『おかしな男の夢』(ドストエフスキー)の場合

大統領は激怒した。


このところ、秘書に

「執務室に誰も入れるな」と

命じた時にかぎって、

変な奴がいつのまにか

執務室に紛れ込んでくる事例が、

いくらなんでも、連続発生しすぎだった。


「今日こそは!いいか!今日こそは

誰も入れるんじゃないぞ!」

内線で秘書に厳しく言いつけると、

大統領は執務室で一人、

椅子に腰かけ直し、

モニターで西側の報道番組をチェックした。


戦場に西側のカメラマンが入っている。

そのカメラマンが、

戦地で途方にくれている少女を映している。


西側め。またこういう

大衆の感傷に訴える映像ばかり

切り取りおって!


大統領がイラつきながらその映像を見ていると、

背後から

「ああ──私はあの少女を知っている──」

という気弱そうな声がした。


ギョッとして大統領が振り返ると、

そこには古くさい恰好をした

髭面の男が、帽子を握りしめて突っ立っており、

大統領のモニターを一緒に覗き込んでいる。


「また変なのが入ってきた!おい、秘書!秘書!」

大統領が内線を取ろうとすると、

後ろに立っていた男がいきなり

手を伸ばし、その受話器をむしり取った。


「大統領閣下!

あなたがたとえ私を停めようとしても、

私は、あの少女のところへ行きますよ。

なぜならあの少女は──

私がかつて、無情にも、助けを求めてきた手を

はねのけ、無視してしまった少女だからです」


「違う!秘書を呼んで

お前を追い出してもらうんだ!

内線を返せ!」


「私は、あの少女をずっと探していたんです。

見つけた以上、今度こそ、彼女を助けに行かねば!」


「だったら早く勝手に行け!」


「どうして私があの少女を探していたのか、

きっと大統領閣下は知りたがっていることでしょう」


「別に知りたくない、出ていけ!」


「いいでしょう。すべてをお話しましょう」

男は勝手に喋り始めた。

「私は、おかしい人間です」


「そこについてはオレも同意だ!」


「さぞかし大統領閣下も、

私のことを心の底で嘲笑しておられることでしょう」


「今のオレは激怒しているのだ!!」


「ですが、私は大統領閣下に腹を立ててはおりません」


「激怒しているのはオレだ!」


「今の私には、大統領閣下が、むしろ愛らしい。

そう、今の私には、他人が私のことを嘲笑すればするほど、

それゆえにこそ、他人というものが愛らしく思えるのです」


「お前、どうかしてやがるのか?」


「悲しいことは、大統領閣下、

あなたが地上の真実を知らず、

私だけが真実に目覚めているからです。

ああ。一人きりで真実に目覚めているというのは

なんと辛いことなのでしょう!」


「オレが言うのもなんだが、

お前、陰謀論者の典型か?」


「たぶん、私は、七歳の時から、

私自身がおかしいことに気づいていました。

その後、学校へ進み、大学へ進み、社会に出て、

成長すればするほど、ますます、

私は自分が周囲と違う、おかしい人間なのだ

ということを確信していったのです」


「そのあげく、ここへ来たわけか。

よろこんでオレが最後のトドメをさしてやろう。

精神病院への強制収監の命令書をな!」


「そこで私はついに、これを使うことを考えました」

男は、帽子の下に隠し持っていたピストルを取り出した。


「おっと・・・ちょっと待て・・・

落ち着け・・・話し合おう!」


「ご心配なさらないでください。

私はこれで自殺をしようと思っていたのですが、

そんなとき、街角で、助けを求める女の子に

出会ったのです。

おそらく、みなしごなのか、迷子なのか、

町の中で途方に暮れた女の子が、

道行くオトナたちを誰かれとなく捕まえて、

助けを求めていたのです!

ところが、、、お恥ずかしい!

なぜなんだろう?さっぱりわからない!

私は、その女の子の助けを求める声を

振り切って逃げだし、自分の家に帰ってしまいました!」


「え?」

大統領は、モニターのニュース映像の

中に映っている少女を振り返り。

「ううむ──距離的に、

たぶん、お前の言っている少女とは別人と思うが・・・」


「でも大統領。その夜でした。

私は、夢を見たのです。

古代のギリシア世界にとてもよく似たところに

連れていかれる夢でした。

もしかしたら時間を飛び越えて、

ホンモノの古代世界に迷い込んだのかもしれない。

まことに、誰もが笑顔で、

権力欲も淫欲も金銭欲もない、

科学技術は何も発達していないのに、

みなが人生に満足しきって、仲良く暮らしている。

そんな無垢な世界に迷い込んだのです」


「お前ほんとにおかしいぞ──」


「だがなんてことでしょう!

私のせいなんだ!

私のカラダに染みついていた『近代文明』が、

菌のように、古代人たちの中に伝染していき!

あの幸福そうな世界の中に、科学技術が生まれ、

そして権力欲や淫欲や金銭欲が生まれ──」

男は、大統領を指さして、

「戦争をもたらすあなたのような人も生まれた」


「失礼きわまりないヤツだ!」


「しかしあなたのような人が生まれたのも、

私がもたらした、近代という病原菌の結果なのだ。

ああ、すべてが私のせいなのだ!」


「考えすぎだよ・・・」


「でもね、大統領閣下。

前にも言った通り、すべてが近代の病だとわかった以上、

あなたも含めて、どんな権力者、どんな悪人、どんな性悪モノも、

いまや、私には、愛らしく見えてしまうのです。

私は、あの古代の無垢な世界を夢に見たおかげで、目覚めました。

自殺は、やめます!

残りの人生をかけて、私は一人でも多くの人に、

真実の生がありえることを、

純粋無垢な人間の共同体がありえることを示していきたい!

そのためには・・・まず!」

男は、モニターのニュース映像のほうを振り向いた。

「あの日、恥ずかしいことに、

助けを求める声を無視してしまった、

あの少女を助けます!

まず、たった一人の少女を、

助けることから、始めたいのです!」

そう言うや否や、男はバッとモニターの方に駆けだし、


むにゅううう!


っと、モニターのニュース映像の中に吸い込まれていった。


「ええ!」

目を丸くする大統領。


ニュース映像のライブ配信では、

報道しているカメラマンが絶叫している。

「おお!なんて勇敢なんだ!

戦場の中に、一人の男が駆け込んで!

さっきの少女を、助け出しました!

あの少女を、安全なところまで

保護してあげるつもりでしょうか?

なんと勇敢な民間人なのでしょう!!」

ニュース映像の中で、少女を命がけで

守り、駆け抜けていく男は、

間違いなく、さっきまでこの部屋にいた男だった。


「これは・・・」

さすがの大統領も、背筋が凍る思いであった。

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