第2話

                  二


 雀藤友紀は目を丸くしていた。ハッとした彼女は、背筋を正して挨拶する。


「あ、同業者の方なんですか。失礼しました」


「ちょっと、君。声が大きいよ」


 妙蓮寺大助が忍び声でそう言うと、雀藤は再度頭を下げた。


「すみません……」


 そして、上目使いで妙蓮寺の顔を覗き込みながら言う。


「あのう……。よろしければ、お名刺を……」


 妙蓮寺は鼻から息を吐いて答えた。


「ほら。さっき言ったでしょ。相手の素性も確認できないのに、名刺を渡しちゃ駄目だって。僕は君の確認をしていませんよ。確かに君から名刺は貰いましたが、名刺なんてものは、いくらでも自由に作れる。君、団体の方に届けは出しているの」


「あ、開業の届出ですか? はい。一応。警察経由で公安委員会の方に、ちゃんと」


「そうですか。法律を守らない、モグリの業者も多いからね。じゃあ、資格も持っているんだね?」


「あ、ええと。調査業協会の方の認定資格なら、いくつか」


 妙蓮寺は、けんのある言い方で尋ねた。


「何と何」


 雀藤は下を向いて小さく答える。


「探偵業取扱者の方を。探偵業務主任者の方は、点数が足りなくて、また次回の試験を受けようかと……」


 鼻で笑った妙蓮寺は、少し上を向いて言った。


「あ、そう。僕はどちらも取得していますよ」


「そうなんですか。すごい」


 妙蓮寺大助は言う。


「でもね、あんなものは、所詮は試験ですよ。我々の仕事は現場の経験を重ねてこそ、意味がある。実際、僕も資格を取得したのは何年も前だし、勉強した事なんて覚えちゃいない。それでも、こうして第一線で仕事をしています」


 雀藤は顔を曇らせると、少し遠慮気味な声で先輩探偵に言った。


「でも、やっぱり、必要な知識ですよね。探偵業法とか……」


 妙蓮寺は何度も細かく首を縦に振った。


「それはね。だけど、現場には現場のノウハウってものがあるでしょ。しかし、弱ったなあ。君が届出をしている事は、明日にでも確認すれば名前が出てくるのだろうけど、そうなると……」


 妙蓮寺は左右の肘を抱えて、眉間に深く縦皺を刻んだ。雀藤は不安そうな顔で尋ねる。


「どうかされたのですか」


「いやね、僕も散歩に来ている訳じゃないんだよ。君の届出情報を知るとなれば、その理由がいるだろ。この状況を説明しないといけない。そうなると、僕が今日、この時間に、ここに居た事を、第三者に表明する事になる。だから、君が本当に警察に届けているのかを確認する事ができないなあと思って」


 雀藤は首を傾げた。


「状況を説明したら、何か問題でもあるんですか」


 妙蓮寺は驚いたように目を見開いて、両肩を上げる。


「大ありじゃないか。僕らの仕事は秘密の確保が第一だ。隠密性、これが大事なんだよ。君も、これから厳しいこの業界で生き残りたいなら、覚えておくといい。仕事の秘密は絶対だ。それを漏らしたり、簡単に他人に知らせたりした探偵は、同業者から信用されない。そうなると、もう、ほとんど仕事はできないよ。だから、共同で仕事をする相手以外には、例え同業者同士でも、決して何の調査をしているかなんて話はしないものさ。その証拠に、開業したら、他の仲間からノウハウを教えてもらえる事も少ないだろう?」


 雀藤は顎に手を添えて上を向く。


「そうですね。確かに……」


 妙蓮寺は雀藤を指差した。


「ほらね。僕は、そういうところが嫌で、協会とは距離を置いているんだ。だけど、こうして仕事は続けている。結局、お客さんのニーズに答えられるか、そこが問題なんだよ」


「なるほど……。勉強になります」


 何度も細かく頷いた雀藤は、動きを止めて顔を妙蓮寺に向けた。


「で、お名刺は、いただけないのですか」


「あ……うん。まあ、実は、名刺を持ち歩いてはいないんだよね。君も、そんな目立つ名刺入れなんかに入れて、名刺を持ち歩かない方がいいよ。いつ、悪者に捕まって、どこの誰か調べられるって事にもなりかねないからね。事業が軌道に乗り出すと、必ず危険な仕事に出くわすものさ。命の危険にかかわる仕事にね。僕も以前、何度か危ない目に遭った事がある。前の前の場所で事務所を構えていた時に、持ち歩いていた名刺から、僕の事務所の場所が相手に知られてね。夜中に忍び込まれて、殺されかけたんだ。それ以来、任務中は絶対に名刺は持ち歩かないようにしている。この携帯電話にも、個人情報は一切入力していない。探偵は用心には用心を、これ、基本だからね」


