夫婦と花火 第一話

 なにかしたいことある?


 春のある日、キッチンで昼食の焼きそばを作りながら、リビングでソファに座りテレビを見る妻にそう問いかけた。彼女はソファに座ったまま、うーんと両手を組んで考え込んでしまった。


 ないならないでいいのだ。


 このいつもと同じ日常を大事に生きればいいだけなのだから。


 しばらくして妻ははっとして何か思いついた顔をした。


 「あれしかないわ」


   そう言うと立ち上がりキッチンまで来て、鼻息荒く俺の隣に立った。


 「あれって?」


   「フェスよ!!!花火大会フェス」


    彼女は言葉にすると、何度もうんうん、と頷いて、やっぱりこれしかないわ、と呟いた。


 意外すぎる回答だった。想像すらしていなかった。


 確かに俺たち夫婦にとって花火大会は思い出深いイベントではあるが。


 だって、妻は末期癌で余命半年と言い渡されたばかりだったのだから。








 なんとなく、人生を"上がった"気でいた。五年前に妻と結婚し、二年前に小さな家を買い一年前に息子の翔太が生まれた。


 これで、俺も死ぬまで働かなきゃいけなくなったな。とか、あとは翔太の成長を見守るだけだな。とかボンヤリと考えていた。


 冬が明けて、少しずつ暖かくなってきた金曜日の夜。いつものように翔太を寝かしつけた後、俺たちは机を囲んで晩酌をしていた。


 金曜の夜、二人で晩酌をするこの時間だけはお母さん、お父さんではなく、恋人同士に戻れる。この時間が密かな俺の楽しみだった。


 ビールを少し飲んだ後、妻はそう言えばと話しだした。


「私、癌らしい。ガーンって感じだよね」


   まるで今日は天気がよかったね、くらい軽い口調でそう彼女は言った。


 俺は思わず、口に含んでいたビールを全部吐き出してしまった。


 「もう、喜一郎、汚いよ」


   そう言って妻はティッシュを取り出して、俺の服をポンポンと叩いた。


 「わかった、近々エイプリルフールだからそんなこと言ったんでしょ?うーん、十点満点中五点くらい」


 俺はそう言って、彼女の事を指差して笑った。


   彼女は少し微笑んで、本当よ、と言いニッと笑った。


 「嘘嘘嘘だ。だって、聞いてないし」


   「今日、病院で言われた。ほら、会社の健康診断で再検査項目あったって言ったでしょ。病院で診てもらったら見つかったの」


  「・・・治るの?」


  「無理みたい」


  「え・・・」


  「余命、六ヶ月だそうよ」


  「何と言うか、それは、ガーンだな」


 俺はそんな下らない事しか言葉が出てこなかった。


 「でも、今の医療って進化してるし、手術とかさ、抗がん剤とかさ、ほら、よく分からねえけどさ」


  「延命程度にしかならないって。それにそんなことしたら入院しなきゃダメじゃない。私、嫌よ、病院のベッドで死ぬなんて。どうせなら、家であなたと翔太に見守られて逝きたいの。病院で聞いたんだけど、今は在宅での治療も」


   彼女は緩和ケアだとか、ホスピスだとかの話をとうとうと語り始めたが、全く耳に入ってこなかった。俺の頭も身体も空っぽになってしまい、何も考えられず、少しも身体を動かす事も出来なかった。


 妻が死ぬ。それもあと少しで。





 


 妻とは幼馴染だった。俺の人生には常に彼女がいた。彼女は俺で、俺は彼女だった。一心同体だと思っていた。彼女が死ぬときは俺の死ぬときだと、そう考えていた。


 彼女との思い出を振り返るとき、いつも初めに思い浮かぶのは花火だ。


 毎年、花火を見に行くのだが様々なことがあった。二人の初デートも花火大会だったし、プロポーズをしたのも花火大会でだったし、翔太の妊娠を告げられたのも花火大会だった。


 毎年、花火を見ると少しだけ儚い気持ちになる。空を登って咲き乱れる花火、輝くのなんて一瞬で後は暗い夜空しか残さない。余韻に浸る間も無く続け様にまた花火が打ち上がる。


 一秒にも満たない時間しか咲かない花。そんなものを見ると、人間だってあっという間に死んでしまうのだろうと思えてくる。


 永遠に咲き続ける花などない。我々は常に終わりに向かって生きているのだ。だからこそ、今の日常を大事にして生きようと思えるのだ。だが、妻との別れはあまりにも早すぎた。





