花火の下で

牛丼一筋46億年

少年と花火 第一話

 朝起きた時のオヤジの口の臭いを想像して欲しい。今俺の手元にあるブツが醸し出している臭いはその十倍濃縮されてた様な激臭である。


 「やめといた方がいい」


   「いや、俺は気が済まねえ」


   「絶対にやめた方がいい」


 俺は友達の坂田の制止もどこ吹く風、犬の糞をクラスの高山の弁当箱に詰めようとしていた。


 七月のある日、校舎の二階隅にある二年五組の教室はではムンムンとした熱気が足元から立ち上り、生暖かい空気が身体にまとわりついて気持ち悪い。俺と坂田は頭から爪先まで汗びっしょりだった。


 坂田は夏服の白いシャツの、俺は白い体操着の首から胸元に欠けて汗のしみができている。


 その上、手にはタッパーに詰まった糞である。ムンワリとした空気と糞の鼻の奥を刺すえぐみのある臭いが混ざり合って、教室は世界一最悪のミストサウナと化した。


 体育の授業を仮病で抜け出した俺は、体育を休み、保健室で呑気に寝ていた坂田を叩き起こし、誰もいない二年五組に潜入していたのであった。


 全ては悪漢高山を成敗するためである。


 事の発端はこうだ。美術の時間、坂田が黙々と絵を描いていた時、野球部のメンバーでふざけ合っていた高山が転んで、坂田の筆先が少し高山の制服についてしまったのだ。


 前々から文化部を敵視していた高山は色白で色男で漫画研究会の坂田を快く思っていなかった。彼は紫色の線がスッと入った自分の制服を見ると、チンパンジーの如く、顔を真っ赤にして坂田の白い頬をバチンと叩いたのであった。


 なんたるジャイアニズム。不条理ここに極まれりである。


 もちろん、教師は高山を諫め、その場は収まったのだが、これが高山の燃えたぎる単細胞に火をつけた。それからと言うもの、ことあるごとに坂田を目の敵にしていじめまがいのことをし始めたのであった。


 これに黙っていなかったのが、漫画研究会の特攻隊長と言われる俺だ。


 俺と坂田は竹馬の友。坂田をよく知らない人は、気弱で病弱なイケメンと言う少女漫画の登場人物の様な人物であると考えているだろうが、実態は違う。


 俺と同じく、『魔法美少女きゅるりん桃香』の大ファンであり、実は朝昼晩と女の女体のことばかり考えているムッツリドスケベなのだ。


 イケメン、気弱、でも人一倍女に興味津々と言う下衆っぷりに俺は心底惚れ込み、我々は意気投合。


 部活動も同じ漫画道を突き進み、貧乏な俺は裕福な坂田の家によく転がり込み、エロ本を貸してもらったり、我が家ではおおよそ食す事の出来ない高価な茶菓子を腹一杯食わせてもらったりした恩がある。


 親友、坂田のピンチに黙っていたら男が廃る。が、真正面から高山とぶつかるのは部が悪い。というのも、高山は中学二年生のくせして、身長が百八十センチもあるのだ。尚且つ、野球部で鍛えた筋力は規格外である。


 そこで、考えたのが、高山食糞計画である。我が家の愛犬、チロの朝の贈り物を採取し、タッパーに詰め込み、体育の時間に抜け出して、高山の弁当箱にぶち込む。我ながら見事な作戦である。


 「坂田よ、お前が良くても俺は良くねえのだ。お前は俺のベストフレンド。お前の痛みは俺の痛みなのだ」


 俺は高山の弁当箱を開けて、タコさんウィンナーやだし巻き卵の上に糞をトッピングせんと、タッパーを逆さまにしようとしている所だった。


   「やめろ、すぐにやめろ。別に、陰口叩かれたり、廊下で肩でぶつかってくるくらいだからさ。こんな所、女の子に見つかったら嫌われるよ。だからやめろよ、な?」


  「お前はいじめられているのに、女の事ばかり考えているのか、この軟弱者が」


 「馬鹿野郎!!!いじめじゃ死なないが、女子に嫌われたら俺は死ぬのだ」


  「お前は、やはり腐れ外道だな。それでこそ、我が友だ」


   俺達がやんややんやと騒いでいると、廊下から視線を感じる。見れば、仲村が開け放たれた教室の窓越しに見えた。廊下に立ち、じっと我々を見つめているではないか。


 「仲村さん助けて、こいつ、ウンコテロ起こそうとしている」


 坂田が声を上げる。一瞬で友達を売るあたりも流石我が友である。


   仲村、彼女は我が学年、いや、中学、いや、県下ナンバーワンの完璧な女の子である。


 県下模試試験一位、陸上短距離の部、県大会優勝。おまけに見た目も良いときてる。


 髪の毛は枝毛ひとつなく、ふんわりと肩にかかるセミロング。目はキリリと鋭く冷たい。その目で見つめられた男は全身が凍りつく感覚と、胸が高鳴り暑くなるひんやりとほっこりの波状攻撃にノックアウトさせられてしまう。


