うるさい隣人

よしお冬子

うるさい隣人

「もうホントうるさいんですよ、大家さん。」

 入居者の西川さんが言うには、既に何度か隣人の根岸さんに直接注意をしていたらしい。だが生返事ばかりで一向に改善されないと言う。

 私としては正直なところ、住人同士の揉め事は勘弁してほしかった。騒音問題はお互い様、注意しても、『相手もうるさい、こちらだけが注意されるのは納得いかない』などと言われ、こじれることが多いのだ。

 そもそもうちのワンルームマンションは築20年の安普請で、多少の騒音は仕方がないのだ。様子を見に行って、これぐらいならお互い様ですよ、だから家賃も安いんですよと言って納得してくれるかどうか。

 西川さんは、電話越しの私の声色から察したらしく、

「生活音とかじゃないんです。大勢が集まってどんちゃん騒ぎですよ。ゲームでもしているのか、大声で叫んだり笑ったり。寝不足で仕事も辛くって。今9時でしょう?10時ぐらいから始まって深夜2時3時まで続くんです。」

と、決してお互い様ではないということを強調してきた。

――大勢で集まって、というのは流石に問題だ。というのも、人を呼んだり泊めたりするのは遠慮してくださいね、音漏れしてご近所迷惑になりますので、と、入居時には口酸っぱくお願いしてある。どうしてもと言う場合は、ご近所の方にしっかり挨拶しておいてくださいね、とも。

 しかし、近所のスーパーに勤めている根岸さんは、まだ若いのに言動もしっかりしていて、とてもそんな問題を起こすような人物だとは思えなかった。会えば気持ちよく挨拶してくれるし、休みの日は手が空いているからとマンション周りの掃除を手伝ってくれる好青年だ。

「…わかりました。では、今から伺います。」

「よろしくお願いします。」


 夜10時になるのを待って、マンションに向かった。エレベーターが3階に止まった段階で、既に騒がしい声が一帯に響いていた。

真夏の夜は蒸し暑い。生暖かい風が、草木の匂いを運んでくる。廊下の蛍光灯の周囲には白い羽虫が数匹舞い、大きな虫…蝉かコガネムシが、蛍光灯にぶつかってジン、ジン、と音を立てる。

「あ、大家さん、こっちです。」

 待ち構えていた西川さんが、件の根岸さんの部屋の前で手を振る。西川さんはそこそこ大きな企業の営業職で、仕事帰りそのままであろう、スーツをぱりっと着こなしていた。

 根岸さんの部屋に近づけば近づくほど、その喧噪は大きくなる。間違いなく根岸さんの部屋の中から聞こえていた。

 意を決してインターホンを押す。その瞬間、騒がしい声がぴたりと止まった。

「…はーい。」

 インターホン越しにぼんやりした男性の声。 

「大家です。ちょっとよろしいですか?」

「…はい、お待ちください。」

 数秒後、扉を開けて出て来た根岸さんは、部屋着姿、髪は濡れていてシャンプーだか石鹸だかの匂いがする。

「どうしたんですか…あ、あんた、また言いがかりですか!いい加減にしてくださいよ!」

私の背後にいた西川さんを見て語気が強くなる。

「言いがかり?大家さんも聞いてたんですからね!毎晩毎晩大勢で騒いで!」

「ちょ、ちょ、ちょっと!もう10時ですから、お二人とも、声を落として。」

私の声に、今にも掴み合いになりそうだった二人は少し冷静になったようだった。乱闘騒ぎなんて冗談じゃない。なるべく優しい声でゆっくりと、根岸さんに語り掛ける。

「根岸さん、先程私も扉の前で、間違いなくこの部屋から大勢の声が聞こえてくるのを確認しました。」

「ええっ?…そんな…。」

 根岸さんは目を見開いて、困惑したような声を上げた。

 ワンルームの造りは、扉を開けると廊下右側に流し台があって、左側がユニットバス。どんつきの扉を開ければ6畳の部屋が1つである。

 扉はドアノブ側に、縦に細長いガラスがはめ込まれていて、そこから向こう側の色や形がぼんやりわかる程度である。

 ・・・何かが動いているようには見えない。あれだけの声、4~5人はいるはずなのに、全く気配がしない。それともじっと息を潜めているのだろうか。 

 逡巡していると、西川さんが私を押しのけてずいっと前に出た。

「確かめれば済むことじゃないですか。」

 そう低く呟いて、強引に上がり込んでしまった。

「あ、ちょっと、何勝手に…!」

 根岸さんが慌てて押しとどめようとするが、あっさり押しのけられる。

「やましいことがないならいいでしょう!さあ大家さんも!」

 西川さんは、年老いた私の痩せた身体など簡単に引きずって行く。足をもつれさせながら廊下を…と言っても、せいぜい3歩4歩。根岸さんは諦めたように、玄関で立ち尽くしている。

 西川さんに促されるまま、廊下の突き当りにある扉に手をかける。

 ――ガチャリ。キィ…。

「ああっ!」

 そこには確かに人がいた。5人。だが…。

 そこにいた5人全員、『根岸さん』だったのである。同じ格好。同じ髪型、同じ顔。全員が一斉にこちらを向き、ゲラゲラとけたたましく笑い出した。

「うわああああああああああああああああああああああ!!!」

 西川さんも、玄関にいた『本当の』根岸さんも、多分突き飛ばして逃げた。多分、というのは恐怖の余りはっきり覚えていないからだ。エレベーターの前まで来たが、他の階に止まっていて、待っていられず階段から降りようとした。が、踏み外してしまった。ぐるりと回る世界。身体中に響く衝撃、痛み。その後は完全な闇…。


 目覚めたのは翌朝、病院のベッドの上だった。根岸さんが救急車を呼んでくれたらしい。幸い右足の骨折と全身打撲で済んだ。

 一方西川さんはどうしたのかと言うと、付き添ってくれた根岸さん曰く、

 「気付いたらいないんですよ。逃げたんじゃないですか?あの人変ですよ。…ところで僕の部屋に何かあったんですか?」

 ・・・どう返答したものか私は口ごもってしまう。そう言えば妙な事に気付いた。

 根岸さんの部屋に入った時、靴がなかったような気がする。部屋にいた5人分の靴。部屋に靴箱はない。それにあれだけの大騒ぎ、何故苦情は西川さんからしか来なかったか。他の部屋の住人は何故、何も言ってこなかったのか。

 ゾッとした。が、不思議そうな顔をする根岸さんに、よく覚えていないと嘘をつきとおした。

 彼が帰宅した後、こっそり携帯電話で西川さんに電話をかけてみた。身構えていたが、あっさり繋がる。

「ああ、大家さんおはようございます。どうしたんですか?」

「どうしたって…そっちこそ、あれからどうしたんですか!」

「あれからって?…ああ、そうだ、連絡忘れてすみません。」

 西川さんは心底申し訳なさそうな声で言った。

「先週から大阪に出張で留守にしていまして、明後日帰ります。」

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