 彼女の行動は早かった。


 フェス!!!と彼女が言い切った翌日、俺が仕事から帰ってくると、リビングで彼女は左手に翔太を抱っこしながら、器用に右手でなにやら書いていた。


 「何書いてるの?」


   「企画書よ。フェスをするんだもん、当然でしょ」


   「フェスって・・・フェスそんなに好きだったっけ?」


   「行ったこともないわ。でも、いいの、フェスがしたい」


   「ちょっと見せて」


  そう言って紙を覗くと、いやーっと言って彼女は紙をパッと裏返した。


 「まだ秘密。ふふふ」


   「そう言えば、今日は帰り早いね」


 妻はいつもならこの時間まだ会社で働いている筈だ。


   「うん、会社辞めてきたから」


   「辞めた!?」


  「これからはあなたと翔太と一分一秒でも長くいたいから、それに、前から仕事はそんなに好きじゃなかったからね」


   妻は外国語学部を出ていて、そのスキルを活かして翻訳の仕事をしていた。俺はてっきり彼女は仕事を生き甲斐にしているとばかり思っていたから意外だった。


 「そうか、なら俺も出来るだけ早く帰るようにするよ」


    「そうしてくれたら助かる」


   「フェスの他にやりたい事はないの」


  「うーん」


  「俺はなんでもしてやりたいんだ。お前のやりたいこと全部何でも叶えたい。何でもいいから言ってくれ」


  「ないね。ほら、続き書くから、あなたはご飯の用意して」


   妻はそう言って笑うと、手をひらひらとさせ、あっちに行ってと言った。


 俺はキッチンに立ち、夕飯を作ることにした。昨日、癌患者にオススメの料理をネットで調べていたら、高タンパク、高カロリーのモノがいいと書いてあったので、今日は餡掛け親子丼を作ることにしていた。


 「次に病院行く時は俺もついて行くよ」


 俺は鶏肉を切りながらそう言った。


   「いいわよー、そんなことしてくれなくて、ほら、一人の方が色々と先生と話しやすいしね」


  妻はあっけらかんとそう言うとまた何かを書き始めた。





 夜、眠れずに身体を起こす。隣で妻はイビキをかいて寝ている。


 その顔をマジマジと見つめてみる。


 切れ長な目、豊かな髪、白い肌、赤くて小さな口、彼女に変わった様子はどこもない。ただ、彼女の身体の中で癌細胞は広がり、彼女の身体を蝕んでいる。


 もしも、癌細胞が肉眼で見えるくらい大きかったら俺はそいつのことをぶん殴って、ボコボコにして、俺の女に手を出すなと言って、二度と目の前に現れるじゃねえぞと家から叩き出してやるのに。


 俺は彼女を起こさないようにゆっくりと身体を起こした。


 リビングまで行き、キッチンにある小さな明かりだけつけて一人ソファに座る。


 二階では妻が寝ている。俺の人生で一番大切女が寝ている。


 そう思ったとき、心が強い力で締め付けられるのを感じた。


 俺は今、妻を失おうとしている。


 様々な感情が波になって襲ってくる。


 妻は幸せだっただろうか。


 俺はダメな男だった。決っして美男ではないし、優柔不断な所もある。それで彼女を悲しませたこともあった。


 そんな俺といて、本当に彼女は良かったのだろうか。


 彼女の家庭は少し複雑で、それを間近でずっと見てきた。


 もしも、違う男ならば、彼女の事をもう少ししっかりと支えられたのではないか。


 もし、違う男と結婚していたのならば、彼女は癌にならなかったのでは。


 なぜ、彼女はあんなにもあっけらかんとしているのだろうか。俺はこんなにも弱っているのに。気丈に振る舞おうとしているのだろうか、それにしてはあまりにもいつも通り過ぎる。少し前までは彼女の考えは手にとるように分かったのに今は少しも分からない。


 これは俺が混乱しているからだろうか。


 情けない、俺がしっかりしなくてどうする。俺は彼女の夫なんだぞ。翔太の父親なのだぞ。この家の大黒柱なんだぞ。もっとしっかりしろ。


 涙が溢れそうになったが、俺は自分の顔を何度もグーで握った拳で殴りつけてそれを抑えた。


 馬鹿者、泣くな。本当に辛いのは彼女の方なんだぞ。俺がないてどうする。


 彼女がいつも通りを望むのなら、俺もいつも通りにしなきゃダメだろうが。


 結婚した時に決めただろうが、彼女を笑わせ続けるって。


 俺はそっと忍足でリビングを出ると、一階にある翔太の部屋に入った。明かりを付けることなく、足音を立てないよう細心の注意を払ってベビーベッドで寝ている翔太の顔を見つめた。