 スタイルも抜群で、身長百七十センチを超える長身と、陸上で引き締まった身体とスカートから覗く筋肉質な太腿が一部の男子生徒の間で熱烈な支持を集めている。


 もちろん、坂田は仲村にぞっこんだ。 


 あの、女、エロすぎる。と言ってヨダレを垂らす様に少しばかり恐怖したものであった。


 そして、これはかなり言いにくいのだが、仲村と俺は幼馴染である。家が近所で兄妹の様に育てられた。それ故に幼少期はよく喧嘩をしたものだ。しかし、それも今や昔の話、俺たちは中学入学した辺りから仲村は完全無血の美少女へと変身し、俺はオタク趣味の毒虫ときた。最早、勝負にすらならない。きっと仲村は俺のことを馬鹿にしているだろう。幼馴染だったことなんて隠したいはずだ。事実、中学生になってから仲村とはずっと話していない。


 仲村と目が合うと、彼女は何も言わずに俺の目を見据えて、口を真一文字に結んだまま、廊下で直立不動で動かなくなった。


 その目で見られると、心がカッとなってくる。なんだよ、なんか言いたいことあるのかよ。


 なんだ。この感覚は。


 俺を一瞥すると仲村は口をヘの字に曲げて、フンと鼻を鳴らすと歩いていってしまった。


 俺はその背中に思わず声をかけそうになってしまう。声をかけたとして何を話すのだ。


 すごくモヤモヤしてきた。もやもやは次の瞬間イライラに変わった。


 「なんなんだよ、もう!」


  俺はイライラに身を任せ、高山の弁当箱にクソをぶち込んだ。あーあ、と坂田がため息を漏らした。





 「とある生徒の弁当箱に、排泄物が入れられていました。これは卑劣な行為です。考えてください、あなた達にもお母さんがいるでしょう。お母さんが朝早起きして作ってくれたお弁当にそんなことされたら嫌でしょう」


    高山食糞計画の翌日、緊急全校集会が開かれた。まったく、教師もろくなもんじゃない。いじめには見向きもしないくせに、こう言う時だけ、騒ぎ立てる。俺は満足であった。高山の怒りを通り越して泣きじゃくる姿が見れたからだ。負け犬の一撃である。いい気味だ。


 俺の仕業だと、教師達にバレていないって事は仲村はちくらないでいてくれている訳だ。幼馴染のよしみと言うやつであろうか。


 それとも、俺のことなど相手にする価値もないと言う事だろうか。それならば、やっぱり、ムカつく!


 


 ホームルームが終わると同時に、教室の右斜め後方に座っている坂田に、一緒に部室に行こうと声をかけようとした。


 教室にたむろしているクラスメイトをひらりひらりとかわして行く。


 どうやらチビで根暗な跳ねっ返りの俺の姿はクラスメイトどもには映っていない様で、何度もぶつかりそうになるのを身を横にし、縦にし、歩みを進めて行く。


 別にクラスメイトなどどうでもいいのだ。彼らは俺や坂田の様に漫画やアニメが内包する真の芸術に気がついていない愚かな人間どもなのだから。


 坂田、と声をかけようとした時、女子の一団が坂田を取り囲んだ。


 「坂田くん、今日さ、明穂と一緒に帰ってあげてくれない」


    女子の一団から少し離れたところに、四組の村井明穂が恥ずかしそうに俯いて、立っている。


 「え、俺、いや、まいったなー」


   頭を掻きむしる坂田の顔はどこからどう見ても困っていないのである。


 坂田、村井の誘いなど断れ。昼休みに今日は二人で部室のテレビで『超ロボット・グランカイザー』の再放送を見ようと硬く誓ったではないか。


 あまりにも俺が陰気な雰囲気を出していたからであろうか、坂田は俺と目があった。


 悪い、と口だけ動かして俺に伝えてくる、この外道を俺は許すまいと硬く誓った。


 もういい、お前もどうせクラスの奴らと同じ愚民なのだ。もう、二度と信用せん。


 俺は怒りに身を任せ、ドシンドシンと足音を鳴らしながら、教室の出口まで向かったが、例の如く、俺の姿など見えていない様で、何度もクラスメイトとぶつかりそうになった。


 