 雀藤は左右の眉を精一杯に中央に寄せて、深刻な顔で呟いた。


「そうなんですか。この仕事って、そんなに危ないんですか」


 妙蓮寺はまた、驚いたような声で言う。


「なんだい、そんな事も考えずに、この仕事を始めたのかい?」


 雀藤は下を向き、口を尖らせた。


「だって、不況でなかなか就職が決まらなかったですし、いつまでもバイト生活している訳にもいきませんから……」


「だから、探偵を始めたのかい。――まあ、長年やってきた経験から、少し厳しい事を言わせてもらうけど、君、生き残るのは無理かもよ。経営的にも、現実的にも」


「どうしてですか」


「だって、護身術も身につけていないんだろ? じゃあ、身を守れないじゃないか。だからと言って、用心棒を雇うお金も無い。まあ、月に一度は殺されかける仕事だから、運がよければ、来月までの命だね。ご愁傷さま」


 冷たく言い捨てた妙蓮寺の言い方に、雀藤は泣きそうな顔になった。


「そんなあ……」


「悪い事は言わないよ。君、まだ若いのだから、普通の仕事に転職しなよ。僕が何社か知っているから、よかったら紹介しましょうか」


 一瞬考えた雀藤友紀は、顔を上げてはっきりと答えた。


「――いえ。お気遣い、ありがとうございます。でも、この依頼を放り投げる訳にはいきませんので。初めて舞い込んだ依頼ですし」


 それを聞いて、妙蓮寺は表情を崩した。


「ありゃりゃ。じゃあ、今日が初仕事なんだ。探偵デビューで、いきなり張り込みかあ。無茶したなあ」


 雀藤は精一杯に怪訝な顔をして尋ねる。


「あのう……、妙蓮寺さんって、この近くで事務所を持たれているんですか」


「ああ、ここからは、ちょっと遠いね。まあ、また別の場所に移るつもりだけど」


「事務所移転される予定なのですか」


「そりゃそうだよ。言ったろ。僕らの仕事は危険だって。悪者を相手に、つまり、正しい人や弱者の味方になって仕事をしている探偵は、大抵が、定期的に事務所を移しているよ」


 雀藤は目をパチクリとさせていた。デジタルカメラを胸の前で握り締めたまま、彼女は固まっている。そして、小声で独り言を吐くように言った。


「そうなんですか。そういう事が必要になるんですね。どうしよう……開業ハウツー本に載ってなかったので、計算に入れていませんでした。お金がかかりますね……」


 妙蓮寺は苦笑いしながら手を振る。


「あんな本は、デタラメだよ。この仕事は、報酬も高いけど、経費もかかる。尾行の際の交通費や、通信費はもちろん、事務所のセキュリティーなんかにも、結構に金がかかるものさ。それに、実際には定期的に最新式の機材を買い替えないと、仕事はやっていけない。だからといって、安定的な収入がある仕事でもない。難しいよ、この仕事を続けるのって」


 雀藤は溜め息を漏らし、肩を落とした。


「そうなのかあ……失敗したなあ……」


 項垂れている雀藤を横目で見ながら、妙蓮寺は尋ねた。


「開業資金は、どうしたの。どこかから借りたの?」


「いえ。貯金を全額使って。ほとんど、今の事務所兼アパートを借りるお金で無くなっちゃいました。あと、名刺作って、このデジカメを買って……」


「で、残金ゼロかい。あっちゃー。それじゃ、この仕事は何とか遣り遂げて、報酬を貰わないといけないね」


「そうなんです。だから、必至で……」


 雀藤がそう言っている途中から、妙蓮寺は彼女の肩に手を掛けて言った。


「ああ、他の住人の車だ。ほら、後ろ向いて。向こうに歩こう」


「どうして、こっちに……」


「いいから」


 二人の探偵は高級タワーマンションに背を向けて、通りを歩いていった。


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