 丸くて柔らかい頬、母親に似たパッチリと大きくて切長な目、俺達の天使。


 翔太の事を見ていると勇気が湧いてくる。しっかりしなきゃと身体に力が湧いてくる。


 翔太、お父さんに力をくれ。


 安心して眠れ、俺が必ず立派に育ててやるから、幸せにしてやるから。


 だから、どうか君も安心して欲しい。


 俺は最後の時まで絶対に泣くものかと、彼女と翔太に誓った。











 「フェスの準備なんか手伝うことある?」


   「よくぞ聴いてくれた」


     土曜日の朝、妻に聞くと、彼女はそう言って、ドタドタと階段を駆け上がっていった。


 戻ってくると両手いっぱいに封筒の束を抱えていた。


 「今から封入するから手伝って」


   「これは?」


  「招待状を入れる封筒よ」


   「本格的だな〜」


 「私、翔太見てくるからお願いねー」


 「そろそろ全容を教えてくれてもいいんじゃない?」


   「だめよ、だって、これはあたし主催のフェスなんだから」


   妻は封筒の束、それに住所のリストをリビングの机の上に置き、また二階に駆けて行った。俺は座り込み、リストを見ながら封筒に住所を書き込んでいく。


    リストにはざっと三十人くらいの名前が書かれていた。


 妻の昔の友達、恩師、それだけじゃない、俺の友達まで名前が書かれている。よくもまあ調べたものだ。リストの名前を見ているうちに、ある人の名前を見つけた時、俺はハッとした。


 彼女の父親の名前だ。妻の母親は彼女が高校生の時に亡くなっている。それからは父と娘の二人暮らしだったが、折り合いが悪く、彼女が大学に入学して以降会っていないと聞いていた。


