第11話

             十一

 俺は土佐山田薬局へとやってきた。やはり、化学物質が問題になれば、ここが第一容疑者に急浮上だ。薬を買うふりをして店内に入る。カウンターの向こうに白衣を着た土佐山田九州男さんと、普段着にエプロン姿の土佐山田伊勢子さんがいる。伊勢子さんは電話中だった。俺はカウンターの前の丸いスツールに腰を下ろして、九州男さんに言った。

「おはようさん。どうだい、景気は」

「おやおや、桃ちゃん。なんだい、朝の巡回かい?」

「まあな。ハードな捜査中でな、いろいろと忙しい。昨日もほとんど徹夜だったぜ。元気の出る栄養剤でもあればいいんだが、俺は栄養剤やドリンク剤は飲まない主義なんだ。悪いな。薬ってものが、よく分からないものでな」

 九州男さんは、俺をジロジロと見回している。さては、よほど警戒しているな。

「火傷はしていないみたいだねえ。よかった、よかった。昨日はあんなことがあって、驚いただろう。しかし、桃ちゃんは勇敢だねえ。見直したよ」

 なるほど。話題を変えてきたな。「薬」から話は逸らすが、ボヤ騒ぎのことは気になるようだな。怪しいぞ。よし、ちょっと強引に話題を戻してみるか。

「まあ、探偵があの程度の危険で腰を引いていたら、仕事はできないからな。それより、喉が渇いちまってな。牛乳はあるか。栄養ドリンクは飲まないが、牛乳は飲む。カルシウムってのが豊富だと、陽子さんが言っていたからな。ああ、そうだ。カルシウムって言えば、それと似た言葉で、カリウムってのが……」

「あなた、ちょっと替わってもらえます?」

 伊勢子さんが口を挿んできた。俺と九州男さんの会話を邪魔する気だな。俺が「カリウム」という言葉を口にした途端に。これは、ますます怪しいぞ。

「誰だい?」

「警察署ですよ。鑑識の方が薬剤のことであなたに教えて欲しいって」

 ああ、駄目だ、鑑識のお兄さん。それはいかん。この人は第一容疑者じゃないか。なんでその人に教えを請うているんだ。いや、待てよ。警察も俺と同じ考えなのかもな。あえて、第一容疑者本人から話を聞き出して、自供に持ち込もうって作戦なのか。よし、少し話を聞いておこう。

 九州男さんは受話器を耳に当てた。

「あー、もしもし。お電話替わりました。土佐山田です。――ああ、はいはい。どうもどうも。お疲れ様です。――ええ。――ええ。そうなんですか。ええとですね、塩素酸カリウムっていうのは、酸化性が強いものでしてね。うがい薬とか、花火の火薬とかに使用されるんですよ。――ええ、そうですね。マッチにも使われていますよ。他にも重クロム酸カリウムとか。ああ、昨日のお隣の事件でしょ。硫黄は出ていませんでした? ――でしょ。じゃあ、マッチですわ、それ。軸木の頭薬の成分ですもん。燃えカスの軸木が見つかれば、間違いない……赤燐? 妙ですなあ。それは、箱の方に付いている薬物ですからね。ほら、マッチ箱の端の方の茶色い所。擦る部分があるでしょ。あの部分に使用するんですよ。――ああ、そう。見つかってないの。だとすると、摩擦マッチかなあ。――ほら、外国映画なんかで、テーブルの角とか、ブーツの底でシュッて擦って火を点けるマッチがあるでしょ。あれですよ。でも変だなあ。日本ではほとんど製造されていないはずなんだけど……。ああ、いや、いいですよ。このくらいのことなら、またいつでも電話してください。こちらも、栄養剤や絆創膏なんかを定期的に入れさせてもらっている身ですから。協力できることは何でもさせてもらいますよ。――いえいえ。はい。じゃあ、どうも」

 俺は駆け出した。伊勢子さんが背後から叫ぶ。

「あらら、桃ちゃん。どこ行くの。せっかく、景品用の『おつまみセット』を分けてあげようと……」

 おつまみセットどころではない。これは一大事だ。俺の推理が当たっているとしたら……。

 俺は大通りの歩道の上を走った。信用金庫の前を通り過ぎ、喫茶店の前を通り過ぎ、空き地の前で立ち止まる。俺は、車が往来する大通りの向こうの警察署を見つめた。あそこまでもう一度行って、俺の推理を伝えるべきか。しかし……。

 俺は暫らく、そのまま考えていた。車がたくさん走っている。恐い。だが、俺がこの大通りを渡れないのは、そんなことが理由ではない。俺はそのままずっと、そこに立ち尽くした。渡るべきか、渡らざるべきか……。

 どれくらい時が経っただろうか。向こう側の警察署の隣の横道の角に建っている「まんぷく亭」から、陽子さんの同級生の鳥丸玲子さんがエプロン姿で出てきた。何か、チラシのような物を重ねて手に持っている。玲子さんの後から、調理着姿の玲子さんの御主人も出てきた。店の横に回り、ポケットから取り出した小さな箱から白い棒を出して、口に挿む。煙草だ。どうやら、午前中の仕込み作業が終わって、休憩らしい。ポケットに箱を戻すと、今度はもっと小さな箱を取り出した。

 マッチだ!

