第10話

                  十


 副院長室は広く豪勢だった。重厚な木彫りの彫刻があしらわれた両袖の机に、ハイバックの本革張りの椅子、毛足の長い絨毯、高価な絵画、磨かれたゴルフクラブ。部屋の中央に置かれた応接ソファーに白衣姿の恰幅のよい老人が座っている。その隣には、折の良い生地で仕立てられたスーツに身を包んだ中年女が座っていた。二人とも険しい顔をしている。そこへ手倉好信が入ってきた。彼は、ソファーの上の中年女を見て、笑顔を作る。


「なんだ、智子。来ていたのか。ああ、おはようございます、お父様」


 手倉雄大は好信をにらみ付けて言った。


「今後二度と、俺の事を『お父様』などと呼ぶな」


 手倉好信は困惑した顔を作って言う。


「どうされたのですか、いきなり。いったい、何を怒って……」


「これだよ。何だこれは」


 雄大は応接テーブルの上に書類の束を放り投げた。綴じられた書類が床に落ちる。それを拾った手倉好信は、文面に目を通した。その書類には、こう記されていた。


 ――調査報告書。

 貴殿からご依頼の調査案件につき、以下のとおりご報告いたします。


 調査対象者手倉好信は、手倉整形外科病院勤務の看護師貝原泉と不倫関係にあるものと推察される。

 当探偵事務所の調査により判明した事項は以下の通り。


1、手倉好信所有の乗用車内より検出された同人の指紋と一致する指紋が、貝原泉が居住するマンションのオートロック解除ボタン、エレベーターのボタン、同人の賃借する部屋一三〇二号室のドアノブ及びインターホンの呼出ボタンから検出された。


2、手倉好信所有の乗用車内において、プレゼント用に包装されたシルバーのネックレスが発見された。同ネックレスには、ダイヤの装飾の裏に貝原泉の名前がローマ字で刻まれている。なお、同ネックレスの購入先、購入年月日は別紙書面のとおりである。


3、調査人の嗅覚によれば、手倉好信は貝原泉と同一種の香水を使用している。これは、情交行為において体臭あるいは相手方の香水の匂いが移る事をごまかす為の偽装工作であると推測される。


4、貝原泉が居住するマンションの管理人である藤田明氏は、別紙のとおり宣誓した上で、当事務所に証言報告書を提出している。同書面によれば、手倉好信は月に数回の頻度で、貝原泉の部屋を訪れている。その際、口止め料としての金員を藤田氏に支払っている事も証言されている。なお、当事務所から藤田氏への金銭その他の利益の供与は一切なされていない事を付言する。


5、別紙調査記録に記載の最終調査日において、手倉好信は調査人に対し「妙蓮寺大助」を名乗り様々な虚言を並べた。また、藤田管理人をして虚偽内容の文書を作成させている。これらは、調査人が貝原泉を調査している事を知り、咄嗟に機転を利かせ、同人との関係を秘して調査を終了させんがための方便であると思量される。同日における調査人との会話は…… ――




 手倉好信は、その調査報告書を放り投げて言った。


「なんだ、これは。全部、デタラメです」


「じゃあ、これは何なの」


 手倉智子は写真がプリントされた用紙を机の上に並べた。それらは、エントランスで長いストレートの黒髪をかき上げている貝原泉、道路に立っている手倉好信、車に乗っている手倉好信、ハンドルを握っている手倉好信、こちらに掌を向けて眩しそうに目を細めている手倉好信、管理人に金を渡している手倉好信、車の後部座席に置かれている金のリボンが掛けられた赤い小袋、そして、それを開封した中に見えるシルバーのネックレスの画像だった。

 手倉好信は写真の上で視線を右往左往させて狼狽する。

 手倉雄大はテーブルの上に荒っぽくノートパソコンを置くと、それを操作してから、好信をにらみ付けた。


「おまえは、いつから名探偵になったんだ」


 パソコンのスピーカーから好信の声が再生されて、副院長室に響いた。


『――は決定的な証拠を押さえなければならない。しかも、大抵が、その後に離婚裁判や慰謝料請求に発展する。単に好いた惚れたの情を暴くだけじゃ――』


 手倉智子は好信に目を据えると、顎を上げて怒声を浴びせた。


「私の事をヒステリックな女ですって。言ってくれるじゃないの!」


 手倉好信はハの字に眉を下げて言う。


「誤解だよ。きっと君は騙されているんだ。あの若い探偵は、暴力団から仕事を引き受けていたと言っていただろう。そういう女だから、名前を伏せたんだよ。これも、きっと何かの罠だ。彼女は金に困っていると言っていた。上手く編集したり、画像を加工して、筋書き通りの事実を作り上げようとしているんだよ。僕をするために」