 その時、俺はフェスの目的を悟った。


 これは生前葬なのだ。


 妻は自らの人生の最後を自らの手で締めくくろうとしている。


 その時、妻と花火が重なった。


 一瞬だけ、咲き誇る花火。


 彼女は彼女なりのやり方で咲き誇ろうとしているのだ。


 そして、それを知った時、俺は困惑した。 


 俺に何が出来る。彼女の為に、一体何が出来るのだ。


 本当に死ぬのか、嫌だ。死んで欲しくない。ずっと側にいて欲しい。


 そればかりが頭を巡って建設的な考えが一切思い浮かばない。


 心の中で不安とイライラが入り混じり、それは出口を求めて喉元まで迫り上がってきた。


 もう少しで叫んでしまいそうになった時、リストにおかしな名前を発見した。


 『カーフェスの皆様』そして右隣には事務所であろう場所の住所が記載されている。


 カーフェスは妻と俺が大ファンのバンドだ。


 「あら、気づいた?」


    いつのまにか隣にいた妻がいたずらっ子のような声を上げた。 


 「カーフェスって、プロじゃん」


   「フェスって言ったでしょ。やるからにはバンド呼ばないとね」


   「来てくれるわけないよ。だって、大人気のバンドだぜ」


  「来てくれるわよ、だって、死にかけのファンがいるんだもの、あの人達なら絶対来るわ。それに、カーフェスなんて前座よ。トリはスッゴイ人を呼ぶつもりなんだから」


   「カーフェスよりスゴイって誰だよ」


   「それはまだ秘密。ほら、書き終わったら、この紙を詰めてって」


   そう言って渡されたのは招待状だった。





 『不躾なお手紙、誠に申し訳ありません。実は私うっかりガンになってしまいました。ガーンです。


 残された時間をどう使うか考えましたが、人生の最後に皆さまと楽しい時間が過ごせたら最高!!!と言う結論に至りました。 


 そこで、来る八月の第二週に行われる某花火大会の日に合わせ、極秘のフェスを開催しようと思っております。


 是非、ご来場頂けましたら幸いです』


 締め括りには彼女の名前と会場である堤防沿いにある高層ホテルの名前が書いてあった。








 「見ろよ、ほら、あそこ、ガラス張りになってて、花火が綺麗に見えるんだろうな。俺らがこんなにもみくちゃになって見上げてるのに、優雅なもんだよな」


  二年前の夏、花火大会で人でぎゅうぎゅう詰めの堤防の上、俺は彼女にそう言った。


 「赤ちゃんが出来たみたいなの」


   花火を見上げていたら、彼女は隣で唐突にそう呟いた。


 「本当?」


   「嘘でこんな事言わないでしょ」


   俺は隣の彼女を見つめる。


 焼きそばやたこ焼きの出店から漂うソースの焼ける匂い、そして綿菓子屋やリンゴ飴の甘い砂糖の匂いが立ち込める堤防の上。


 ボンヤリと等間隔で並ぶ街頭と出店の光しかないものだから薄暗くて、彼女の顔は凹凸の影ができる。その顔は少しだけ控えめに笑っていた。


 「本当?」


   「だから、本当だって言ってるじゃん」


   「やった、やった、やったー!!!」


  俺は思わず大声で叫んで飛び跳ねていた。


 「ちょっと、声大きいって、馬鹿」


  そう言って俺の手を持ち、落ち着かせようと彼女はしたが、その時の俺は本当に舞い上がっていて、まったく落ち着きなんてしなかった。


 俺はその彼女の手を両手で握りしめて、彼女の顔を見据えた。


 「俺さ、大事にするよ。今まで以上に幸せになろう。俺もっと頑張るから。嬉しいな。本当に嬉しい。もっとしっかりしなくちゃ、だってもうパパなんだからな」


   鼻息荒く捲し立てる俺を見て彼女は笑った。


 「ダメ」


   「え、何が?」


  「頑張ろうとか、しっかりしなくちゃ、なんて考えないで、私はいつも通りのあなたでいいの。ありのままのあなたが大好きなんだから」


   俺はその言葉でほんの少しだけ泣いた。嬉し泣きだ。幸せの絶頂だった。


 そして、彼女の言葉通り、ありのままの自分で彼女と、そして翔太と向き合ってきたつもりだ。


 でも、今はそのありのままがよく分からない。


 いつも通りの俺って一体どんなだったっけ。





 六月のある日、雨が降りしきる中、車をコンビニに止めてボンヤリと考え事をしていた。


 最近、こう言う日が何度もある。


 家に帰りたくないのだ。


 どんな顔をして妻に会えばいいか分からないのだ。


 妻はきっといつも通りの俺を求めているだろう。でも今俺はいつも通りになんて振る舞える気が全くしていない。


 妻は順調に衰弱している。少しずつ食べる量が少なくなり、そして、少しずつ痩せてきている。その姿を見るのが耐えられない。でも、ツライ顔を見せる訳にもいかない。そして、妻の側から離れる訳にも、その姿から逃げる訳にもいかない。俺は彼女の隣にいると結婚した時に決めたのだ。


 なのに、俺はこうして、たまにコンビニに車を止めて少しだけ遅く家に帰る。


 そうしている自分が大嫌いだった。でも、そうでもしないときっと俺は彼女の前でどうしようもなく情けなくなってしまう。


 家では妻と翔太が待っている。帰らなければ、帰らなければと思う程に帰りたくなくなる。


 項垂れて車のハンドルに顔を埋める。


 先程、帰りが少し遅くなると連絡したところだ。


 あと十分だけこうしたら帰ろう。


 本当は泣き叫びたかった。


 俺の愛する人がゆっくりと目の前で死んでいく。俺は何も出来ない。無力だ。情けない。どうしてもそんな感情に心が支配されてしまう。


 本来ならば、気丈に振る舞っている彼女を支えてあげるべきだろう。彼女の肩を抱いて大丈夫だよ、と言ってやらなければならない。でも、それが今の俺にはどうしても出来ない。


 悶々とした心を紛らわす為にカーラジオをつけた。


 『遂に決定、実写版魔法少女きゅるりん桃香、近日上映』


    今の俺とは不釣り合いな明るい声でラジオからそう流れてきた。


 魔法少女きゅるりん桃香、確か結構昔にやっていたアニメだな。


 最終回どんなだったっけ。


 俺はアニメの主人公に嫉妬している自分に気がついた。


 彼女は歳を取らない、ガンにもならない、永遠に生き続けられる。その永続性に対して激しい怒りを感じた。


 彼女は枯れない花なのだ。咲き続ける花。


 今まさに、妻は枯れようとしているのに。


 『魔法少女きゅるりん桃香総監督の田邊敦彦です。一度は終わったと思っていたこのシリーズが復活し、また皆さんと再会できたのは一重にファンの皆さんがずっと桃香と共に生き、応援してきてくれたお陰です』