 はぁと、ため息を吐きながら廊下を歩く。


 廊下ではこれから部活に行く生徒と、遊びに行く生徒達の浮足だった晴れやかな雰囲気が充満していた。


 俺は視線を落としながら、なるべく彼らを見ない様にして歩く。


 彼らは恋に遊びにと大忙しで青春を謳歌している。一方、俺はどうだ。漫画とアニメのオタク道と言う、エベレストの様な険しい頂を一人登るのだ。


 これは孤独ではない、孤高だ。しかし、寂しさを感じない訳でもない。だから、俺は西日に照らされながら、なるべく目に毒になる様な、彼らの青春見ない様にして歩いている。


 しかし、そんな俺が唯一見てしまうモノがある。


 二年三組の教室だ。


 通り過ぎざま、チラリと教室を覗く。


 やはりいた、仲村は一人、教室の隅で机に齧り付いて、なにやら書いている。


 俺は一体彼女が何をしているのか知っている。今日あった授業の簡単な復習をしているのだ。真面目な仲村は小学生の頃からそれを日課にしている。俺が、ちょっかいをかけると、もう、邪魔しないで、と言ってよく怒られたものだった。


 仲村は孤高だ。友達と呼べる人がいる様には見えない。彼女のあまりにも完璧な学力と見た目と身体能力が自然と人を遠ざけてしまっている様だった。


 話しかけようかな。


 ふと、そんな思いが頭によぎった。


 何を考えている。俺は孤独な一匹狼だぞ。孤高を好み、一番嫌うのは馴れ合いである。それだけじゃない、俺みたいなスクールカースト最底辺が仲村に話しかけたら、みんな、『不相応な奴め』と呪いのこもった目で見てくるだろう。それ以上に仲村は俺みたいな奴に声をかけられたくない筈だ。


 しかし、仲村の一人机に向かう姿はどこか寂しくて、見ちゃいられないのであった。


 「ちょっと邪魔なんだけど」


    教室の扉の前で立ち止まっていたからか、不意に後ろから声がした。


 急な事だったので、きゅっ、と身体をびくつかせて、変な声を上げてしまった。


 後ろを振り向くと、陸上部の女王、姫島とその取り巻き二人が立っていた。気が強くて、声がでかくて、派手でガサツな女子達だ。俺たちみたいなオタク男子の一番の敵である。


 「きゅっだってさー、聞いた」


    取り巻きの一人がゲラゲラと笑う。


 「ねえ、どいてって言ってるんだけど」


   姫島の迫力たるやスゴイ。俺はすごすごと脇にどいて道を譲った。


 「あいつ、男のくせにびびって恥ずかしくないのかな」


   「キモいよねー」


   と姫島達の声が教室から聞こえて来る。


 俺は恥辱に耐えかね、目には涙が溜まって行くのを感じた。ちくしょう、何だってんだよ。


 恐る恐る教室を覗くと、姫島達が仲村を取り囲み、必要以上にニヤニヤと笑って話しかけている。


 あいつら仲村との仲の良さを周りにアピールしたいのだ。スペックで勝てないと見るや、何でも出来る仲村が一目置いている存在と言う位置付けを獲得しようと躍起なのである。


 俺は知っている。姫島が裏で仲村の陰口を周りに言っていることを。


 『あいつ、超無口でお高く止まってんのよ。あれだけ何も反応しないんじゃ、ふかんしょーってやつかも』


 ある日、廊下ですれ違った彼女はそう言っていた。言った途端取り巻きが爆発音の様な笑い声をあげる。きっと仲村の事なのだと察した時、俺は自分の身体が引き裂かれるくらい心が痛くなったのをよく覚えている。


 姫島達に囲まれた仲村は控えめの笑みを顔に張り付けているだけで精一杯のようだった。


 その姿が痛ましくて、俺は見ていられなくなり、足早に部活に向かった。







 部室の扉を開くと、むんわりと重油のような、すえた匂いが立ち込める。そう、我が中学の漫画研究会は何を隠そう、男の花園、部員五人ともウダツの上がらないオタク野郎と来ている。


