を取られてからというもの、

この背中と、

この腰で、

必死に働いてきたんだがね。

もう、このカラダも、

ボロボロだねえ」

「馬を取られた?」


老婆の話が少し引っかかり。

大統領は、質問してみた。

「馬を誰かに取られたのかい?誰に?」


「共産党のお偉方だよ!

あんた、そんなこと、

わかりきっておるだろうに!

私には立派な夫がいて、

働きものの馬もいて、

居心地のよい家があったんだ。

もういっぽで、いろんなことが、

うまくいくところだったんだ。

そしたら、このあいだの、

あのドイツとの戦争が始まってね」


(なんてこった、、、)

大統領は冷や汗をかいた。

(何が起こったのかはともかく、

この婆さん、二次大戦後の時代から、

タイムスリップしてきたらしいぞ?)


「戦争が始まったら、馬は軍馬として

徴用されてしまってねえ」

「そうか、、、旦那さんは?」

「もちろん、すぐに徴兵されたよ。

ドイツとの戦争が終わっても、

いつまで経っても、

帰ってこなかった」

「そうか。お婆さん、今は独り身か。

年金は貰えているんだろうな?」

「年金?とんでもない!

戦死した証拠がないと

遺族年金は出さないと、

村ソビエトの社会保障課に

突っぱねられちまってね。

でも、ドイツとの戦争から

帰ってこなかった夫の

戦死証明書なんて、

どこへ行ったらそんなもんが

手に入るっていうんだい?

嫌がらせだよ。

年金なんか払う気がないからだよ」

「・・・」

「でも誰も恨むつもりはないよ。

ただただ私は、

夫との思い出が詰まった家で、

死ぬまで働きながら過ごす

つもりだよ。

ただ、もう、戦争も革命も、

二度とごめんこうむりたいねえ」

「・・・」

「おや?」


老婆は、部屋の壁にかかっている

カレンダーを見て目を丸くした。


「驚いたよ!2022年って書いてある!

もしかして、ここは未来なのかい?!」


「ええ、、、まあ」


「死ぬ前に、未来のロシアを見ることが

できるなんて、幸せだねえ。

未来のロシアは、それはそれは、

発展しているんだろうねえ?」


「え!・・・ええ、まあ・・・」


「もう戦争なんかで、徴用や徴兵で、

家族が引き裂かれるような悲劇も、

すっかり起きていないんだろうねえ?」


「ああ・・・そこは・・・

うう・・・そのう・・・」

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