    苦々しい思いでその言葉を聞いた。もう、これ以上聞きたくない。俺はラジオを消して車を家に向けて走らせた。


 


 玄関を開けた時には異変に気がついた。


 翔太の泣きじゃくる声、それ以外生活音が一切聞こえない。


 血の気が引いていく。俺は靴を脱ぐことも忘れて、リビングに向かって走っていた。


 リビングで、妻は倒れていた。


 





 「命に別状はないからね、安心してね」


  医師の部屋で丸椅子に座り、向かいに座る医師にそう告げられ、ホッと胸を撫で下ろした。


    翔太は俺の母さんが妻の病室で面倒を見てくれている。


 思い出しただけで震えてくる。


 倒れている妻を見つけた時、思考がストップして、見えている筈の光景が理解できず、まるで抽象画を見ている。そんな気持ちになった。


 しばらく、彼女の前に立ち惚けてしまっていたが、翔太の泣き声が俺を現実に戻した。


 翔太がリビングのソファにゴロンと寝っ転がり在らん限りの声を出して泣き叫んでいる。


 すまない、翔太、俺はお父さんなのに、こんな時に動けなくなっていた。


 すぐさま俺は妻のかかりつけの病院に電話をかけ、妻は緊急搬送される事になった。


 「貧血だね、ガンを発症するとなりやすくなるから、今後は注意して下さいね」


   初めて会った妻の担当医は日比野と言い、のっそりとした大柄な中年だった。身体は大きいが顔はカバにそっくりでどこか愛嬌がある。


 「この調子ならすぐに退院できるでしょう。私からの説明は以上です。他に何か聞きたいことはありますか?」


   日比野先生はゆっくりと落ち着いた声でそう言った。


 日比野先生の目は穏やかで、それでいて、俺の心の奥まで見通しているような静かさがあった。


 「これは、質問と言うか、相談になってしまうのですが」


   俺は口籠もりながら、しかし、確かに口を開いた。


 「分からないのです。妻の気持ちも、自分の気持ちも。妻はまるで、何事もなかったかのような、普通の、今まで通りのように日々を過ごしています。少なくとも俺の前ではそうやっていてくれています。だから、俺も同じように、何事もなかったかのように、いつも通りの自分を心がけて毎日暮らしています」


 そこまで言って、俺は片手で自分の顔を覆い、項垂れてしまった。


 「でも、俺にはそれが耐えられないのです。いつも通りなんかじゃいられやしない。彼女はもうすぐ死ぬ。そう思うだけで彼女を救えない自分に腹が立って、悲しくなって、苛立って、頭がおかしくなりそうなんです。でも、本当に辛いのは彼女の方なのだから、彼女が気丈に振る舞い続ける限り、俺が弱音を吐くわけにはいかない。せめて、彼女に何かしてあげたらいいのだけれど、彼女はして欲しいこともないと言う。一体、俺はどうしたらいいのでしょう」


    そこまで言い切ってしまった後、俺は両手で顔を覆って、背を曲げ、まるで卵の様に丸くなってしまった。


 暗闇の中に逃げてしまいたい気持ちだったのだ。


 「よく話してくれましたね」


    日比野先生は短い沈黙の後、優しく、穏やかにそう言うと、俺の肩に手を置いた。


 「少し時間はありますか、外に出て話しますか」


  


    暗闇の中で雨が降りしきっている中、俺と日比野先生は屋根のある小さな喫煙所のベンチに腰を下ろしていた。


 雨がアスファルトの地面を叩く音だけが聞こえる寂しい夜だった。


 「すいませんね、と言って吸うんですけど。私、どうにもちゃんとお話しする時、タバコを吸ってないとダメなタチで。いや、勘違いしないで下さいね、患者さんの家族の前で吸うのはこれが初めてなんですから」


   薄暗い中で隣に座る日比野先生が恥ずかしそうに笑いながらタバコに火をつけて、ふっと煙を吐き出した。


 「あんまり患者さんのプライベートな事にまで突っ込んじゃダメなんですよ。当たり前ですけどね。本来はケアの専門家が対応して然るべきなのですよ。ただ、本当は良くないのですが、私、奥様ととっても仲良くなってしまいましてね。これも本来はダメなことなのです。患者さんに対して友情を抱くなど、客観的に接する事が出来なくなりますからね」


