花は移ろい-
エジソン
花は移ろい-
「では、田中君。ここの単語の意味は何ですか?」
「はい。えぇっと...『異なる』です。」
「はい、正解です。よくできましたね。では次、葵さん。これはなんという意味ですか?」
「...」
「葵さん?聞こえてますか?」
「は、はい!えっと...すいません、もう一度お願いします。」
周りからの冷めた視線が集まる。
「はぁ、またですか。ちゃんと授業は聞きなさい。全く、なんで私の授業だけこうなの?ほかの先生からの評判はいいのに...」
「だって、先生がすごくきれいだったから...」
明るいキャラの子であれば、ここでみんなが笑ってくれるのであろうが、生憎私はそうした質ではない。
「またそんなこと言って...ふざけてないでちゃんと授業受けなさい。」
「だってほんとのことだから...」
先ほどから続く不愉快な視線を尻目に、少し不貞腐れながら言い返す。
本来、私は目立つ方でも、まして目立ちたい方でもないのだが、彼女とのやり取りは心地よい。結果的にそれが目立ってしまっていても、逆に誇らしく思える。私の存在意義を感じることができる。
しかし、そんな気持ちに浸る間もなく彼女は授業を進めていく。仕方がないが、少し不快感が沸き上がる。
「はいはい。じゃあ、この単語の意味は?」
『common』
普通の、共通の。
確かそんな意味だった。私は昔からこの言葉が嫌いだ。そんな言葉をわざわざ答えさせてくるなんてほんとに意地悪な人だ。でも、それでも憎めないほどに美しく、彼女は魅力的だった。
「『共通の』...です。」
「はいその通りです。よくできましたね。ちゃんとやればできるんだから、これからはまじめに受けなさい。」
たった一言、教師なら誰にでも言うであろう社交辞令。そんな言葉一つで心が躍ってしまう。それだけで先ほどの嫌な気持ちはどこかへ行ってしまう程に、私は彼女に魅かれていた。
そして、振り絞るように一つ返事をした。
「善処します。」
*
私が彼女と出会ったのは、中学に入学して間もなくの頃。人付き合いが得意ではなく、休み時間は常に一人で読書をし、昼休みには一人花壇のベンチで弁当を食べていた。隣には一輪の百合の花が咲いている。
そんないつも通りの日常の中、昼食時、ふとベンチから前に目をやると、そこには今まで見たことないような美しい人が、私と同じように独り昼食を摂っていた。
(あんな人いたっけ?それにしても綺麗な人だなぁ。)
どれくらい目を奪われていたかわからなかったが、不意にその女性と目線が合う。
「あら、あなたも一人でお昼?ふふっ、お揃いね。」
その人は、なぜ一人なの?とか、お友達と一緒に食べないの?などという野暮ったい質問をする気配はなく、それどころか一人っていいよねという感じで距離を詰めてきた。
「お揃い...」
「私は香織。よろしくね。こう見えても英語の先生なのよ。人手が足りないみたいでね。臨時でこの学校に呼ばれたの。」
「先生...」
今まで出会った教師たちは、いわば友達至上主義の完全なる型にはめる教育者だった。そこに悪意などは介在せず、ただ純粋に自分の教育が正しいと思い込んでいる典型的な偽善者だった。
しかし、彼女はどうだろうか。そうした雰囲気は微塵も感じさせず、ただこちらに寄り添うだけだった。
それからだった。私が彼女に急激に魅かれていったのは。
彼女の表情、声色、所作の一つ一つが私を常に惹き付けた。
香織先生。私の唯一の理解者であり、想い人でもある。彼女に出会い、私の世界に色がついた。
その後、彼女は程なくして私のクラスの授業を受け持つようになる。
*
ある日の昼休み。
私は例にもれず花壇のベンチで弁当を食べていた。以前と違うのは、隣に彼女がいるということだ。そしてそこにはピンクの百合が咲いていた。
「ねぇ先生?先生はなんでそんな感じなの?」
