ショートストーリー 「ある記憶」

柚 美路

第1話

「ただいま」

玄関の鍵を開ける前に辺りを見回し、誰にもつけられていないことを確認してからドアを開け、急いで中に入る。仕事帰りの毎日の習慣になっているこの行為は、一人暮らしを始めてからずっと続けている。

世の中物騒だから、仕事帰りに誰かに後をつけられて玄関に入るときにそのまま一緒に入り込まれて襲われたら大変だから十分に注意するのだと、実家を出るときに母から何回も何回も言われた事だった。

本当は一人暮らしなんかしたくなかったけれど、職場は家から遠いので通勤に何回も電車の乗り換えをする事を考えると仕方がなかった。


靴を脱ぐと、すぐに飼い猫のミロがすり寄ってきた。ミロはちょうど一年前の今頃、近くの公園に捨てられていたのを拾ってきた猫だ。

普段その公園には行かないのだが、たまたまその日は朝早く目が覚めてしまい、あまりに天気が良かったから散歩に行こうと、ふと思ったのだった。芝生の所ではなく、周りの木がたくさん植えられているその下に"捨て猫が居ます!"と、ベタに主張するようにダンボール箱が置いてあった。飼えないとわかっていながら覗き込んだのがいけなかった。「か、可愛い!やばい」

その猫は「ニャー」とも「ミー」とも一言も鳴かなかった。ただジッと私の眼をみつめていただけなのに、惹かれてしまったのだ。

赤茶色のその猫は今までに見たことがない色だった。後で調べたところアビシニアンではないのだろうか、それが一番近いような気がした。

もう、思考能力は低下していて、ただそのまま抱きかかえて羽織っていたカーディガンで隠すようにアパートに連れて帰ったのだった。


あれからも、彼は鳴かなかった。一言もだ。アパートなので結果的には助かったのだが、声を聞いてみたかったので、何度かじゃらしてみたり、わざと尻尾を掴んでみたりしてみたところで意思が強いのか、唸り声さえもあげなかった。

でも、人懐っこく擦り寄るタイミングは絶妙で、私がそれを望む時には必ず先手を打って擦り寄ってくれるから、もうメロメロになってしまった。


「ミロ、さみしかった?」

もう、私に抱きかかえられるのがわかっているという顔で見上げている。

ヒョイっと抱き上げ、座ったソファに沈み込んだその時、ぐわんっと目眩が襲ってきた。

一瞬、何かが見えた。

何かが眩しかった、それを手で遮るようにかざしていた映像が見えた。

次の瞬間、我に返って気がつくとミロは私の膝の上でゴロゴロと喉を鳴らして幸せそうにしている。

「何?今のは…」

疲れてるのかなぁと、その時は思いつつ、夕食を手早く済ませて早く寝ることにした。



第2話へ続く


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