 手倉智子は激しく怒鳴る。


「ええ、騙されていたわ。ずっとね。だから、探偵を雇ったのよ。あの探偵を雇ったのは私よ! 私の依頼で動いていたのよ!」


 顔を紅潮させた手倉好信は、目を見開いて怒鳴り返した。


「な、なんだって。馬鹿な事を。あの女は相当に頭の悪い女だぞ。どうして、あんな素性のしれない素人探偵なんかに……」


 すると、ドアが開き、背広姿の中年男が入ってきた。


「それは、どうですかな、妙蓮寺先生。いや、手倉好信先生でしたな」


「あ、あんたは、誰だ」


 そのチョビ髭の中年男は、困惑している手倉好信に警察バッヂを見せて言った。


「県警本部捜査一課警部の賀垂がたれと申します。実は、その探偵さんからこんな音声データが送られてきましてな。先生にも確認していただきたい」


 賀垂警部は顔の横に上げたICレコーダーのスイッチを押し、音声を再生した。手倉好信の声が聞こえる。


『で、君、持ち金は……』


 続いて雀藤友紀の声が聞こえた。


『ゼロです。だから、頑張らないとって思って……』


「――ああ、いやいや、ここじゃないな」


 賀垂警部はしかめ面でICレコーダーを覗き込み、一度再生を止めた後、早送りらしき操作をしてから、再度音声を再生した。再び手倉好信の声と、それに続いて雀藤の声が聞こえた。


『何やってるの。ほら、オートロック解除の暗証番号を入力しているよ。中に入っちゃうじゃないか』


『じゃあ、行ってきます!』


「もう少し後か……」


 そう独り言を呟いて、賀垂警部はまたICレコーダーを操作した。そして、「ああ、ここだ、ここだ」と言ってボタンを押し直したICレコーダーを手倉の方に向けた。レコーダーから三度、手倉好信の声が聞こえてくる。だが、続いて聞こえた声は、今度は雀藤の声ではなかった。


『女がそっちに言ったぞ。気を付けろ。エレベーターには乗るな。女に気付かれないようにして、裏口から何とか出ろ』


『あ? どういう事だ。さっきは、十三階の女に話は通してあるって言っていたじゃねえか。部屋の中に入って、窓の前に立てば、金をくれるんだろ』


『事情が変わったんだ。とにかく、裏口から逃げろ。東へ走れ。ミニスカートの女に捕まるなよ。写真にも気をつけるんだ』


『どうなっているんだ。急に人を呼び出してを頼んでおいて、さっきは急に、かと思ったら、今度はかよ。コロコロと指示を変えやがって。俺をからかっているのか』


『違う。とにかく、行け。俺が追いかけていくから、適当に逃げるんだ。東の公園で待っていろ。金はそこで渡す』


『分かった。東の公園だな。こっちは本当に逃げるのに金がいるんだ。現金だぞ。いいな』


『分かった。早く行け』


 ICレコーダーのスイッチを押して再生を止めた賀垂警部は、手倉好信に鋭い視線を向けながら、チョビ髭を動かした。


「先生。この男は『人殺し』と言っているように聞こえるのですが、これは聞き間違いですかな」


「あ……いや、それは……その男が勝手に言っているだけで……」


「では、こちらは、どうです?」


 賀垂警部はもう一度ICレコーダーのスイッチを押すと、今度は別の音声データを再生させた。聞こえてくる声は興奮気味で早口である。


『――私だ。手倉だ。昨日は悪かったな。計画変更だ。探偵の女ではなく、貝原泉を殺してくれ。しかも、急いで欲しい。あの女、堂本会の組長の婚約者だったようだ。これ以上、関係を続ける訳にはいかん。探偵の方は上手く取り込めたから、問題ない。後は泉だ。彼女の口を封じなければ、こっちが堂本に殺される。報酬は三倍に増やそう。泉には旅行に行かせる。後は分かるな。彼女が行方不明になればいいんだ。所持品も全て処分して……』