 俺が入ると、既に俺以外の部員四人はコリコリと漫画制作に打ち込んでいた。


 「お疲れっす」


   声をかけると、全員が俺の方を見る。そして全員メガネ。俺を含めて。


 「あ、おい、なあ、昨日、見た?」


   と眼鏡の上から顔面にかけてねっちょりとした長髪を垂らした男、我が戦友、安保が声をかけてきた。


 「見た、あれだろ?深夜の再放送」


   「流石ですなぁ〜、女の子可愛いんだよな」


 「あれはかなり革新的なアニメだったね、ただのアニメじゃないよ」


   「おー、実は我々も今その話で盛り上がっていたのですよ」


   そう言うと、安保はグフフっとニキビ面を歪ませて笑う。自分の大好きに真っ正直ないい男である。


 我々五人は昨日の深夜に放送されたアニメについて熱い議論を交わし合った。


 なるほど、五人もいると視点が違って面白い。先程の姫島事件の傷が少し癒されて行く様だった。


 そして、議論がひと段落すると、我々は漫画制作に没頭した。


 芸術とは高尚なものである。どれだけ凄まじい身体能力を持ったスポーツマンがいようとも、時間と共に老いていく。しかし、芸術は永遠普遍である。つまり、運動部なんかよりも我々の方がよっぽど生産的なのである。


 執筆から二時間、流石に目が疲れてきた俺は息抜きにと、窓の外を眺めた。


 窓の外では運動部の連中が必死になって身体を動かしている。グラウンドの右隅では野球部が素振りしているし、真ん中ではサッカー部がボールを追いかけまくっている。そして、左端では陸上部が走っている。


 俺は自然と仲村の姿を探してしまった。


 彼女は今スターティングブロックの上で身体をかがめている。用意の掛け声、そして、パンと火薬の音、その音と同時に走り出す仲村。


 仲村は周りの走者を取り残して、一人ぐんぐんと加速していく。見事な走りだった。


 仲村は走り切ると、膝に手をやって屈み、走ったコースをじっと見つめる。


 その真剣な眼差しを見つめていると心がざわつく。陸上のウェアから出た手足は引き締まった筋肉を備えており、汗ばんだ彼女の姿にエロティシズムを感じた自分を恥じた。


 少し前まではちんちくりんのガキだったのに、一体、いつの間にかような羽化をしたのか。


 はぁと俺はため息を漏らし、まだ蜜月だった俺たちの関係に想いを巡らせた。


 一番、記憶に残っている仲村との記憶は小学三年生の頃、仲村の両親に連れられて行った花火大会だ。


 俺と仲村ははしゃいで遊びまわっているうちに仲村父母とはぐれてしまい、途方に暮れた。


 仲村はわんわん泣き出してしまうし、俺はと言うと、そんな仲村をなんとか勇気づけようと、独自に編み出した『ダメ人間ダンス』を身体中を駆使して披露した。すると仲村はキャッキャと笑い出し、ほっと俺が胸を撫で下ろした瞬間、俺たちの頭上で大きな大きな花火が炸裂したのであった。


 なんだか、懐かしい。あの頃は仲村といるのが本当に楽しくて、毎日遊んで、喧嘩して、翌日には仲直りして、また喧嘩していたっけ。


   二人で日が暮れるまで公園で遊んだり、自転車に乗って隣町に探検に出かけたり、駄菓子屋のアイスを二人で分け合ったり、小学生の思い出にはいつも隣に仲村がいた。


 でも、中学に入ってから、状況は変わった。


 その頃くらいから、なんだか、俺は仲村に声をかけちゃダメみたいな気がして、上手く話が出来なくなってしまった。


 これが劣等感と言うものなのだろうか、なんだかグサリと心に痛みを感じたものの、俺の目下の最重要事項は漫画制作である。いざ、制作再開。と俺はまたペンを走らせた。




   


 翌日、教室に入ると様子がおかしい。


 指輪物語で言うとホビット、ハリーポッターで言うとハッフルパフの存在感である俺に視線が集中している。


 その時、山が動いた。高山が席を立ち、俺の方まで歩いてくるではないか。


 いがぐり頭の大男が俺と目と鼻がつきそうになるくらい顔を近づけてくる。


 なんたる迫力、蛇に睨まれた、いや、ゴリラに睨まれた蛙とはまさにこのことである。


 「お前、放課後ツラ貸せや」


 高山がドスの効いた低い声でそう言う。


 なんだか、ヤンキー漫画みたいだなと状況に似合わない事を俺は思った。


 朝のホームルームが終わった後、こっそりと坂田に何があったのか聞いてた。


 すると、坂田はまずいことになっているぞ、と顔を歪ませる。


 話はこうだ、仮病を使い体育の授業を抜け出した俺が犯人ではないかと言う見方が大多数を占め、今では、そうに違いないと言う論調がクラスを支配しているのだそうだ。


 そんな話がクラス中で飛び交っているとは、坂田以外仲の良いクラスメイトがいない孤高の俺はついぞ知らなかった。なんと言う短絡的発想。証拠はあるのか証拠は、と叫びたくなるが、事実であるから仕方ない。