「なに、そんな感じって?顔色でも悪いかしら?」
わざとらしく聞く彼女の表情は、まるで白百合のようだった。
「いや、そんなんじゃなくて...」
「ふふっ、冗談よ。」
「もう!からかわないでください!そうじゃなくて、その...私が今まで出会った教師たちはその...私のことを可哀そうな子だって感じで接してきたんです。でも、先生は違った。初めて先生に会った時、私、自分がとても素敵な人なんじゃないかって...そう思ったんです。傲慢かもしれないけど...」
「あら、そんなこと。」
なんだ、という様子でそう発する。
「そんなことって、私にとっては特別なことだったんです!」
「ふふ。ごめんなさいね。でも、あなたが本当に友達とうまくやれていないのであれば、それは可哀そうに見えたかもしれないわね。でも、あなたからそんな雰囲気は感じなかったわ。むしろ、素敵に思えたの。だからそのまま口に出たんだと思うわ。決して傲慢なんかじゃない。」
あぁ、この人は本当に私のことを分かってくれている。彼女と話している、自然とそう感じることができた。
この人がいるこの学校でなら、私はうまく大人になれる気がしていた。
香織先生が学校を去ったのは、そう思い始めてすぐのことだった。
*
それから幾年か年月が経ち、私は20歳になり、何とか大学にも通っていた。結局、人付き合いがうまくなることはなく、あの頃と同じように百合の花が咲く学校のベンチで、一人弁当を食べている。
何も変わらない日常が繰り返される。唯一変わったのは隣に誰もいないということだ。
あの日から、私が先生のことを忘れた日は一日たりともない。それどころか、募る想いは増すばかりである。
そんなある日のこと、自宅に帰ると一通の封筒が届いており、そこには成人式の案内が入っていた。
「成人式...」
普段の私なら中身も見ずにすぐさまゴミ箱へ突っ込んでいるところだが、今日の私は冴えており、ある思惑が頭を過る。
「先生、来てくれるかな...?」
そう思い立ち、他の誰との再会を懐かしむつもりもなく、式に参加する決意をした。
*
成人式当日、あまりの人の多さと気乗りしないイベントに参加した自己嫌悪で頭がおかしくなりそうになっていた。
(はぁ...なんで参加しようと思ったんだろう...。どうせ先生だって来ないに決まってるのに...)
香織先生は自分が中学一年の時に学校を去ったのだ。そんな短い期間しかいなかった、まして臨時で来ていただけの学校の成人式なんかに来るはずがない。そう思い直し、帰ろうとしたその時だった。
「葵さん?」
そこには、あの時とほとんど変わらない先生の姿があった。変わったところと言えば、少し痩せたくらいだろうか。それでも尚、先生はとても綺麗だった。
「香織先生、来てくれてたんですね!私、ほんとは来るつもりなんてなかったんです。でもね、もしかしたら先生が来てくれるかもって思ったら、つい。」
久しぶりに人と話したからだろうか。うまく話せている自信がなかったが、それでも何とか自分の気持ちを伝えようとした。今度は後悔の無いように。
「もちろん来るに決まってるじゃない。葵さんも来てくれるって信じてたからね。」
「先生...っ!」
そうして式が始まるまでの数十分、他愛のない話で盛り上がった。
式が終わり、皆は二次会への参加準備のために各々散っていったが、私は先生に会えただけで満足で、端からそれ以上居座る気もなかったので、早々に帰ろうとしていた。
すると、
「葵さん一人?せっかくまた会えたんだし、一緒にお昼でもどうかしら?」
あわよくばと思っていたが、先生も二次会組だと勝手に思い込んでいたので声はかけなかった。というより、かけられなかった。
「え、いいんですか?先生は、その...二次会には参加しないんですか?」
「二次会?あぁ、なんかこの後あるみたいね。でも、私は参加しないわ。一年弱しかいなかったんだもの。これといった知り合いなんていないし、何より、他の先生たちの腫物扱いが面倒くって。」