 再生を止めた賀垂警部は、ICレコーダーをポケットに仕舞いながら言った。


「貝原さんは署の方で保護しています。――で、いったい誰に電話していたのですかね」


「あ、いや、それは……」


 賀垂警部は、ポケットから取り出した写真を手倉好信の顔の前に突き出して見せた。


「この男ではないですか」


 賀垂警部は言う。


「名前は富樫健治とがしけんじ。手配中の男です。半年前に我々が追い詰めたのですが、逮捕直前に逃げられましてね。こいつ、その前日に顔に大怪我をしているんですよ。近所の猫にやられたとかで。あなた、その治療をしていますね。その時に奴の素性を知った。違いますかな。で、今回、奴を利用した。逃走資金の提供を餌に。自分と貝原さんの関係を何者かが調査している気配を察したあなたは、奴にその探偵の殺害を依頼。しかし、貝原さんが堂本組長の女だと知り、殺害対象を貝原さんに切替えた。しかも、遺体の隠匿も。そうでしょ?」


 手倉好信は目を左右に動かしながら呟いた。


「どうしてだ……どうして、こんな……」


 部屋の中を見回していた賀垂警部は、机の上のペン立てに刺さっている雀のマスコットを載せたボールペンを見つけると、それを指差した。


「そのボールペンですよ。ご婦人が依頼した探偵が、あなたに渡したものでしょう」


 手倉好信は慌てて机に駆け寄ると、そのボールペンを手に取った。雀のマスコットを見回しながら言う。


「まさか、これ……盗聴器なのか。だとしたら、違法じゃないか。証拠能力は無い」


 賀垂警部は首を横に振った。


「いやいや、その時の会話も聞かせてもらいましたが、あの方法なら、彼女に違法性はないですなあ。あなたが望んで手許に置いている。我々は、証拠として使用するつもりです」


「そ、そんな……」


 賀垂警部はチョビ髭を傾ける。


「ご心配は無用です。先生は実に運がいい。まず、貝原泉さんが暴力団幹部と交際していたという話は嘘ですよ。彼女は、あなたが貢いでいた金で、あの部屋の賃料を支払っていただけです。つまり、あなたに身の危険は迫っていなかった。よかったですなあ」


「しかし、堂本組長さんから電話が……」


 混乱した顔の手倉好信に、賀垂警部は言った。


「ああ、それは、雀藤さんが所属する探偵事務所の所長さんらしいですわ。やられましたなあ、先生」


 手倉好信は手に握ったボールペンの先の雀のマスコットを見つめながら、呆然とした顔で言った。


「じゃあ、泉についての話は、全部、あの新人探偵の作り話だったのか……」


 賀垂警部は言う。


「新人? 違いますよ。公安委員会の方で探偵業の届出事項を確認しました。雀藤友紀。調査員歴十年。警察も信頼する、すご腕調査員です。一応、調査業協会にも探偵業協会にも問い合わせたのですがね、どちらの技能認定資格も全て取得している。全部、満点で合格だそうです。結局、ダブル・クロスだったんですよ、だぶるくろす。向こうが一枚上手だったという事ですな。ああ、そうだ。その発信器も彼女が自分で作ったそうですよ。携帯の音まで拾う、超高性能の集音機能付の発信器らしい。いやあ、大したものだ」


 ボールペンを机の上に置いた手倉好信は、賀垂警部に厳しい顔を向けた。


「すずめ探偵事務所は!」


 賀垂警部は笑いながら答える。


「そんな事務所は存在しませんよ。あなたも言っていたでしょう。名刺なんて物は簡単に作れると。彼女は別の探偵事務所に所属する調査員です。それにしても、調査員が真横で自分を調べていたのに、気付かないとは。先生も焼きが回りましたな。ああ、そうか。彼女、美人だし、スタイルもいいですからな。出る所も出ていて。まさか、あわよくば彼女に鞍替えようとでも考えていましたかな。うーん、残念ですが、それは無理ですな。だって……」


 彼は、手倉好信を強く指差して言った。


「あなたは、刑務所行きだから」


 手倉好信は膝から床に崩れ落ちる。その振動で、机の上からボールペンが落ちた。手倉の前に転がったボールペンの端で、雀のマスコットが片笑んでいた。


                                       了



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