 その日はとんでもなく気まずかった。クラス全員がなんだかよそよそしいのだ。


 高山一派は休み時間の度に教室の隅に集まり、俺を見て何やらコソコソと話をしているし、他のクラスメイトは高山の怒りが飛び火しないように、俺に対して必要以上によそよそしい。


 村八分にあった農民はこんな気持ちなのかと、ただ呆然としていた。


 教師に助けを求めようか。『変な噂が出回ってて、放課後に高山達にリンチに合いそうなんです』と。それはやめておこう。俺は教師を毛嫌いしている。あんな奴らただのデクの棒ではないか。文科省が定めた事をロボットのように受け入れ、教科書に書いてあることを暗唱するだけの人々、それが教師である。


 頼りにならないし、そもそも毛嫌いしている奴らを都合よく利用するのは俺の美学に反する。ならば、どうするか。決まりきっている。決闘しか道は残されていないのであった。


 俺は決闘に備え、昼休みに校庭で大きめの石を拾い、それをポケットに忍ばせた。


 いざとなれば、これで高山達の頭をかち割ってやる。多対一の戦いである。武装は卑怯ではなかろう。


 俺は午後の授業中、高山の鋭すぎる視線を感じ、恐怖しそうになると、ポケットの中の石を握りしめて自分を鼓舞した。大丈夫。俺は空手バカ一代を全巻読破している男だぞ。





 放課後、ツラ貸せの一言を合図に、俺は高山一派に取り囲まれた。なるほど、俺を逃がさない為に教室で拉致するのか。俺は逃げる気などさらさらなかったがな。と心で嘯くも身体は震えていた。


 俺は四方を取り囲まれながら教室を後にしたのであった。坂田の方をちらりと見ると、まるで戦地に息子を送る母親の様な悲痛な面持ちで、無事を祈る様に両手を合わせていた。なんと、不吉な、友達なら救ってくれ。


 俺はまるで、SPに警護される著名人の如く、野球部に取り囲まれ、廊下をトボトボと歩いていた。ひとつ違うのは、俺が警護されているのではなく、拉致されている事であろう。


 取り囲む野球部の面々はざっと五人。全員ガタイが良いし、俺よりも身長が高い。


 俺たちが廊下に出ると、何事かと、廊下の生徒達は騒ぎ立った。その中に仲村の姿もあった。


 仲村は眉一つ動かさず、俺を見つめている。とても恥ずかしくなって俺は視線を落とした。が、視線を落とすと、まるでこいつらにビビっているように見えるのではないかと思い、まっすぐと前方を見据え、仲村の方を見ないようにした。


 仲村、今お前はどう思っているのだろうか。まるでロズウェル事件で捕らえられた宇宙人みたいな俺のことを。






 校舎裏、体育館と校舎に挟まれ、陽がささない薄暗い場所である。誰かをリンチにするなら絶好の場所だ。


 奥は行き止まり、左右には体育館と校舎、そして前方にはいがぐり五人衆。


 「お前なんだろ」


   高山が言う。


 「なにが」


  俺は敢えて知らぬ存ぜぬでかわそうとする。それが高山の怒りに油を注いだ。


 「しらばっくれてんじゃねえぞ」


  そう言う高山の迫力は中学生の域を超えていた。


 ずいずいと五人は距離を詰めてくる。


 「証拠はあるのか、証拠は」


   俺は強がってそう言う。そうだ、証拠無くして人を裁く道理があって良いものか、こんなの中世の魔女裁判の再現ではないか。


 「うるせえ」


   高山はそう怒鳴ると尚もジリジリと距離を詰めてくる。


 それと合わせて俺もジリジリと後退る。


 しまった、相手は道理の通じる人間ではないのだ。俺はポケットの中の石をぎゅっと握りしめた。しかし、石は握れば握るほどどんどん小さくなっていくように感じる。


 殴られるって痛いのかな、実は人生で殴られたことがない。そりゃ、小さい頃、親父に何発か殴られたことくらいあるけれど、それくらいなものだ。


 後退った足が壁につく、前方には高山一派。万事休すである。


 高山が俺の汗をびっしょりかいたシャツの胸ぐらを掴む。


 ヒッと情けない声を出して、俺は身構えた。


 その時である。


 ごらあ。と地を割るばかりの声が響く。


 その声の俺の前方、つまり、高山の後方から発せられたものであった。


 高山が振り返る。俺は高山の肩越しにその姿を見た。


 体育教師であり、野球部顧問の羽田がそこに立っていた。


 「お前ら何しとる」


  関西出身の羽田のドスの効いた声は高山の比ではなかった。


 これが本物か、と俺は感心すらした。


 「いや、こいつが」


  すっかり、弱り切った高山が消え入りそうな声でそう言うも、羽田はバチコンと高山の頭をぶん殴り、高山一派の頭をもぐらたたきみたいに続け様にぶん殴った。


 「リンチにしか見えんぞ、ボケが、来い」


   羽田はそう言うと、高山の耳を引っ張り、体育館と校舎の狭間から引っ張り出していった。呆気に取られた高山一派も体育会系の頂点たる羽田の言うことには逆らえず、渋々と言った様子で後に続く。