どこかさみしそうな、それでいて清々しいような表情をしてそう語る彼女は、やはり私を惹き付ける。あの時と変わらず。
その後二人で少し高めのお店に入り、二人の再開を祝いあった。
「それじゃ、二人の再開に乾杯♪」
「か、乾杯...」
カチンッ
もちろんアルコールなんてものは初めてで、おまけに店がこの雰囲気。グラスを落としでもしたら中からサングラスをかけた怖い人に連れていかれないかと思うと、妙に緊張してうまく動けない。
「どうしたの?表情が硬いわよ。もしかしてこういう場所は初めてかしら?」
彼女は上機嫌でそう尋ねる。
「は、はい。それに、お酒も初めてなんです。ご迷惑をかけるかもしれませんので、先に謝っておきます...」
時間帯も相まって、背徳感がすさまじかったのも余計に私を硬くした。
「あははっ。あなたはまだ若いんだから、そんなこと気にしなくていいのよ。それに、こういうことはこれから沢山経験すればいいのよ。」
「私は...正直先生と以外は楽しめないと思います。だからたぶん、今日が最初で最後になるかも...」
「あら、寂しいこと言うわね。なら、これからは私が付き合ってあげる。」
「え?」
予想外の返答に、思わず変な声が漏れる。
「実はね、仕事の関係で今年からここら辺に住むことになったのよ。それでね、あなたのことを思い出したの。昔よく一緒にお弁当食べてたなぁって。そしたら急に懐かしくなっちゃって。」
思い出した。ということは、彼女は今日まで私のことを考えてはいなかったということ。だが、それも仕方のないことだ。彼女にとってはただの生徒の一人に過ぎないのだから。私のことを思い出してくれて、こうしてまた会えただけでもうれしいことなのに、人間とは欲深い生き物だ。
「そしたらちょうど今年は成人式だって言うじゃない?あの子は一体どんな綺麗な女性に成長したんだろうって思ったの。そしたら楽しみで夜も寝られなかったわ。」
そう微笑みながら語る彼女をみて、私はやはり強情だと思った。これだけ考えてくれてるならばそれで満足すべきだ。たとえそれが上辺だとしても。
「先生...私、少しは変われましたか?」
「貴方は、きれいになったわ。でもそれは、あなたが変わらなかったからよ。」
少しずるい質問に、彼女はとてもずるい答えをくれた。
「ふふっ。何ですかそれ。私にはよくわからないですよ。」
「貴方にもわかる日が来るわ。きっと。」
「そうだといいけど。」
聞こえるか聞こえないかの境でつぶやきながら耽る。
先生は、いつも私の質問に100点の、いやそれ以上の答えを返してくれる。私なんかじゃとても思いつかないような答えを。教師として、そして人としてこうあるべき。そう思わせる力が彼女にはある。
「みんな、先生みたいな人ならいいのに。」
「そうね。でも、私たちのように、誰かは誰かの理想なのよ。」
私たちのように。その言葉が素直にうれしかった。
「でも、先生以外の人は全然そんなんじゃなかったよ?」
「それはあなたと相性が悪いだけ。何事にも相性が大事なのよ。」
そう意味ありげに語る彼女には、苦悩の跡が見て取れる。
「相性...かぁ、先生は私のどこに相性の良さを感じてくれたんですか?」
「そうねぇ...。いろいろあるけど、やっぱり一人でお弁当を食べてたとこかな。」
「え?」
予想だにしない、それでいてシンプルな回答に一瞬戸惑う。
「実はね、私もあまり人付き合いが上手な方ではないのよ。でも、どうにかして馴染めないかといろいろ頑張ったんだけどダメだった。それでね、その時気づいたの。あぁ、無理に馴染まなくてもいいんだって。だって、疲れるでしょ?無理すると。」
まさか、そんなところに共通点があったとは思いもしなかった。私が先生に魅かれた理由が分かった気がした。