 御主人はマッチ棒を取り出して、それを……ああ! 前にトラックが停まりやがった。邪魔だ。大事な所が見えん。俺は喫茶店の前まで移動した。「まんぷく亭」は喫茶店の向かい側だ。ああ、もう煙草に火を点けた後だ。煙をプカプカと口から吐いている。重要な部分を見落としてしまった。俺が停止している車列の先に目をやると、鳥丸玲子さんがコンビニの前の横断歩道を渡ってこちら側に歩いてきていた。地方銀行の前に着き、こちらに歩いてくる。本屋と雑居ビルの前を通り過ぎ、土佐山田薬局の前も通り過ぎて、赤いレンガ敷きの横道には入らずに、そのまま信用金庫に入っていった。ははーん、なるほど。そういうことか。「ほっかり弁当」がお休みになったから、自分の所のお弁当を売り込みに行ったんだな。玲子さんが手に持っていたチラシは、お弁当のメニューか何かに違いない。鳥丸さんの「まんぷく亭」は、あっちの地方銀行の方にお弁当を入れている。これを機に、こっちの信用金庫まで販路を拡大するつもりだな。同級生の不幸に乗じて。そういう計画だったのか。

 俺は喫茶店の中を覗いてみた。相変わらず客は入っていない。だが、おじさんは忙しそうだ。きっと、信用金庫の職員さんたちが食べに来ると見込んで、多めに仕込みをしているのだろう。俺は信用金庫の前まで移動し、色ガラスの大窓から中を覗いてみた。鳥丸玲子さんがカウンターの向こうの職員たちにペコペコと頭を下げている。売り込みも大変だな。

 俺は少し息を吐いて、赤いレンガ敷きの通りに戻った。トボトボと歩き、シャッターが閉まった「ホッカリ弁当」の前にいく。陽子さんがシャッターに張り紙をしていた。休業のお詫びの張り紙だ。その横で高瀬生花店のおばちゃんが話している。

 陽子さん、そのおばちゃんは、眉を八字に垂らして、さも心配しているような顔で話しているが、信用ならないぞ。気を付けろ。

 俺はそう言ってやろうと、二人に近寄った。高瀬公子さんは俺に気付きもせず、少し興奮気味な声で夢中になって話していた。

「そうなのよ。ホントに腹が立つわ。あれ、絶対にわざとよ。一日で済む工事の日当を、二日分請求して、儲けようって魂胆なのよ。わざとらしい」

 陽子さんは顔を曇らせている。

「まあ、業者さんの不注意で二日かかるってことでしょうから、高瀬さんが支払う必要はないですよね。当初の見積もりどおりの金額を支払うのが、筋ですよね」

「でしょ。それなのに、二日分を支払ってくれって言うのよ。承諾しないと、取替え工事はしないって言うの」

「それはヒドイですね。ほとんど恐喝じゃないですか。一度、警察の方に相談に行かれたらどうですか」

「無理よ。民事だからって、聞いてもらえないわ。まったく、真面目な人だと思っていたから信用して、ウチも工事を頼んだのに、あんな恥ずかしい看板をいつまで付けておくつもりなのかしら。本来なら、ウチが慰謝料を貰いたいくらいよ。ここは商店街だし、子供たちの目もあるじゃない。それに、ウチのお客は、裏のお寺のお墓や納骨堂にお参りに来た人たちがほとんどでしょ。これじゃ、お客さんに申し訳なくて……」

「そうですよね。間違えたのなら、さっさと付け替えてくれればいいのに。ヒドイ業者ですわね」

「そうなのよ。ああ、そうそう。それでね、お宅も美歩ちゃんがまだ小さいでしょ。看板が付け替えられるまで、お寺から向こう側には行かないように言っておいてもらえるかしら。昨日はブルーシートで覆ってたからいいけど、今は丸見えだから。子供には見せられないでしょ。ごめんなさいね、ほんとに」

「いえいえ。美歩にも言っておきますから。それにしても、お互い災難ですわね」

「そうねえ。お宅も大変だったわねえ……」

 俺は高瀬生花店まで走った。高瀬邦夫さんが店先でバケツの切花に水を撒いている。俺は上を見上げた。鉄パイプで足場が組まれた二階の窓の下に、新しい看板が取り付けられている。屋号を「フラワーショップ高瀬」に替えるって言ってたな。でも、その看板には、こう書いてあった。「高額ソープ・フラワー」。順番も逆だし、業種も違う。漢字も似ているけど違うぞ! 高瀬さんの店は性風俗店じゃない。花屋さんだ。公序良俗には反していないだろ。どうして、こんな間違いをしたんだ、工事業者! 

 俺は邦夫さんが気の毒になって、暫く彼の背中を見ていた。水を撒き終わったようなので、邦夫さんが水道の蛇口を閉め忘れていないか確認した。閉め忘れていなかった。

 安心した俺は、そのまま観音寺へと向かった。本堂の前の板張りの階段の上に腰を下ろし、イチョウの木を眺めながら暫らく考えてみる。高瀬さんご夫妻は、やっぱりいい人だった。土佐山田さんご夫妻もだ。ここの大内住職も立派な人だ。隣の阿南萌奈美さんも、悪い人じゃなさそうだ。だが、あの金のネックレスの男は悪い奴だ。あいつは、何とかしないとな。俺は暫らくそこに座って、いろいろと考えた。

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