 呆気に取られたのは俺も同じである。俺も高山一派の後ろをトボトボとついて行いった。





 


 俺たちは職員室の隣にある、会議室に入れられてこってり絞られた。と言っても絞られたのは高山達五人なのだが、人が怒られているのを隣で見るのは嫌なものである、こっちまで絞られている気分になった。


 高山達は、俺が弁当箱にうんこを入れたのだと、羽田に強訴したが、羽田は、そもそも彼がやった証拠はあるのか、そして、もしもやったとして、それがリンチしていい理由となるのか、と高山達に問いただした。大人らしい正論である。


 ちなみに、羽田に『お前がやったのか』と問いただされたが、無論、やっていないの一点張りで貫き通した。


 嘘もつき続けていると、感情が入ってくるものである。冤罪の人ってこんな気持ちなのだろうか、なんたる理不尽、なんたる屈辱感、即刻謝罪を要求する、と言う気持ちになった。


 おかしなもので、俺が涙ながらに無実を訴えていると、高山達も悪いと思ったのか、冷静さが戻って来たのか、しおらしくなり、口々に、『ゴメンよ』『悪かったな』なんて言ってきた。俺は彼らの謝罪を受け入れ、最後はお互い握手を交わし、友情すら芽生えそうな雰囲気となった。








 俺たちが解放された時は、もう既にあたりは薄暗くなっていた。


 自転車置き場には俺のチャリンコしかなく、みんな既に帰路についていた。


 チャリの鍵を外しながら色々と思案に耽っていた。


 思えば、少しやり過ぎた。高山の弁当も、彼の母親、もしくは父親が早起きして一生懸命に真心込めて作ったものなのだ。それにうんこを入れるのはかなり酷い事をしたものだ。


 先程、高山の涙を見たせいか、罪悪感がふつふつとわきおこってくる。


 すると、ガチャガチャと言う音が聞こえてきた。音のする方向を見ると、俺の二列後ろの自転車置き場で、黒い影が屈み込んでガチャガチャとチャリンコをいじくっている。


 目を凝らしてじっと見つめると、それは仲村だった。チェーンが外れたのだろうか、手をチャリンコの下部に突っ込んで何やら弄り回している。


 どうしようか、俺はその場で固まってしまった。チェーン外れて動けないのかな。助けた方がいいよな。でも、俺なんか話しかけたら迷惑じゃねえかな。何年も話してないから話しずれーな。でも、困ってるとこ見て知らんぷりで帰るのもなー。


 ぼりぼりと頭を掻きむしった後、えい、ままよ、と俺は仲村に声をかけることにした。


   「よお、自転車壊れたんか」


   俺は彼女の隣まで行き、頭の中で何回も練習した言葉をかけた。


 「チェーン外れて」


 そう言って、俯く仲村の両手は真っ黒に汚れていた。


 「お前、バカ、手洗ってこい。俺が直してやるから」


   仲村の手を見て、自然とそう言っていた。暗い中、一人両手を真っ黒にさせて何やってんだよ。誰か助けを呼べよ。見ちゃいられないんだよ。


 俺が言うと、仲村はこくりとうなづき、自転車小屋から少し離れた手洗い場に歩いて行った。


 屈み込んでみれば、ダラリと垂れたチェーンが見える。さて、直すとは言ったものの、実はチェーンを直したことなんてない。どうしたものか、もう、知らんなりにやるしかない。