「先生は、どうやってそれに気づいたんですか?私は先生に会うまで気づけなかった。だって周りが否定するから。」
今までの、そしてこれからの苦悩を想像しながら聞いてみた。
「そうねぇ。あの時の葵さんと一番違ったのは...年かしら。」
「年...ですか?」
「そう。私はね、それに気づいたのは大学生になってからなの。それくらいって、もういい加減自分で物事の判断ができる年齢でしょ?それでね、あぁ、なんか周りに合わせるのってしんどいなって。」
「そうだったんですね。」
「そう、だから葵さんが気づけなくても、それは仕方のないことよ。だってまだあなた、中学生だったでしょ?私なんてそんな頃、怖くて一人になることすらできなかったわ。しゃべったこともない女子の金魚の糞してたわね。」
先生も先生なりに苦労があり、それを乗り越えたからこそ、私の目には美しく映る。そのことに、今更ながら気付く自分がいた。彼女は答えを持っている。私の欲する答えを。
しかし唐突に、真剣な顔にうって変わって話し始めた。
「でもね葵さん。人は誰かに頼ってばかりじゃダメなのよ。支えは所詮支えのまま。自分の芯にはなってくれないわ。結局最後は自分しかいないのよ。」
この時は、彼女の言葉の真意がわからなかった。
「でも私、先生みたいに立派じゃない。頼れる芯なんてどこにもないよ...」
「貴方ならきっと見つかるわ。私がそうだったんだから。それまでは、私が貴方を支えてあげる。」
そう語る先生の眼差しに安心するとともに、心のどこかで終わりの刻を恐れていた。
-私が芯を見つけられたら、先生はどこかへ行ってしまうのだろうか-
その後もしばらく時間を忘れてお互いの身の上話に没頭していたが、気づけば2時間も滞在しており、さすがにお店にも申し訳なくなり重い腰を上げ帰路についた。
「これ、私の番号ね。」
帰り際に先生から一枚の紙きれを渡された。そこには携帯の番号が記されていた。
「何かあったらまた連絡して。仕事で出られない時もあるかもだけど。」
にっと笑ってそう告げた彼女は、まるで嵐のように去っていった。
「先生の...番号...」
私はしばらく手の中にある紙切れをくしゃくしゃになるまで握りしめていた。
*
香織先生と連絡を取り始めて数か月が過ぎた。
あれから私たちは何度か食事を重ね、昔のような関係に戻りつつあった。数回はアルコールも入れた。
良くか悪くか、私は酒癖が悪いほうではなく、そのうえどうやらザルのようだった。足りない脳でいろいろ作戦を考えてはいたが、どうやらそれもうまくいく様子は全くない。
とにかく、私は先生と再びこうして仲を深められていることで気持ちが昂っていた。そして少しの出来心から、次の食事はこう誘ってみた。
「先生、次の週末も私とデートしてくれますか?」
「デートね...。えぇ、いいわよ。じゃまた週末に駅前でね。」
「はい。楽しみにしてます。」
電話越しで杞憂かもしれないが、先生の声に若干元気がなかったようにも思えた。
しかし、当日に駅前に現れた彼女はいつもと何ら変わりなく、やはりいらぬ心配だったかと安堵する。
「あら、葵さん。まだ集合時間の15分も前なのに早いわねぇ。」
「だって、先生とのデート、私すっごく楽しみにしてたんです。それに、そういう先生だって15分も前に来てくれたじゃないですか。」
嬉しさと少しの茶化しも入れてそう返す。
「そうね...。私もとても楽しみにしていたわ。」
「...?」
やはり一瞬表情に陰りが生じた気がした。
「どうかしたかしら?私の顔に何かついてる?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど...」
「そう、ならよかったわ。さぁ、行きましょうか。今日は飛び切り美味しいお店を予約してあるのよ。」
(なんだ、いつも通りの先生だ。やっぱりネガティブすぎるのかな...?)