   私はダメな医者ですよ。と日比野は自重気味にまた笑った。


 「奥様、とても面白い人ですね。素敵な人だ。彼女と話しているとついつい心を開いてしまう」


    その言葉に俺の心はほんの少しだけ暖かくなった。そうなのだ、俺の妻は優しくて、それでいて、一緒にいると心が落ち着いて、世界中探しても、こんなにいい女は一人もいない。そう思える様な人なのだ。


 「それには俺も同感です。彼女は素晴らしい。俺には勿体ないくらいです」


   「でも、奥様はあなたと出会えたから今の自分になれたと話していましたよ」


   その言葉にハッとして、日比野先生の方を見つめる。いつのまにか先生は身体を横に向けて、あらぬ方向を見つめながらタバコをぷかぷかとふかしていた。


 「あなたに見つけて貰うまで、人生は下らないものだと思っていたと、彼女はお話ししておりました」


    ザーザーと雨の音だけが聞こえる。


 「彼女は時に怒り、泣き、激しい感情の波の中にいましたが、彼女はあなたとお子さんの前で涙だけは見せまいと、そう決心なされていました。きっと、あなた達二人はお互いのことを深く愛し合っているのでしょう。だから、お互いがお互いを気遣い、最後の時間を悔いのないものにしようとしている。ただ、部外者の私からしたらそれは間違いだ」


 「どうすればいいのですか」


   先生はくるりとこちらに身体を向いて、俺の目を見据えた。そして、その目はほんの少し涙で潤んでいた。


 「思い切りぶつかってあげて下さい。子供の様に、自分の全てを彼女にぶつけるのです。泣いたっていい、怒ったっていい。そうしないと、彼女は解放されません。彼女を救えるのはあなただけなのです。彼女の為に、彼女と心の底から向き合って下さい」


   そこまで言うと、日比野先生はまた穏やかな顔をして、医師としてかなり出過ぎた事を言いました。いや、いかんな、本当に。と言ってボリボリと頭を掻いた。








    日比野先生からの助言を頂いてからだいぶ気が楽になった。やはり、誰かに話すとはとんでもないデトックス効果があると思った。


 妻はまた順調に体重を落としていき、その存在感もまた薄くなっている気がした。まるで、少しずつこの世からいなくなっているみたいだ。


 とは言え、彼女は以前にも増して明るく、テレビを見て大笑いしたり、熱心に本を読んでいたりと自由気ままに見える。


 しかし、俺は先生と話すことで知ってしまった。そんな彼女の内側は決して凪いだ水面の様に静かではなく、荒れ狂う嵐が彼女を襲う日もあるのだ。


 俺は何度も意を決して、自分の想いを彼女に告げようとした。


 しかし、ついぞ俺には出来なかった。


 と言うのも、残された最後の時間を穏やかに過ごしたいと言うのは何も俺だけではなく、彼女も同じ気持ちなのだ。


 お互いの心の中に収めている嵐をわざわざ表に出し、ぶつけ合ったところで何が起こると言うのだ。現に先生も自分はその手のことは専門じゃないと言っていた。


 何が正解かわからない。そして間違いを選んだ時、この尊い時間が失われるのではないかと考えると、俺は何も彼女に告げることは出来なかった。


 絵本を翔太に読み聞かせる彼女を見つめる。


 「あひるの親子はガーガーと鳴いてお空に飛んでいってしまいました」


    彼女がそう言うと、きゃっきゃと翔太が笑う。


 そんな二人の姿が愛おしかった。


 時間が止まってくれればいいのに。永遠に夏なんて来なければいいのに。








 フェスまで一週間を切ったある日、翔太が寝た後、リビングで本を読んでいたら招待状を妻から渡された。


 「当日、あなたは私のエスコート役です。私の手を引いて入場してね」


   そう言って彼女はニッコリと笑った。


 「なんだか結婚式を思い出すな」


   「そうでしょ、私の最後の晴れ舞台。しっかり頼んだわよ」


  「任せておけ、俺は昔から大舞台に強いのだ」


  「知ってる、昔からホント馬鹿なんだから」


   そう言って顔を見合わせて笑った。


 「ねえ、あなたの事愛してる」


 妻は少しはにかんで、微笑んだ。


 「知ってる。俺も愛してる」


   俺はそう言うと、妻を抱き寄せ、優しくその身体を包み込んだ。


 「私も知ってたわ」


   そう言って妻も俺の背中に手を回した。


 これでいいじゃないか。俺たちは幸せだ。何も感情をむき出しにしなくても、柔らかな愛で包まれているのだ。

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