 俺はチェーンを片手で持ち上げてなんとか歯車に噛み合わせようとする。触れた側から手がオイルで真っ黒になる。


 仲村、心配すんなよ。すぐ直してやるから、俺は心の中でそう唱え、必死にガチャガチャとチェーンを持ち上げるも一向に歯車にハマらない。


 手を洗い終わった仲村が帰ってきた。


 ハンカチで両手を拭きながら俺のことを心配そうに見つめる。


 「いいよ、きいくん。押して帰るから。ありがとうね」


   きいくん。俺の昔のあだ名である。仲村は俺のことを未だにそう呼んでくれるのか、そう思うと嬉しくて、少し歯痒い。


 「そうは言っても、仲村の家遠いだろ。おじさんかおばさん呼んで迎えに来てもらえよ」


    「迎えに来てくれないよ」


 「どうしてだ」


   「二人とも忙しいからね」


    見上げた仲村の顔がとても寂しそうで、俺は心の底から不安になってきた。どうしてそんな顔するんだよ。


 「それじゃ俺と一緒に帰るか」


   そう言った瞬間、顔が熱っていくのを感じる。少し言葉を交わしただけで、俺は昔に戻った気になって図々しい事を言ってしまった。もう、仲村との関係は大きく変わってしまったのに。


 恥じいった俺は彼女の顔を見ることが出来ず、ぷいとあらぬ方向を見てしまった。


 「いいの?」


   仲村は意外にも明るい声色で答えた。


 驚いて仲村の顔を見る。彼女は真っ直ぐに俺のことを見据えていた。正確には彼女の方が身長が高いから見下していたのだが。


 「じゃ、帰ろうよ。もう遅いし」


   彼女はこともなげにそう言った。





 住宅街の歩道を二人で自転車を押して歩く。点在する街灯が頼りなく俺たちを照らしていた。


 俺たちは学校を出てから二十分近く何も話していない。正直言ってかなり気まずい。


 昔はギャーギャー騒ぐうるさい女の子だったのに、今では何を考えているかよく分からない完全無欠の鉄面皮である。


 必死に話のタネを探すも、出てくるのは大体アニメか漫画の話題ばかりで仲村が喜びそうな事を一切思いつけない。


 「きいくんって、馬鹿だよね」


 俺がうーんと頭を捻っていると、ポツリと彼女は言葉をこぼした。


 驚いて隣を見ると、無表情のままの仲村がいる。こんな真面目な顔で人のことを馬鹿とか言うのか、こいつは傷つく。


 「あれじゃ疑われても仕方ないよ。もっと上手くやらなきゃ。私が羽田先生を連れてこなきゃやられてたよ」


  「お前が羽田を呼んでくれたのか」


  「うん。幼馴染のよしみだよ」


   そう言って仲村は静かに笑い、俺も少し笑った。


 「こうやって話すの久しぶりだよね」


   彼女はまた前方を向いて言った。


 「そうだな」


   「なんで?」


   「なんでってなんだよ」


  「なんで話してくれなくなったの?」


  「まるで俺が無視している様な口ぶりだな」


  「きいくん、中学入ってからすごくよそよそしくなった」


 「だって」


    「だってなに?」


   だって、俺とお前じゃ住む世界が違うから。


 そう言いかけて言うのをやめた。


 言ってしまったら、もう、仲村と話せなくなってしまうから。


 俺は押し黙り、仲村も黙り込んだ。


 「そうだ。きいくん、ウチに少し寄っていきなよ。お礼もしたいし」


   意外な提案に度肝を抜かれ、俺は何も言えなくなった。


 「家も近いし、お父さんお母さんも久しぶりにきいくんに会ったら喜ぶと思うよ。絶対それがいい」


  落ち着いた口調でそう言う中村の考えが全く理解できなかった。


 「いや?」


   「いやじゃないけど」


   歯切れの悪い返事をして口籠る。


 「じゃあ決まりだね」


   そう言う仲村の声には有無を言わせない響きがあった。






    大きな一軒家の前に俺は仲村の背に隠れるようにして立っていた。


 恐る恐る玄関を見る。数年前までよく行っていた仲村の家の玄関だ。あそこをくぐるのは何年振りになろうか。


 仲村は恐々としている俺のことなどお構いなしに玄関を開けて入っていく。無論、彼女の家なのだから誰にも遠慮することなどないのだが。俺は仲村に続いた。


 仲村家の内装は昔見たままだった。


 玄関を上がるとすぐ目の前に階段があり、右には大きな扉がある。確か、大きな扉の向こうはリビングになっていて、俺の家とは違い、お洒落なインテリアがいろいろと飾ってあったのを思い出した。


 ただいまーと無機質な声で仲村は言う。


 返事はない。


 きいくんが久しぶりに来てくれたよ。


 と仲村は少し大きめの声で言う。


 すると、右の扉から仲村のお母さんが出てきた。


 俺はその顔を見た時、思わずギョッとしてしまった。


 目の下には大きなクマを作り、髪の毛はボサボサ、口元にハッキリとした皺が刻まれた女性が出てきたのである。まるで質の悪いホラー映画に出てくる亡霊の様な陰気さを身にまとっている。