そして先生が予約してくれていたレストランに入る。いつもこじゃれたお店に連れてってくれるのだが、今日はいつにもましてすごい。大人っぽいという表現が似合う、そんな場所だ。
そして何気なくメニューに目を落とす。
「え...。あ、あの...先生。私、こんなに今日持ってないんですけど...。」
そこには自分が普段食べているファストフードやファミレスの料理とは桁が一つ、中には二つも違うモノがずらりと並んでいた。
「あら、言ってなかったかしら。今日は私がごちそうするから。あなたは一文たりとも出さなくてもいいのよ?」
「な、どうしてですか?こんな高いお店ごちそうになるなんて...。すいません。いつか必ず返しますので今日の所は...」
「あはっ。構わないわよ。それにあなた、今日が何の日か忘れたの?」
「今日...ですか...?えぇっと...今日は...」
まったく思い出しそうにない私を見かねて彼女は言う。
「もう、今日はあなたの21歳のお誕生日でしょ。あなた、知らずに今日誘ったの?まぁ、知っててやってたらかなりの策士だけど。」
誕生日。そんなものここ数年一切意識せずに暮らしてきた。まさか、こんな形で思い出すことになるとは夢にも思っていなかった。覚えていないのでそれは当然ではあるが。
そんなことを考えていると、やらやれとした表情からまるで母のような眼差しでこちらを見つめながら彼女が言う。
「今日はおめでたいんだから、ここは私に出させて。こんなことできるのも今のうちなんだから。」
「はは…、完全に忘れてました。自分の誕生日なんてめでたいと思ったこと、今まで一度もなかったので。」
「若いのに何おばさんみたいなこと言ってるのよ。私の友達の誕生日よ、おめでたいに決まってるじゃない!」
「友達...」
一瞬別の誰かと同じなのかとも思ったが、そうじゃないことに気づき、少し複雑な気持ちになる。やはり私は強情だ。
「まあとにかく、今日は気にせず好きなだけ食べなさい。若いうちは体が資本よ。」
数か月前よりもさらに痩せた体で彼女は言う。私はそれが気がかりだったが、今はそぐわないと口を噤んだ。
食事を終え、まだ時間も早かったので二人でカフェに入ることにした。
相も変わらず取り留めのない話をしたのちに、私は先ほどから気になっていたことを思い切って聞いてみた。
「先生。その、ずっと気になってたんですけど...」
「なに?」
「その...先生少し痩せましたか?」
はやる気を押さえ、慎重に質問する。
「あら、気づいちゃったかしら。最近実はダイエットしててね。やっと体重が落ちてきたところ...」
「嘘です。」
「え?」
つい勢い余って言葉が出てきてしまった。が、こうなってはもう仕方がない。
「先生は今、嘘をついてると思います。」
「私が貴方に嘘なんてつくわけないじゃない。ほんとのことよ。」
「正直に話してください。なんでそんなに痩せちゃったんですか?それに、私がデートに誘った時も少し様子がおかしかった。誘った時というより、私が言った言葉に嫌気がさしてましたよね?」
思っていることの9割を吐き出した。少し語気が強すぎたと感じたが、もう後戻りはできない。
「はぁ、さすが葵さんね。あなたには隠し事はできないみたい。」
そして観念したように次々と言葉を発していった。
「実はね、私婚約者がいたの。」
婚約者。その言葉だけで逃げ出したくなるが必死にこらえ続きを聞く。
「最初は円満でね、とても仲良くしていたの。あぁ、私はこの人と幸せになるんだって。」
「今は...どうなんですか?」
仲良くしていた。
彼女の言葉を丁寧に咀嚼し、恐る恐る続きを聞く。
「まあ大方、葵さんの想像通りね。男って言うのは一度手に入れたらそれで満足するタイプと、外に出したくないタイプの2種類しかいないのよ。私のは後者。束縛なんて言葉じゃ収まりきらない変態だったわ。実質、監禁に近い軟禁ね。」
