先輩は猫だ

佐武ろく

1

 大学生活も残り半分を切ったところ。俺は家に帰る為に街中を歩いていた。


「莉来」


 すると不意に名前を呼ばれ足が止まる。だが辺りを見回してみても知り合いらしき人間どころか立ち止まってる人すらいない。ただ依然と人波は俺を異物のように避けるだけ。

 聞き間違えか? そう心の中で小首を傾げていると、脳裏に一瞬過った恐怖に背筋へ冷滴れいてきが垂れた。


「こっちこっち」


 だがそんな俺を他所にその声は傍らに伸びていた路地から再度聞こえた。俺は訝し気な視線をそこへ向けてみるが仄暗くよく見えない。

 するとカチッ、という音の後に点ったライターの火が煙草を燃やしながらその顔を照らした。ほんの数秒だったが、それで十分だった。


「先輩? 旭陽先輩?」


 しかし先輩がここにいるという事が信じられず確信のようなものがありながらもそう尋ねた。

 鬼火のようにぽつりと浮かぶ煙草の火と共に路地から出て来たその人は確かに先輩だった。白い煙を吐き出した先輩は、短い髪も耳のピアスも俺の知っているあの頃と良い意味で変わっていない。その容姿からほとんどの男子よりも女子にモテたあの時の先輩のままだ。唯一違うのはあの頃は高校の制服でスカートを履いてたが今はパンツだと言う事ぐらい。

 すると思わず懐古の情に駆られ切れ長の目をじっと見つめていた俺の手を先輩は急に掴むと、路地へ引きずり込んだ。


「な、なんすか?」

「あんな人通り多いとこじゃ、タバコ迷惑じゃん」


 そう言って煙草を吸い煙を吐き出す。


「なら吸わなきゃいいんじゃ?」

「まぁそれ言われたら言い返せないな」


 本当に何も変わらない。その少しだらけた声も。


「にしても何してるんですか? こんなとこで?」

「別に。それよりあんたは?」

「俺は、ただ家に帰る途中ですけど」

「なら呑み行く?」

「え? あっ、はい! 行きます。行きます。是非!」


 久しぶりに先輩とご飯に行くと言う事で俺のテンションは上がった。ただでさえ、久しぶりに会って上がっていたというのに。呑みにだなんて。思わず笑みが零れる。


「テンション上がり過ぎでしょ」

「だって久しぶりじゃないっすか。あっ、でも呑むのは初めてっすよね」


 ふふっ、とそんな俺を笑いながら先輩は煙草の火を消した。

 そして俺と先輩は適当な居酒屋に入ると早速、グラスの心地好い音を響かせた。


「かんぱーい!」

「乾杯」


 先輩は外見もさることながらその中身も相変わらずだった。クールと言うか落ち着いてると言うか、全てを受け流すようなそんな感じ。

 それからも時間と共に酒も進み話にも花を咲かせ俺はグラスの酒とは相反し満足に満たされていった。

 でもそんな時間もあっという間に過ぎ去り俺と先輩は店の外へ。


「先輩、これからどうするんすか?」

「別に何も予定無いけど」

「じゃあもう一杯行きましょーよ」

「んー。あんたん家って近いの?」

「まぁ、それなりにはって感じすかね。あっ、別に電車とか心配しなくても大丈夫っすよ」

「ならあんたん家行こうか」


 さらっとまるで決定事項のように先輩はそう言った。


「えっ? 俺の家っすか?」

「別に散らかってても気にしないし。なんか隠すもんあるなら外で少し待っててもいいし。ダメならいいけど」

「まぁ別にいいっすけど――ていうか隠すもんなんてないっすよ」

「じゃっ、行こうか」

「はい」


 先輩は昔からあっさりとしてる。それに駆け引きがない。突然、手を伸ばしてきたかと思えばすぐにその手を引っ込めたり。ある時なんか急に海へ行こうと言い出し、俺が「んー」と考える声を出すとやっぱりいいやと止めたり。こっちが誘ったのを断ったかと思えば急に行くと言い出したり。失敗してもすぐに何事も無かったような顔してたり。


『先輩! このピアスどうっすか?』

『ダサい』

『えっ……。マジっすか。先輩みたいなかっけーの付けれてたと思ったのに……』

『これ?』

『それっす。それ』

『――ほい。あげる』

『え? でもそれずっと付けてるやつじゃないっすか。お気に入りとかじゃないんすか?』

『別に』


 思った事を口にして、こだわりのない人。

 部屋中に広がるビールの炭酸が弾ける良い音。


「それまだしてんの?」


 俺が溢れたビールごと一口目を流し込んだタイミングで先輩が耳たぶに触れた。


「ん? あぁ。覚えてます? 先輩から貰ったやつっすよ」


 少し耳を差し出すように先輩の方へ向けながら浮かべた笑みが俺のお気に入り加減を表していた。

 すると先輩は俺の手からビールを奪い取ると口元で一気に傾けた。


「ちょっ!」


 そしてあの思わず声を出してしまう喉越しが見ているだけで伝わると、冷たいビールの缶を俺の頬へ押し付けた。


「ピアス代」

「そんなんでいいっすか? 結構安上がりっすね」


 ビールを取られてしまった俺は仕方なく立ち上がり新しいお酒を取りに冷蔵庫へ。

 それからも空き缶は増えていき、一方でおつまみが減っていった。


「先輩、もうギターやってないんですか?」

「んー。最近は弾いてないかな」


 俺と先輩は同じ軽音部で出会った。一方的な出会いはもう少し前だが。


「えー。先輩のギター弾く姿好きだったのに……。俺、一年の時の後夜祭で舞台に立つ先輩見て軽音部入ったんすよ」

「へー」

「って話したのにやっぱ覚えてないし。部活でもギター弾いてる先輩がカッコ良くて。はぁー」


 今でも鮮明に思い出せる。舞台の上で演奏していた先輩の姿を。部室でギターを弾く先輩の姿を。つい夢中になるぐらいカッコ良くて。


『おー! かっけー! 先輩めっちゃカッコ良かったです!』

『そりゃどーも』


 それにそう言って笑った先輩の顔はとても……。


「そりゃどーも。ってあんた顔赤いけど呑み過ぎじゃない?」

「っつ! 大丈夫です。――なのに先輩、全然来ないと思ったらふらーっと来てまたふらーっといなくなるんすから」

「そうだっけ」


 覚えてないと言うように軽く答えながらおつまみを口に放り込む先輩を俺はお酒片手に眺めていた。

 すると視線を感じたのかお酒を呑みながら先輩の顔がこっちへ。


「なに?」

「――猫だ」

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