 それが仲村のお母さんであると、俺はすぐに気がつかなかった。


 なぜならば、俺が知る仲村のお母さんは若々しくてハキハキとした綺麗な人だったからだ。


 ハァ、とため息をつくと、仲村のお母さんは、久しぶりね、よくきてくれたわね。とまったく感情のこもっていない声でそう言うと、俺の言葉を待たず、そそくさとリビングに戻って行った。


 呆気に取られている俺を尻目に仲村はさっさと靴を脱いで階段を登り出した。


 「さ、上がって」


   そう言う仲村の声は少しだけ震えていた気がした。


 俺は言われるがまま靴を脱ぎ仲村に続いた。





 仲村の部屋は俺が知る彼女の部屋と少し違っていた。


 小学生の頃の仲村の部屋はピンクの絨毯にピンクのカーテン。部屋中にぬいぐるみが置いてあるいかにも女の子の部屋といった具合だったのに、今の仲村の部屋は勉強机とベッドが置いてあり、絨毯もカーテンも緑色で統一された落ち着いた雰囲気の部屋になっていた。


 部屋に入ると同時に仲村はベッドに仰向けになって倒れ込んだ。


 そして、ごめんね。と言った。俺は何も言えず、ただ黙っていた。


 立ったままなのもどうかと思い、俺は緑の絨毯の上にポツネンと一人座り込み、ベッドの中村を見つめた。


 俺はただ天井を無表情で見つめる仲村を見つめた。その顔は無表情であったが、その内側で色々な感情が渦巻いているであろう事を俺は感じ取った。


 そして、この時、俺の知らないうちに仲村の家で何かが起こったせいで、活発だった仲村は顔に鉄の仮面を被ったであろう事を悟った。


 その時、一階からドスンと言う低い音と共に、女性の金切声と男性の喚き散らす声が聞こえて来て、俺はびっくりして身体が震えた。


 「きいくん、ごめんね」


    彼女はもう一度表情を変えずそう言った。目からは一筋の涙が溢れていた。


 「謝んなよ」


 俺は出来るだけ明るい口調で言った。明るく振る舞わないと、そうしないと、俺はこの場にいられる自信がなかった。


 「私ね、運動も勉強も頑張ったんだよ。じゃないとね・・・それなのにね・・・みんなね・・・」


   仲村の声は震えて消えて、最後まで発せられなかった。言ってしまうと仲村は唇を噛み締めてぎゅっと目を瞑った。すると、涙がまた一筋目元から溢れ出した。


 「すごいな、俺なんて、今年の身体測定学年でドベだったんだぜ。笑えるだろ。おまけにテストは下から十番目だぜ。逆にすごいだろ?もう、お前に比べたら月とスッポン。仲村はすごいよ。本当、あの、その、うん」


   なんとかせねばと、ペラペラと言葉を紡いでいくが、発した言葉がカラカラと宙で空回り、力なく飛散していくのを感じて話すのをやめた。


 「きいくん。私ね、もう一度だけ花火を二人で見たい」


   俺の飛散した言葉とは違い、震えてはいるが、確かに力強く彼女はそう言った。


 「え?」


  「覚えてない?二人で昔、一緒に見た花火」


  「覚えてるけど」


    覚えてる。痛いほどよく覚えている。


 本当はこの場で仲村の手を取って、大丈夫だよ、俺がついてるよ、と言ってあげたかった。でも、今の俺にはそうするだけの自信と勇気がない。それが恥ずかしくて、辛くて、情けなくて、俺は黙って下を向くことしか出来なかった。


 「ごめん、困らせて。ごめん、家に連れてきて。全部嘘。花火行くって言ったけど、その日、県大会あるから行けないし」


   声がくぐもっていた。仲村を見ると彼女はうつ伏せになっていて、顔を枕に押し付けていた。その肩が小さく震えていて、俺よりも大きいはずの仲村がとても小さく見えた。


 「もう、帰っていいよ。きいくん、優しくしてくれてありがとう。お話しできてよかった」


   そう言った仲村の声は今日聞いた中で一番優しかった。


 俺は言部屋を出ていきたくなんてなかった。本当はその小さな肩を抱いてやりたかった。でも、今の俺に何が出来る。彼女の何を救える。 


 俺も涙が出そうだった。泣くのが嫌で俺は立ち上がり部屋を出た。


 そして、お邪魔しましたと言って仲村の家を出た。仲村のお父さんお母さんは俺の声に返事はしなかった。


 帰り道、チャリンコを押しながら俺は人生で初めて死んじまいたいと思った。


 その日から数週間後、仲村が転校すると言う噂が学校を巡った。

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