そのあとの話は思い出したくもないほどのモノで、私の想像の範疇で収まるものではなかったが、まとめるとそんな軟禁魔から命からがら逃げ伸びて、改善しているものの、今でもその恐怖で食事も睡眠もまともにとれていないらしい。
「それで...今、音沙汰は?」
「ないわ。さすがに諦めがついたのか何なのかは知らないけど、一応警察にも話してはいるしね。次姿見せたらサツに首根っこつかまれてムショ入りよ。それはさすがに立場が許さないんでしょ。」
聞けばその人は大企業の時期幹部との噂もあったらしい。それを棒に振ってまですることではなかっただけだ。
「そんなこんなで、恋愛には疲れちゃってね。それ関連の話だけでも少し動揺しちゃうのよ。ごめんなさいね。」
「...好きです。」
「はい?」
「香織先生のことが好きです。」
残りの一割が顔を出す。
「葵さん、私の話聞いてたかしら?気持ちはうれしいんだけどね。それにあたしは...」
「先生は言ってました。人は誰かに頼ってばかりじゃダメだって。最後の頼りは自分だって。でも、先生はまだ、最後じゃないと思います。」
「え?」
「今度は私が、先生の支えになります。先生に新しい芯ができるまで、私が先生の支えになります。先生がそうしてくれたように。」
「支えるって...葵さんが?私を?どうやって?貴方にそんなことできるわけ...」
「できます!先生。私には芯があります。それは昔から今まで、少しずつ大きくなってきたものです。」
自分でも意外なほどに腹の底から声が出た。人の感情とは恐ろしいものだ。
「ならいいじゃない。貴方はもう一人で大丈夫。そう教えたわよね。」
「先生は嘘つきです。」
「あら、まだ私あなたに隠し事してたかしら?」
いつかのようにわざとらしく聞く彼女に、今は違う顔で言い返す。
「先生は、芯があれば一人で生きていけると、そういいました。でも今はそれが間違いだって理解できます。芯が必要な本当の理由...。それは、自分の大切な人を支えるためです。」
「...!」
「私はあなたが大好き。心の底から。初めて会ったあの時からずっと。この気持ちが私の芯。この先一生ぶれることのない、私の本当の気持ち。今度は私に支えさせてくれませんか?香織先生。」
「...。」
そこには何かを隠すために下を向く香織先生の姿があった。そして彼女はそのまま返事をする。
「全く、いつからそんな生意気になったのかしら?見た目だけじゃなく、心まできれいになったのね葵さん。」
光る瞳でまっすぐ私を見つめる先生は、やはり私を惹き付けた。
「ふふっ。これも全部、香織先生のおかげです。」
光るものを何とか堪えそう返した。
それからお互いの気持ちが落ち着くまで時間を過ごし、程なくして店を後にした。
特に言葉を交わすことなく駅まで歩く。しかし、自然と距離は今まで以上に縮まっている気がした。
駅に着き、ようやく先生が口を開く。
「それじゃ、今日はありがとね。とてもいいディナーだったわ。」
「こちらこそ、ごちそうになったのに生意気言ってすいませんでした。でも、今日が今までで一番の誕生日になりました!」
「ふふっ。それは良かったわ。誕生日に免じて今日の生意気は許してあげる。」
まるで小悪魔のような表情だった。
「先生...ありがとう!」
「また行きましょうね、デート。」
その言葉と共に、頬に柔らかな感触が広がった。
「...‼」
「ふふっ。一言言い忘れてたわ。私も大好きよ、葵。」
そういうと、彼女は駅のホームへ消えていった。
「ずるいよ先生...」
その言葉は、誰にも聞かれることなく木霊した。
*
あれから10年。
私は相変わらずベンチで一人、弁当を食べる。学校から職場に変わっただけで、他には何も変わらない。
私の横には、紫の桔梗がきれいに一輪咲いている。
花は移ろい- エジソン @yideko14
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